プロローグ

「――師匠、私と結婚なんて冗談ですよね?」


 目の前に座る、誰がどう見ても優男だと言える顔立ちの男は、食えない顔をしてニコニコとほほ笑んだ。


「人生自体が冗談みたいなものじゃないですか……ああそんな宇宙人を見る目で見ないでください。それこそ冗談ですよ。冗談で飲み友達と結婚するほど、僕だって相手に困る生活をしていません」


 目の前に広げられた一枚の婚姻届を前にして、万葉かずははしり込みするどころか、飲みかけていた熱燗を一気に飲み干した。


「万葉さんとだったら結婚したいんですよ、僕は」


「……酔ってるんですかね、私。師匠の言っていることが、ぜんっぜん意味わかりません。でも、どうせ人生一度きりだから、ちょっとはドラマチックな事やらないと……師匠だって老い先短いという噂ですし」


「老い先短いはちょっと凹みます。僕はまだ四十代です」


 困ったように穏やかな笑みを浮かべる男に向かって、万葉は後戻りはできませんよ、と息を吐くとペンを差し出した。


「師匠。嫌だって言っても、もうだめですからね、知りませんよ?」


「人生は何が起こるか分かりませんね。結婚自体はぶっ飛んだことではありませんが……万葉さんと結婚できるなんて驚きです」


 さらさらと美しい文字が書かれて、婚姻届の空白を埋めていく。心地よい筆致を見つめてから、万葉は最後に居酒屋のマスターに確認してもらった。


「では、これは僕が明日市役所に提出しておきますからね。よろしくお願いしますよ――奥さん」


 師匠はそう言うと、ニコニコといつものようにほほ笑んだ。

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