第37話 あなたが好きです
血を飲んだからなのだろうか、夜の街の見え方が全然違う。
星空はいつもよりはっきりと見えるし、時折、夜行性の鳥らしきものが飛んでいくのも目で追うことができた。夜の街には暗がりなどなく、普通だったら完全な闇の色に覆われるだろう影の部分でさえ、昼間のよう。身を隠すように歩く猫の姿も、その足音さえはっきり聞こえる。
ほんの少し意識を集中しただけで、どこに人間の気配があるのかさえ解る。
五感が研ぎ澄まされるということはこういうことか、と辺りを見回していると、離れた場所にある飲み屋から出てくる人たちの会話すらすぐ横で聞こえるような感覚。逆に、聞こえすぎるような気がして慌てて感覚を遮断した。
そしてふと、そんな俺を観察するように見つめているミカエルの姿が目に入った。
すん、と我に返る俺。
「……ええと、お時間を取っていただき、その」
引きつった笑みを浮かべながらそう声をかけると、大天使が嬉しそうに微笑んで俺の手を取った。
「こちらこそ、光栄です。あなたと二人、こうして隣り合って歩くだけで、世界が変わったように思います」
やめろ、重い。吸血鬼の目は繊細なんだ、そのキラキラオーラもナイフのように突き刺さってくるし、サングラスもなくて避けられないから勘弁してくれないだろうか。
「母から聞きました。名乗ったようですね、うちの母……」
俺の手を引いて、すれ違う酔っ払いからさりげなく守るようにしてくれながら、ミカエルが歯切れ悪く言う。
「ええと、はい」
俺も、少しだけ何て応えるか悩むが、もう迷っている場合ではない。「正直に言いますが、王子様とか俺……わたしとは身分が違いすぎますし、節度ある距離を保たせていただこうと思ってます」
「節度ある?」
「はい。我が女神とか言われるのはちょっと……勘弁して欲しいというか」
「しかし、私は本当にあの時、女神が降臨されたのだと思ったのです」
そこでミカエルが俺の腕を引き、自然と俺たちの足が街の大通りでとまる。懇願するような綺麗な顔が目の前に寄せられて、思わず悲鳴を上げそうになった。
「重い!」
つい、悲鳴の代わりに本音が出た。
「命を助けていただいた、それだけでも充分ですが、それ以上にあなたの目に興味を持ちました」
「目?」
俺はやっとそこでミカエルの手を振り払い、少しだけ距離を置いて立つ。通りすがる酔っ払いの視線が気になったからだ。酔って陽気になっている人が多いようで、「カップルかー?」とか野次を飛ばしてくる奴もいる。
「あなたも、そしてあなたと一緒にいるあの男性も、とても人間とは思えないくらい美しいと感じました」
「おい」
素で突っ込みをいれようとして、すぐにミカエルに遮られる。
「私がもし、呪いをこの身に受けていなかったら、もっとあなたに感じるものがあったかもしれない。母のように、何か言えたかもしれない。しかし残念ながら、今の私は何の力もない存在です。それでも、あなたを初めて見た時にこの世の存在ではないのだろうと思いました」
「……何故?」
「さあ、勘でしょうか」
ミカエルはそこでまた俺に近づき、歩こうと促してきた。とりあえず、さりげなく距離を置いて歩き始めると、小さな笑い声が聞こえる。
「死んだ人間を生き返らせることができる。これだけでも理由の一つです。でもそれ以上に、あなた方は異質だった。私には手の届かない存在だと思った。それなのに、あなたの目が――あまりにも人間らしすぎたというか……自分を見ているかのようでした」
……何だそりゃ。
俺が眉間に皺を寄せてミカエルの横顔を見上げていると、いつしか彼の口元から笑みが消えた。
「これは母にも言いにくいことなんですが」
少しだけ暗い響きの声が、静かな夜の街に響く。「私、頭空っぽのお気楽な男に見えるでしょう?」
自分で言った! と、顔が引きつる。
まあ事実、そう見えるけれども。
「敵しかいない王宮では、馬鹿を演じなければ身を守れなかったんですよ」
急に重くなった。
俺は低く唸りながら言葉を探すが、どうしても見つからない。
「母は精霊の加護を受けているとはいえ、平民です。その平民から生まれた自分もまた、王族の血を引いているとはいえ、上の兄二人には随分と邪魔者扱いされましてね。当然のように毒は盛られるし、嫌がらせが多くて」
「嫌がらせってレベルじゃ……」
「自己嫌悪に陥るレベルでしたね。自分を守るために他人に媚びを売る毎日で、さらに厭なものを見すぎたせいか、人間不信になりましたし」
そこで、ミカエルは俺を見下ろしながらそっと目を細めた。背筋が冷えるような感覚。
「そんな自分の目と、あなたの目が似ていると思ったんですよ」
「え?」
「演技をして身を守り、それでいて誰かを攻撃したいと考えている自分とよく似ていると」
何を言っているんだ、と思ったのはほんの一瞬で。
確かに、彼の言う通りなんだと心臓が厭な音を立てた。
『秋良はいい子だもの、解ってくれるわよね?』
あの女の――母の声が頭の中に響く。纏わりつくような、粘ついた甘い声だ。甘えるように、それでいて威圧するように。
幼い頃から、母は俺にだけ優しくした。必要なものは何でも買ってもらえた。
まるで恋人のように振る舞う醜い女。
でも俺は、それを利用して生きてきたんだ。
親は子供を養うもの。そう思っていたから、あの生活も我慢してきた。逃げようと思えば逃げられたんだろう。
カオルは高校生の時からバイト三昧で、お金を貯めていた。俺なんかよりずっと、生きることに貪欲だったと思う。それしか道がなかったからだ。
でも俺は、母親とのあの生活を大学卒業まで我慢することを選んだ。その方が楽だったから。俺は――汚い人間だと思う。
演技。
そうなんだろう。俺だって、できるだけあの家で波風が立たないよう、上手く演技してきたつもりだ。就職するまでの我慢、そう言い聞かせて――。
でも一歩間違えたら、とんでもないことを起こしていた。
――何で咲良だけ差別するんだよ!?
そう叫びながら、俺は何を手に持ったんだろう。テーブルの上にあった皿? 散らばった料理。あの女の悲鳴と、俺の腕にすがり付いた咲良の震える腕。
「お兄ちゃん、わたしは大丈夫だから!」
そう泣いた咲良の声に、俺の叫びが重なる。
「咲良だって大学に行きたいって言ってんだろ!? 何で!」
「女だからよ! 役立たずの女なんか、この家にいらないでしょ!?」
「あんただって女のくせに!」
あの時の記憶は曖昧だ。父さんはいなくて、俺たち三人だけだった。
サクラがとめてくれなければ、俺はもしかしたら――。
カッとなって、とか。
犯罪の動機によくある言葉。
一歩間違えれば犯罪者、殺人者。そうなってもおかしくないということを経験して、俺は怖くなった。真面目に生きてきたつもりだった。悪いことはしないで生きていくつもりだった。でもそんなの、いざとなったら簡単に消し飛んでしまうくらいの、薄っぺらいものだったんだ。
あの後、少しだけぎくしゃくした。母は俺を腫れ物に扱うようになって、『俺のために』咲良の大学費用を準備してあげる、と言い出した。怯えたように笑う顔。
俺はありがとう、と笑った。
あれも演技だ。ちっとも、ありがとうなんて思えなかった。俺は差別をやめろと言いたかったんだ。咲良にも優しくしてくれと言いたかったのに。
「お兄ちゃん、お母さんに言ってくれてありがとう」
こんな俺に対して、咲良は感謝の言葉をくれた。でも、後ろめたかった。結局、母は俺しか目に入っていないのだから。
誰だって、誰かに好かれたいと思うだろう。
でも、あんな歪んだ形の愛情はいらない。
俺はもっと普通の――。
「普通の、家庭に育ちたかった……?」
俺の口が勝手に動く。
「そうですね。王家とかそんなもの、いらなかった。母だって普通の家で普通の生活がしたかった。だから、逃げたかったし、逃げたんですよ」
ミカエルがそう言って、『目が似ている』という意味を理解した。
理解してはいけないんだろうが、解ってしまったのだ。
ミカエルと俺は、歪んだ部分が似ている。
そういうことだ。
「同族嫌悪、という言葉がありますよ」
俺はやがて、そう言ってみた。「似たもの同士というのは、受け入れがたい部分が必ずあると思います」
「それは、人間なら必ずあるでしょう?」
ミカエルはそこで、小さな歓声を上げた。
いつの間にか、俺たちは大広場とやらに到着していたみたいだった。大きな噴水は、夜の間でも水が流れている。空に浮かんだ二つの月の光を浴びて、キラキラと水が反射する様は確かに美しいし、それを見に来ている人も俺たちだけじゃないみたいだった。
「綺麗ですね、我が女神」
「その呼び方はやめてください」
「アキラ様」
「それなら何とか」
「これからずっと、呪いが解けたとしても、一緒に旅をしてもらえませんか? 私は精霊魔法が使えれば、とても有能な剣、盾となれます。あなたのために戦いたいし隣にいたい」
それは無理だ、と言う前に大天使は俺の手を取り、口元に引き寄せようとした。逃げたけど。
「あなたが好きです、アキラ様」
俺は多分、変な声を上げただろう。言われたくなかったことを直球で投げつけられたわけだから。
でも、相手が直球なら、俺も直球で返すべきだろう。
必死に呼吸を整え、彼に挑むように強く発音する。
「無理です。多分わたしは、誰も好きになれない。それに、いつかこの世界から消える存在ですから一緒にはいられません」
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