第42話 顕現 deus ex machina(第三章 完)

 ——〝神は死んだ〟


 ニーチェがそう言ったとき、確かに世界にはまだ神が実在していたのだろう。


 しかしニーチェが死んで百年以上が過ぎた今、この世界には既に神はいない。彼が理想とした超人でさえ、人類は至る気配がない。


 ニヒリズムにおちいった僕の日々は永劫えいごうに堕落し続ける。成長を伴わない回帰かいきを抜け出せる日は来るのだろうか。


 いや、それは難しい。


 複雑に絡み合った糸を解きほぐすためには超常的な力が必要だ。


 例えば、世界を放浪する民が神の言葉に救いを求めたように。


 例えば、舞台上ではしばしば機械仕掛けの神デウス・エクス・マキナが必要とされるように。


 破綻してしまった僕の世界をめちゃくちゃに破壊してくれるような。


 あるいは、そんな存在がいまの僕には必要なのかも知れない。


 そして現状、そんな存在に最も近しいモノといえば、やはり〝魔王の残滓〟に違いなく、だからこそ僕は心密かに待ち望んでいるのである。


 僕ら人類ではどうにもならない強大な敵の出現を。


 僕の生きる世界をリセットしてくれるような天災の到来を。


 そんな身勝手な空想を、僕は未だソラにえがき続けている――。



 薄暮はくぼと呼ぶには明るく、夕暮れと呼ぶには暗すぎる空の下で、僕らは透明な時間を過ごした。


 十月も終わりに差し掛かった秋は肌寒い。冷たい雨を乗せた風はうなりを上げて僕らの身体を震えさせている。


 鼓膜を叩く音は激しさを増し、いつの間にか雨水あまみずが僕らの足元にまで届いていた。


 役目を放棄した排水溝が渦を巻くことすら忘れて沈黙している。しかしそれでも薄く続いていた流れに目を向けていた僕は、そこにいたある存在に気づいて目を止める。


 地中から出たところを水にさらわれたのだろうか。一匹のモグラが流れの中で溺れまいと懸命にもがいていた。バシャバシャとその小さな手を動かして、なんとか流れてくる枯れ葉に掴まろうとするけれど、支えきれるわけもない。


 自然という名の脅威に対して、彼の力はあまりにも無力だった。


 徐々に彼の抵抗を示すしぶきが弱まっていき、やがて完全に止まった。もう二度と彼が姿を見せることはなかった。


「……」


 あるいは世界の最期を予見させるような光景に、僕は深いため息をついた。


 止まない雨は絶望の前触れなのだろうか。


 僕はベンチから立ち上がると、東屋あずまやの端まで歩いていった。そして目の前に広がる空を見上げ、分厚い雲の向こうを幻視する。渡り鳥が優雅に揺蕩たゆたう空。太陽と月が交わる夕暮れ。何もさえぎるものがない世界は、きっと優しさで満ちている。


 僕はそんな世界の姿を想いながら、彼女の言葉を思い出していた。


 ——だからわたしはいちばん好きな世界の姿を描いたの。守られるべき世界の姿をね。


 あの時、彼女はそう言って僕らの視線を釘付けにした。毅然きぜんとした目で、けれどどこか悲しみを内包した瞳で彼女はまるで神様にように僕らの世界を見ていた。その姿は今も僕の心に焼きついている。


 しかし今。現実に広がっているのは曇天の空。大地を覆い尽くしてもまだ飽き足りないと叫ぶ雨。付属する感情は世界を暗闇へと変貌させている。


 彼女がただ願ったわずかな理想さえ、僕らは満足に守れていない。


 そんなことを今更のように思う。


 だけど、何をすればいいのだろうか。


 何をすれば良かったのだろうか。


「……帰ろうか」

「……うん」


 僕が振り返ってエリに目を向けると、彼女は泣きはらした目を真っ赤に染めて僕を見ていた。迷子の子どものような目。僕はエリの手をとってベンチから立ち上がるのを助ける。その温かい手を握りながら僕はこれからのことを考えた。


 僕が何をするべきか。きっともう風でさえ知っている。


 みんなに謝ろう。そしていつまでも足掻あがき続けるしかない。足掻いて、足掻いて、足掻き続ける。そんな単純なことでしか、僕らは前に向かって歩けはしないんだ。


 淡い宝石のような光が指し示す未来へと向けて、僕らが一歩踏み出そうとした、その時だった。


「——あっ、もう帰っちゃうんだ?」


 誰かが声をかけてきた。


 僕らの背後、雨がけぶる中に、ひとりの影が立っていた。むろん影というのは比喩でしかなく、実体を持ったその人は薄く微笑むように明るい声を出してくる。


「いいの? これからが面白くなる時間なのに」


 まるで口裂け女のような真っ赤な傘に遮られてその表情は見えない。


 僕らがいぶかしげな目を向けていると、その人は東屋まで入ってきて傘を下ろした。あらわになる顔。


「え……」


 そして僕らは息を呑んだ。


 いるはずのない存在がそこにはいた。


「お、ねえちゃん……?」


 呆然ぼうぜんと呟かれたエリの言葉に反応し、その人物は優しく笑いかけてくる。


「久しぶりだね、エリ。元気にしてた?」


 朗らかに問いかけられた声。しかしエリの表情は蒼白そうはくだ。


「だ、だれ、あなた……?」

「えー酷いなぁ、お姉ちゃんのこともう忘れちゃったの? ふふっ、だとしたらエリの記憶って、雪の結晶よりも早く溶けちゃうんだね」


 皮肉のこもったセリフ。だけど、どこか彼女が使いそうな表現。


 それはエリも感じたのだろう。動揺し後退あとずさる。


「そ、そんなはずない……! だって、だってお姉ちゃんは……!」


 見るからに混乱していくエリ。僕は彼女をかばうようにして前に出た。


「……いったい、きみはなんだ?」

「ふふ、ホントにわからないの? わたしだよ、わたし」

「……残念だけど、僕には詐欺師の知り合いなんかいない」


 僕がそう言うと、その人は笑った。この場には似つかわしくない快活な笑い方で。けれど懐かしくて涙が出そうになる笑い方。そのことに、僕の心は気づいてしまう。


「変わらないなぁキミは。本当はもう理解してるくせに。わたしが誰かって、そんなの決まってるでしょ?」

「あり得ないよ。彼女は死んだんだ」

「そうだね。確かにわたしは死んだのかも知れない。でもね、よく考えてみて。キミは知っているはずだよ。わたしが今ここにいる可能性を」

「……どういうことだい?」


 僕が眉をひそめて問い返すと、そいつは口元をゆっくりと曲げた。


「さて問題です。今ここにいるわたしは何なんでしょうか?」


 そして親指、人差し指、中指と、順に三本の指を立ててくる。


「一。実は死んでいなかった」


 ひどい雨。


「二。すっごく似た別人」


 風が僕らの間をツバメのように吹き抜けていく。


「三。——」


 と、そいつが三つ目の可能性を告げる前に、甲高い音が辺りに鳴り響く。


 音源は端末からだった。僕のものと、エリのもの。両方から鳴っている。


 僕らがためらっていると、そいつは笑った。


「取らなくていいの? エマージェンシーコールだよ?」

「……」


 どうしてこの音がエマージェンシーコールだと知っているのか。


 その意味を探そうと、脳が限界を超えた演算を開始する。だけど今は余計なことに脳の容量をくわけにはいかない。


 飛躍しようとする思考を必死に抑えつけた僕は、目の前の人物から視線を逸らさないよう注意しながら端末を手繰たぐり寄せて、耳元に当てる。


「……はい」

『――逃げて幸人!! そこから早くッ!!!』


 いつも冷静なエリックの、初めて聞く慌てた様子に、僕は確信する。


 目の前の存在が、やっぱり奇跡の結果ではなかったことを。


「……」


 静かに腕を下ろす。端末からまだなにか聞こえているけれど、持ち上げる気力はなかった。


 そして、僕はを見る。あるいは、世界を冒涜ぼうとくするようなその存在を。


「……きみは」


 瓜二うりふたつの存在。


 エリックの様子。


 もしも。


 もしもそのふたつに関係があるのだとしたら、それはきっと――。


 ——残酷な世界の選択を反映したものに違いなかった。


「……きみは」


 僕は深くまばたきをしてから言った。間違っていて欲しいと願うように、遠い秋の夕暮れを心に想いながら。


「……きみは、〝残滓〟なんだね」


 はゆっくりと笑みを深めていた。

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