第三部(前編)
序章・紅景
それは
四〇年ぶりに実施されることになった東京遠征。新宿を中心に半径五〇kmもの広大なエリアを取り巻く巨大な
数日後、退屈していた彼女はマーカスを脅し、地上まで連れて行かせた。母の目を盗み、軍の検問も欺いて地下都市を脱出したのだ。方法はいたって単純。大きなバッグに隠れて運んでもらっただけ。
七歳だからこそできたことではある。だが、そもそも作戦の肝は人選で、協力者選びを間違わなければそれでいい。馬鹿ほど物事を複雑にしたがる。あらゆる状況、全ての生物の意識には盲点があり、そこさえ突けば騙くらかすのは簡単なのだ。
初めて見る地上の風景は、少女の好奇心を大いに刺激した。生命力に溢れた森。地下で光ファイバー経由の貧弱な日差しか浴びて来なかった植物達とは、雰囲気からして大きく異なる。
昆虫の数も遥かに多い。図鑑でしか見たことの無かった様々な生物。頭上に覆い被さる梢の合間から覗く空は晴れ渡っていて、雲一つ無い気持ち良い天気。昔の人ならこんな日には、きっとピクニックをしただろう。自分達もいつかは記憶災害に怯えず、自由に地上を散策できるようになる。
「見てなさい、アタシがそうしてやるから」
胸を張って宣言した。
「ったく、かなわねえな、朱璃大先生にゃよ」
落ち込んでいたマーカスもやっと顔を上げる。彼は本来なら調査隊の一員として東京へ行くはずだった。だが直前に辞退してしまった。本人は情けなくも臆病風に吹かれたからだと言っている。そんな自分を恥じ、仲間が出発して以来、延々と塞ぎ込んでいた。
「ったく、気にしないの。母さんが言ってたわ、しかたないことだって」
マーカスはベテランだ。死亡率の高い特異災害調査官の仕事を一五年続けてきた。生存能力の高さは優秀さの証。慎重であることも、調査官にとって恥じる素養ではない。
むしろ彼が無謀なのだと、父の背中を見送る時、母はそう言っていた。
朱璃も同感である。今はまだ、そうすべき時ではないはずなのだ。
けれど、世論がこのまま静観し続けることを許してくれなかった。とうの昔に耐用年数を超過してしまった地下都市は年々限界へ近付きつつある。当然、地上への回帰を求める声は高まる一方。
女王である祖母は母や朱璃と同じく時期尚早だと思っている。だが、同時に民の意見を無視し続けることもできない立場にあった。
『つまり我々は、竜を倒す術を見つけなければなりません』
地上へ再進出するにあたり、最大の障害となるものは、やはり竜。体内に抱えた高密度魔素結晶から無尽蔵に魔素の供給を受け、尋常ならざる攻撃能力、防御能力、再生能力を発揮する理不尽な怪物達。
あれらを倒すのに現行兵器──銃や刀剣、せいぜいが投石器──程度ではどうにもならない。どれだけダメージを与えても瞬く間に回復されてしまう。もちろん体内の魔素結晶、すなわち“竜の心臓”を破壊することができれば打倒は可能だ。旧時代の記録に自衛隊が総力を挙げ、その方法で三体の竜を撃破したというものがある。
しかしそれは、たった三体を倒すためにありとあらゆる手段を用い、ようやく相打ちに持ち込めた。そんな話でしかない。旧時代より遥かに劣る現在の戦力で同じことは不可能だし、あまりに非効率的。
罠を仕掛けるのも手だ。むしろ、歩兵に頼るよりそちらの方が現実的。けれど敵の種類は多彩で、その全てに対応させることは難しい。空から、地中から、海から、ありとあらゆる環境から襲って来る種々様々な怪物共に柔軟に対応するとなると、やはり人間の手と知恵が必要になる。
理想は罠と人、どちらかが確実に敵の足を止め、もう一方が“心臓”を破壊する。そういう手法の確立。それも出来る限り被害を出さず迅速に敵を仕留める必要がある。例えば確実に竜を倒せる方法を見つけたとして、それが人命と引き換えにするような作戦ならば論外なのだ。
──人道的見地からの意見ではない。人的資源がもったいないという意味である。敵は頻繁に襲って来る。なのに鍛え上げた兵士にぽんぽん死なれていたら、すぐに人材不足に陥ってしまう。
だから祖母は、東京の再調査を行うと決めた。
竜を倒すには、奴らのことをもっとよく知る必要がある。敵を知り己を知ればという話。百戦危うからずなどと贅沢を言うつもりは無い。八割に無傷で勝ち、残りの二割でも被害を減らしたい。父はそう言っていた。そのために東京へ行くのだと。
伝承によると、あの地には“消えない
しかし、もしそんな
『例の“巨竜”が本当にいたら、生態を調べることで他の“竜”を倒すヒントを得られるかもしれない。仮に失敗したとしても、実在さえ確認できれば東京に近付いてはならないという先祖の教えが正しかったことは証明できる。だろ?』
──父は笑い、母は断るべきだと言った。結局、彼は引き受けた。父もやはり地上への回帰を望んでいたから。極めて難しい話なのは承知の上で、それでも彼は、困難な事業を我が子の代に押し付けたくなかったのだと思う。
(無事に帰って来てよね……)
この時の朱璃には、まだ“恐怖”を感じることができた。父を“失いたくない”という気持ちがあったから。
対象が大切であればあるほど、喪失しかねない状況に陥った時、比例して恐怖心も増大する。ただし、人によって物事の優先順位は変わり、何に対し恐れを抱くのかは、やはりそれぞれで異なる。
祖母は王国の内部分裂を恐れ、父は未来に難題を残すことを恐れた。母は父を失うことを恐れていて、マーカスの場合、自身の生命が何より大切だった。それだけの話。
「生存欲求は誰しも持ってるものでしょ。本能を恥じる必要なんか無い。それが無ければ進化や繁栄なんてありえないもの。アンタは正常な精神の持ち主で当然の選択をしたってだけ。さっきアタシに脅されて従ったみたいにね」
「……ったく、本当に七歳児かよオメエは」
朱璃なりの励ましの言を受け取り、久しぶりに笑うマーカス。
彼女も、父の友人が笑顔を取り戻したことで破顔する。
けれど、そのマーカスの笑みが突如強張った。
「何?」
振り返った朱璃も、驚いて大きく目を見開く。
遥か彼方、南の空を真っ直ぐ駆け上がっていく赤い光があった。その光はかなりの高度で突然静止したかと思うと、さらに大きく膨れ上がり、強烈な輝きを放つ。
不吉な赤光は二人の脳裏に存在しないはずの記憶を蘇らせた。
天井の無い空の下、無数の高層建築が立ち並ぶ、かつての東京。その街を破壊しながら暴虐の限りを尽くす巨大なドラゴン。
遺伝子に刻まれた“崩界の日”の恐怖。
それを象徴する光景。
だから直感的にわかった、あれがそうなのだと。一度は初代王に倒されたはず、なのに復活して東京に巣食った生物型記憶災害第一号。唯一、一〇分間の維持限界を超えてなお存在し続ける最悪の怪物。
シルバーホーン。
赤い光はさらに膨れ上がり第二の太陽と化した。地上からその巨体を追いかけるように吸い寄せられた膨大な量の魔素が二重螺旋を描く。
青かった空全体が赤く染まった。
そして──光が二つに分裂し、一方が地上へ放たれる。
朱璃は無意識に、その光の方へ走り出そうとしていた。だが、マーカスは彼女を抱えて逆方向に逃げた。
「ダメ! マーカス、父さんが!?」
「わかってる!!」
彼はそれ以上何も言わず、必死の形相で走り続け、福島の入口に辿り着く。厚い鉄扉を叩いて中の兵士達へ告げた。
「退避! 今すぐ退避しろ! オレ達も中に入る、開けてくれ!」
朱璃の姿を見て慌てて開けてくれた彼等と共に旧エレベーターシャフトを取り巻く
やがて、凄まじい衝撃が大地を揺るがす。
「うわああああああっ!」
「なっ、なんだ!?」
「地震か!?」
倒れないよう壁に手をつき、あるいはしゃがみこんで耐える兵士達。一人は耐え切れず坂を転がり落ちた。それを見たマーカスは朱璃を庇いつつうずくまる。
彼の腕の中で、彼女だけは違和に気付いた。これは地震なんかじゃない。あの光が東京に落ちて爆発し、衝撃波がこの地まで到達したのだ。もちろん旧時代の最強兵器・核爆弾を使ったとて、ここまでの破壊力は生み出せないだろう。
つまり、あの怪物は核以上の火力を有している。
しばらくして揺れが収まった後、朱璃はマーカス達を伴い、再び地上に出た。本来なら一旦報告に戻るべきで、上の状況を確認しに行くにしても、幼い彼女を伴っていいような状況ではない。
けれど絶対に行くという彼女の気迫に、その場の全員が圧倒された。
地上へ通じる扉は歪んでしまい開けるのが困難になっていた。なかなか開かないそれにマーカス達が四苦八苦しているうち、地下にいた者達も上がって来る。その中に母の姿もあった。
「朱璃、無事だったか!」
けれど、寸前で躊躇い、足を止めた。
「朱、璃……?」
「開いたぞ!」
歪んだ鉄扉が取り外され、道が開く。朱璃は真っ先に走り出し、地上を目指した。呆気に取られた大人達が動きを止めている間に、再び南の空が見える場所まで辿り着く。
「どうしたんだ朱璃! 危ないから母さんと一緒に──」
「……ッ!!」
奥歯が軋む。目が充血する。髪が逆立つ。
追いかけてきた母が彼女の顔を覗き込み、息を呑んだ。まだ幼い娘は憎悪に満ちた眼で彼方の光を見つめている。
空はまだ赤く燃えていた。周囲の木々は通過した衝撃波によって薙ぎ倒されている。
きっと誰も生きてはいない。この状況で父が生存しているわけがない。そう確信できてしまうほど彼女は賢く育ってしまった。
だから頭の中では、これからどうするかを、すでに決めていたのだ。
「殺してやる……絶対に、アタシが殺してやる……!」
この世界で最も大切なものを奪われた。
なら、こっちも奪ってやる。
お前の大切なものを奪い取り、踏み躙り、破壊する。
「シルバー……ホーン!」
なんの偶然か、父から貰った髪紐が切れた。真っ赤な空の下、正面から吹いて来た風が長い髪を炎のようにたなびかせる。
怒りと憎しみに滾る我が子を、緋意子は困惑しながら見つめていた。
その瞳の奥には、微かな恐怖が揺れていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます