第3話 古い記憶の欠片

 天希と伊上が通されたのは旅館の離れだった。

 本館から渡り廊下を通って行き来ができるので、雨風などに晒される心配はない。


 行き来は楽でも、宿泊者しか出入りできないようになっており、廊下の手前でカードキーをかざさないと通り抜けができないのだ。

 入念なセキュリティに死角の少ない建物の周囲。思いきり要人専用の離れだと天希でも理解できた。


(昔はよく出入りしてたってことは、家族と? 家族も二ノ宮と同じ方面の人たちなんだろうか)


 もう四十代でいい大人。親や家族と縁遠くてもわりと普通だと思うが、思い至らないくらいその手の話題がなかった。

 しかし天希は伊上の私的な部分は彼が許さない限り、踏み込む気はない。


「スィートルームの和室版って感じだな。いや、普通に一軒家かも」


 キッチンやリビングがあり、寝室も別で畳にフロアベッドだ。

 風呂は内風呂と露天風呂がある上に、どちらもかなり広いので、わざわざ大浴場へ行く必要性を感じない。


 食事はすべて運んでくれるらしく、もはやここから出る必要性も――


 あらかた部屋の説明を――おそらく天希のために――してくれた女将は、どうぞごゆっくりと美しい笑みを浮かべて下がっていった。


「庭も広~! 雅だな。めちゃくちゃ紅葉が眺められる」


 縁側のガラス戸を開くと庭が一望できて、少しひんやりとした風に撫でられる。

 天希はおもむろに腰を下ろし、くつ脱ぎ石に置かれたサンダルを足に突っ掛けた。


 ぶらぶらと足を揺らしながら、そのままぼんやりしていたら、隣に伊上が腰を下ろす。


「昔からまったく変わらない景色だな」


「なんか思い出した?」


「もう二十年くらい経ったんだな、ということくらいかな」


「やべぇ、俺、二歳」


「きっとものすごく可愛かったんだろうね」


「目つきが悪すぎて心配だったらしい。……笑うなよ」


「想像したら可愛くて」


 思わずといった感じで吹き出した伊上をじとりと睨むと、彼は腰へ腕を回してきて、ご機嫌取りの如くこめかみや頬に口づけてくる。

 いつもの天希なら恥ずかしくて突っぱねるところだが、今日は伊上を素直にさせるのが目的だ。


「あまちゃんの子供の頃も、学生時代も見てみたかったな」


「写真で良ければ今度、持ってくる」


「あー、そっか。普通はそういうの残ってるものだよね」


「……あんたのは一枚もねぇの?」


「いまはもう撮ることないし、昔の写真は全部、燃えてしまったからねぇ」


「そう、なんだ」


 二十年前の記憶、すべて燃えてしまった写真、話題に上がらない家族。

 ふっと浮かんだ想像に天希は背筋がぞくりとした。


「あまちゃんがいま、想像したとおりだよ。僕が二十歳になった年に、ね」


 無意識に肩が震えたのだろうか。

 腕に力を込めた伊上に、天希は抱き寄せられ膝の上に載せられる。さらにはぎゅっと背中から抱きしめられて、黙って彼に背中を預けるしかできなかった。


「この旅館は僕の父親がひいきにしていたんだ。最後に来たのも秋だったかな」


「ここ、本当は来たくなかったか?」


「特にそういう感情はないよ。篠原のほうが気にして、いまならここくらいしかないですけどって、顔色窺われちゃったくらいだよ」


「篠原さんは長い付き合いなんだな」


「そうだね。あのあと側仕えとして選んだのが彼だし」


「あっ、あー、なるほど」


 天希は先日の志築の言葉を思い出した。伊上は良いものだけを持っていく――の意味がわかった。

 家族がいなくなって、二ノ宮の庇護下に入ったのだとしたら、おそらく篠原は志築の側近候補でもあったのではないか。


「あまちゃんは頭の回転が速いね。元々地頭がいいし、社員たちからあまちゃんを引き抜いてほしい、って声が多いみたいだよ。即戦力になるって確信されてる」


「へへへっ、見た目に寄らないってよく言われる」


「あまちゃんは法学部だったよね? 将来なにがやりたいの?」


「んー、文系だけど俺は数字も強いし、どこも成績や能力では問題なさそうなんだけどさ。見た目で落とされるパターンが多くて」


 面接時はもちろん髪を染めて、黒までいかなくとも茶色くして、ピアスホールも極力隠すのだが、顔面だけは隠しようがない。

 顔が少々強面なのは営業でない限り、仕事に大きく支障はないと思うものの、会社の印象云々など。


「見る目がないね。あまちゃんはこんなに可愛いのに」


「いや、そう思うのはあんただけかも」


 さすがに天希も自分の顔を見て可愛いとは思えない。

 成治あたりは格好いいと言ってくれるけれど、可愛いはないなと思わず何度も頷く。


「あまちゃんも見る目がないね。素直でまっすぐな性格が表れた瞳も、少しだけ自分に自信を持てない気持ちが表れちゃう表情も、可愛いよ」


「褒めてんの?」


「どこをどう聞いたら褒めていないと思うんだい?」


「うん? そうなのか?」


「そうだよ」


「……っ、んっ?」


 訝しげに首を傾げる天希にくすりと笑った伊上は、そっと指先を顎に添えてきて、ゆっくりとした動作で唇にキスを落とす。

 ぼんやりと伊上を見上げていた天希は、口づけられてから我に返った。


「ふぁ……んんっ」


 名前を呼ぼうとしたところでするりと侵入され、口の中をたっぷりと撫で回される。

 伊上とのキスが好きな天希は、気づけば一生懸命、自分から舌先を伸ばしていた。


 ぎゅっと伊上の腕を掴み、甘くて気持ちいいキスに溺れていたら、そのまま縁側に押し倒される。

 覆い被さってくる伊上へ腕を伸ばして、天希は目いっぱい広い背中に抱きついた。


 こんな半屋外でなにをしているのだろう。

 冷静に考えると普段ではあり得ない。だとしてもいまは非現実である。

 見知った人間がいない、二人だけの時間と思えば胸の奥がきゅうっとした。


 ああ、ようやく自分だけのものだ――なにげない日常の中では、独占欲など感じていなかったはずなのに、不思議と天希の心に狭量な感情が湧く。


「あまちゃん、可愛いね」


「あんた限定で」


「そう、僕だけなんだね」


「当たり前だろ」


 なにを当然のことを、と言わんばかりに天希が口を尖らせれば、伊上はやや困った表情になる。

 ここでなぜと疑問が湧くが、気弱になっているので仕方がないのかと、わざと大げさに天希はため息をついた。


「なんにもない日を過ごすのはいつぶり?」


「正直、もう覚えていないな」


「今日と明日は一切仕事せず、俺とゴロゴロするんだぞ」


「それは初めての経験かもしれないね」


「やった、あんたの初めてもらった」


 伊上の背中から首筋へ腕を移動させ、引き寄せるみたいに天希は抱きつく。

 強引な行動も仕草も、黙って受け入れてくれるたびに「愛されているなぁ」と実感ができる。


 普段なにげなく過ごし、組の人間たちの前で、伊上の背中をバシバシと叩いて顔面蒼白にさせた時もあった。

 伊上が大事にしている恋人、という認識はあっても、彼をぞんざいに扱うとハラハラしてしまうようだ。


 基本、伊上はいつものようにニコニコ笑っているだけだが。


「思いがけない初めてだけどね」


「ゴロゴロするのは人間、時には必要だ」


「あまちゃんとなら退屈せずに済みそうだね」


「晩飯までまだ時間あるし、どうする?」


「ここから少し歩いた所に、色々と店が出ている場所があるよ」


「伊上が行けるなら、行く」


「じゃあ、食前の散歩に行こうか」


 じっと見つめると迷わず頷いてくれた。

 久しぶりに来たので、顔を見知っている人は少ないだろうとのことだ。

 それでも念のためと伊上は用意していた伊達眼鏡を掛けた。


 スクエアタイプのフレームで、ダークグレーなのができる男っぽさを強調する。

 前置きもなくさっと掛けられたので、伊上に「行くよ」と声をかけられた瞬間、天希は思わず「ぎゃー」と奇声を上げてしまった。


「やべぇ、眼鏡の破壊力……侮ってた」


 以前、天希の眼鏡姿が良いと言っていた伊上を馬鹿にしていたが、間違いを訂正しなくてはいけない。

 好きな男の眼鏡姿は五割増しくらいなのは正しい意見だ。


「あまちゃん、大丈夫?」


「いや、全然大丈夫じゃねぇ。残したい、この貴重な姿」


 伊上としては思いがけない反応だったのか。

 驚きと心配が混在した顔をしている。しかしわかっていても胸をぎゅっと鷲掴みされた感覚に、天希は両手を口元に当ててこれ以上、奇声を発しないようにするので手一杯だ。


「撮る? 一緒に」


「いっ、いいのか! マジで? ほんとに?」


 これまでずっと写真に残すのを、伊上にやんわり拒否されていた。だというのにさりげなく発された言葉。

 天希が過剰なほど反応してしまうのは当然のこと。


 前のめりな天希にわずか苦笑しつつも「いいよ」と言ってくれ、伊上は自らスマートフォンを取り出してくれた。

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