第4話

 師匠と万葉が出会ったのは、三年前にこの店に来てからだった。その時、万葉はお一人様に慣れておらず、どことなく気持ちをそわそわさせながら入店した。


 人数を聞かれて、一人ですと言った時には緊張で震えていたのを、今でも覚えている。カウンターに通された時に、先に隣に座っていたのが師匠だった。


 ――こんばんは。今夜は月がきれいですね。


 ほほ微笑みながら声をかけてきた人物は、着流し姿に柔らかい物腰。落ちついた声音と所作に、万葉の緊張が一気にほぐれた。お一人ですかと聞かれてうなずくと、僕もですよと目を細める。


 会社での愚痴を聞いてもらい、名前のような苗字で怒られる理不尽さを吐き出すと、師匠は穏やかな表情で、ずっと黙って聞いてくれたのだった――。


 それ以来、お店に居合わせると何となく隣に座って話すようになり、そして今では週に二回、必ずと言っていいほど顔を突き合わせて一緒にすごす飲み友達となっていた。


 万葉が知っている師匠という人物は、年齢が四十二、泣きぼくろのある整った顔立ちに着物姿、そして書道教室の先生をしているということと、師匠という呼び名だけだ。連絡先も、住んでいる場所も知らないが、お互いに深入りすることはない。


 師匠と万葉は、気軽で後腐れのないさっぱりとした飲み友達だった。万葉が月曜日と木曜日に居酒屋に来るようになってからは、師匠もそれに合わせて足を運んでいる。


 だいたい師匠が先に来ており、万葉を待ちながら一杯飲んでいる。そして、二人で何を食べるかを決めて、食べて話をして帰る。そんなことをここ三年ほど、欠かさずと言っていいほどに繰り返していた。


「万葉さん、今日は何かありましたか?」


「わ、師匠はやっぱりすごいなあ。分かるんですか?」


「ええ、それは分かりますよ。いったい何年、万葉さんとお付き合いしていると思っているんですか」


 三年になりますと返してから、さすがだなと万葉はため息を吐いた。


「今日のクレームがこっぴどくて。私じゃ対処しきれずで、結局、新海に助け舟出してもらっちゃいました」


「また、苗字のことですか?」


 それに万葉はうなずく。下の名前のような苗字で受けるクレームは、万葉のヒットポイントを地味に減らす。謝ってくれるお客さんももちろんいるが、怒りをぶつけたいだけのお客さんの場合、ちょうど良い標的になってしまって、さらに怒りを増大させてしまうこともある。


「どうしてこう、早とちりするんですかね……苗字だと言っても、信じてくれない人もいて。私が嘘をつくメリットなんて一個もないって、なんで分かんないんだろう」


 新海が見せてきた中間成績の用紙は、認めたくないけれども万葉の心をえぐる。遠藤が入社して戦力となってから、万葉が遠藤の成績を抜いたことは、数えるほどしかなくなってしまっていた。


 クレームに発展した場合、時間をとても割かれてしまう。しかし、こちらから電話を切ることはできないので、愚痴を一方的に聞くことになるのだが、それが万葉の対応件数を減らし、仕事の効率を下げていることは事実だった。


 そして、それに対抗する術を、今のところ万葉は持ち合わせていない。苗字を嫌だと思ったことは無いのだが、この仕事の場合においては、ちょっと困りものだなと常々感じていた。

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