第3話 本日の時間外労働

 いま、赤子のいる夫婦のような気分を味わっている。

 腹が減ったと泣きわめく子猫は伊上の手でミルクを与えられ、満足そうに喉を鳴らしていた。


 そんな様子を見ている天希は少しだけ不服そうだ。

 最初は彼がミルクをあげようとしたのだけれど、上手く行かずに子猫に拒否られてしまい、こうして伊上の手に回ってきた。


「伊上、慣れてんな」


「昔、世話をしたことがあるからね」


「ふぅん、贅沢な猫だな」


「あまちゃんもお世話してあげようか?」


 猫を手なずける伊上に嫉妬をしているのか、伊上の手ですっかり安心しきる猫に嫉妬しているのか。

 ふて腐れた顔をする天希に小さく笑った伊上は、彼の頬へ唇を寄せる。


「お預けをされたから落ち着かないんでしょう?」


「……あんたばっかり涼しい顔しやがって」


「心配しなくてもちゃんと続きをしてあげるから。もうちょっと待ってて」


 ご飯を食べて満腹になったあとはまたあくびをしてウトウトとし始める。

 タオルに包まれた子猫が大人しくなったのを見計らい、伊上は寝床を片付け用品類を鞄にひとまとめにした。


「なにしてんだ?」


「そろそろ迎えが来る」


「迎え?」


 訝しげな顔をする天希が首を傾げたのと同時か、インターフォンから来客を告げる音が響く。

 しばらく間を置いたのち、玄関と部屋とを繋ぐ扉が開かれた。


「こんな時間に猫を迎えに来いとか。人使いが荒すぎませんか?」


 現れたのは普段よりも幾分ラフな格好をした篠原だ。

 時刻は二十一時を回っているので、もちろん退社済みなのは理解していたが、伊上としては部下のプライベートより恋人との時間のほうが優先順位が高い。


 そもそもこうして文句を言っていても向こうも慣れたもので、無茶な要求に呆れつつもまとめられた荷物を確認している。


「この子ですか? ははっ、寝ぼけてますね。この色、ちょっと伊上さんぽいですね」


 新しい人の気配に気づいたらしく、子猫はもぞもぞとタオルから顔を出した。

 鼻先をつつかれながらも、眠気に抗えないのが赤子らしい。


「あっ、篠原さんも思った? 俺も見た時、伊上っぽいなぁって思ったんだよな。名前、コウちゃんとかどう?」


「やめてくださいよ。下の者が気軽に呼べなくなるじゃないですか」


「いいと思ったのに」


 しゃがみ込んで猫を眺めている篠原の隣に並び、二人で子猫を眺めている姿に伊上は若干イラッとした。

 顔を合わせる回数が多いのでお互いに気安いのは知っていても、これ以上貴重な時間を邪魔されたくない気持ちが大きくなる。


「篠原、さっさと二ノ宮の本邸に預けてきて」


「はいはい、わかりました。猫好きなくせに、天希さんが関わると他に容赦ないですね、相変わらず。ちび助、引っ越しだぞ。一日にあちこちとお前も大変だな」


 伊上の不機嫌を悟った篠原は言われたとおりさっさと荷物を担ぎ、子猫の入ったキャリーを片手に持つ。

 そしてそのまま部屋を出て行く前にいったん立ち止まり、振り向きざま「明日は午後からでいいですよ」と言葉を残して去っていった。


「伊上って、猫好きだったんだな」


「どちらかと言えば、ってくらいだよ」


「そういや猫用品を買うのにためらいなかったもんな。ほんとは寂しかったりして?」


「……いまここに、憎たらしいほど可愛い子猫がいるから、問題ないよ」


 からかいを含んだ笑みを浮かべ、四つん這いで近づいてきた天希に目を細めると、伊上は指先で彼の顎の下をくすぐり撫でる。

 しなやかで奔放な悪戯猫。すり寄るみたいに頬を寄せてくるので、顎先を掴んでぐっと引き寄せた。


「んっ」


 強引に唇を奪うと苦しげに眉を寄せはするが、すぐに天希は舌の愛撫に蕩けていく。

 次第に体勢を保てなくなったのか、体が揺らめいたのを見て伊上は天希を抱き上げた。


「今度は金色の子猫を可愛がってあげようか」


「俺は猫じゃねぇ」


 腕に抱いていた体を軽くベッドへ放り、そのあとを追って乗り上がれば、そわそわと視線が落ち着きなく動かされる。


「にゃーって鳴いてみて」


「はっ? 変態か!」


「やっぱりちょっと寂しいみたい。だから代わりにあまちゃんが子猫になって?」


「ぜってぇ嘘!」


 ぶわっと擬音が聞こえそうな勢いで真っ赤に染まった天希の顔に、思わず伊上はニヤリとした笑みを浮かべてしまった。

 気づいた天希は口をへの字に引き結び、睨み付けてくる。


 目元がキツいので普段の天希であれば凄みが出そうなものだけれど、こんな場面では可愛いとしか思えない。


「子猫ちゃん、ほら、鳴いてごらん?」


「いーやーだ!」


「しょうがないなぁ」


「あっ、ちょ、待て!」


「鳴かぬなら鳴かせて見せよう、ってとこだよね」


 油断しているうちに天希のスウェットを剥ぎ取ると、途端に焦りを湧かせた表情に変わる。

 ベッドで行為になだれ込めば彼の理性は容易く崩壊していくのだ。


 自分でもそれを理解しているのだろう。

 伊上が下着にまで手をかけたら、逃げの構えを見せた。


「あまちゃん、逃げるの?」


「うっ……」


 わざとらしく笑みを深くした伊上の顔を見上げ、言葉を詰まらせた天希は再び視線を揺らめかせる。

 恥ずかしくて言いたくない気持ちと、お預けにされたセックスとが天秤でぐらぐらしているのが、ありありと想像できそうなほどわかりやすい。


「言いたくなければ言わないでいればいいんじゃない?」


「ぐぅぅ……とか言って、最後には言わされてそうでやなんだよ」


 おかしな唸り声を上げて枕に顔を埋める天希を小さく笑い、伊上は抵抗の緩んだ体から衣服を剥ぎ取っていく。

 健康的な肌つや、程よく締まった体。明かりに照らされ剥き出しになった裸体に、伊上は無意識に舌なめずりをしていた。


 自身もシャツを脱ぎ捨てると、肩甲骨が浮き出た背中に口づけを落とす。

 触れた瞬間、肩が震えて、天希の首筋が赤くなっていくのが見えた。


 リップ音を立てて何度もキスを繰り返し、枕を掴む天希の手が震えた頃に味わうみたいに今度は舌を這わせる。

 徐々に上へと移動していき、赤くなった首筋を丹念に舐めたあと、やんわりとそこに齧り付いた。


「んっ」


 たまらずこぼれた声が甘やかだ。さらに誘うため、うつ伏せた体の下へ手を潜り込ませる。

 もちろんそのあいだも体へ贈る口づけは止めることはしない。


 枕でくぐもる声になおも甘さが増し、呼気は整わずに時折息を飲む様子がたまらなかった。

 欲に蕩けた顔が見たくなり、伊上は天希の体を仰向けに転がす。


 大して抵抗もできずに表情を晒した彼は、頬を赤らめ瞳を潤ませ、縋るような眼差しで伊上を見つめた。


「可愛い」


 半開きになった唇に食らいつけば、おずおずと伸ばされた天希の舌が伊上のものへ絡みつく。

 健気な動きに応えてたっぷりと唾液を滴らせると、伊上は最後にチュッと舌先を吸った。


 はあはあと荒い息づかいを繰り返す天希を見つめていたら、もじもじとしながら彼は指を噛む。

 瞳の熱は明らかに欲しがっているのに、恥じらう仕草をするのがどうしようもなく愛らしい。


 いつも天希は伊上に対しお互いで気持ち良くなりたいと言う。

 当たり前に伊上も天希の体で気持ち良くなりたいのだけれど、行為に至るまでの彼の反応や仕草を眺めるのもとても楽しいのだ。


 堕ちるところまで堕ちて、自分にしか手を伸ばせなくなる様子は非常に興奮させられる。

 性癖が多少歪んでいる自覚はあっても、天希が自分だけのものだとわかるだけで多幸感が満ちていく。


「こーいちっ、もうっ」


「まだ慣らしてもいないのに?」


 自身の昂ぶりより、もっと奥を求める天希がいじらしく膝を立てて見せてきた。

 最初から素質があった彼は近頃ますます淫らだ。


「じゃあ、そのままでいてね」


 一生懸命に頷く天希は伊上が背後の棚へ手を伸ばしたのを見て、期待のこもった目をする。

 素直すぎて可愛くて、思わず伊上がくすりと笑うと恥ずかしそうに目を伏せた。

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