第3話 一緒に帰ろ
「それだけで足りるのか……」
ちょこんと、ミニきつねうどんが一杯。
女子とはいえいささか少な過ぎる食事に、京介は思わず呟いてしまった。
「普段は野菜中心だけど、今日は炭水化物とってもいい日だから」
と言って、ちゅるちゅるとうどんをすすった。体型維持も仕事のうちなのだろう。見上げたストイックさだなと、京介は素直に感心する。
京介もゆっくりと食べ始めるが、あまり口が進まない。
理由は、周囲からの視線だ。
この空間にいる多くが、一度は彼女に視線を配る。間接的に注目を浴びているような気がして、あまり気持ちのいいものではない。
「美味しくないの?」
綾乃は首を傾げそう言った。酷く難しい顔をしていたせいだろう。
「いや、別に……」
「うそ。絶対美味しくないんだ。そんな顔してるし」
「生まれつきこんな顔だ」
「もう、仕方ないなぁ」
言いながら箸を置き、その手を京介に差し出した。
見ると、彼女のうどんが入っていた器は既に空になっていた。
「食べてあげよっか」
ちょいちょいと指を動かす。スプーンを寄越せと言いたいらしい。
「……佐々川さんが食べたいだけだろ?」
「ち、違うよ! ほら、お米の中には七人の神様がいるっていうし! 残すのはもったいないかなーって」
「自分で注文しろよ。僕のをとらなくてもさ」
「それは……何かこう、大義名分がないと罪悪感が、その……」
「やっぱり食べたいだけじゃないか」
彼女をストイックだと評したが、存外にガバガバなようだ。
食欲は三大欲求の一つ。責められた話ではない。
京介は大きな口を開けて、カレーライスを口内へ運ぶ。米からルウから、カレーは炭水化物の塊だ。さぞ羨ましいようで、綾乃は飢えたチワワのような顔でこちらを見ている。
「……あー、食べきれそうもないなー。ひと口だけ誰かに食べて欲しいなー」
「は、はい! 私が食べます!」
京介の棒読み丸出しなヘルプに、綾乃は今にも飛び掛かりそうな勢いで手を挙げた。
このまま皿を空かすのは良心が痛む。何より見つめられたまま食事をするのは気分が悪い。
「じゃ、いただきます」
それは、ひと口と呼ぶにはあまりにも大き過ぎた。
もぐもぐ、はふはふ。口内の熱気を逃がしながら咀嚼する綾乃の口の周りには、米粒が二つ付いていた。常人ならただ間抜けなだけだが、それが彼女だと自然と絵になる。
「ったく」
全体の三分の一をもぎ取られた皿を返してもらいため息を漏らした。
さて食事再開だとスプーンを手に取り、はたと思う。
(これって……)
綾乃が使った食器を使い回すというのは、つまりそういうことだ。
無意識のうちに、彼女の唇に目がいった。朱色の舌先が、チロリと残ったルウを舐め取る。
その様に、自然と頬が熱くなった。何を気持ち悪いことを考えているんだと、胸の内で照れる自分を叱責する。
(流石は陽キャ。お構いなしか)
そのスプーンは、元は京介が使っていたものだ。綾乃もそのことは承知のはずだが、まったく気にしている素振りを見せなかった。
中学生の頃、クラスの美男美女がジュースの回し飲みをしていた。ああいった階層の人間にとっては、造作もないことなのだろう。
「……これ、残りも食べていいぞ」
「えっ。本当?」
潔癖、というわけではない。
関節キスだと意識しながら何事もないように食事を行うのは、京介にとってハードルが高過ぎる。ならばもう、全てあげてしまった方がいい。
「藤村はもったいないよね」
「何が? おだてたってもうカレーはないぞ」
「そんなつもりないよ。ただ、みんなと話さないしさ」
「別にいいだろ。僕と話したって、誰も得しないし」
「ええー? 私は楽しいけどなぁ」
「……いいって、お世辞は」
少々棘のある声音で返すと、綾乃は顔色に僅かな陰りを見せて目を伏せた。
「佐々川さんには友達がたくさんいるんだから、僕なんかに絡まなくてもいいだろ」
じわじわとフェードアウトする予定だったが、もうこの際だと若干やけくそ気味に言った。
声が震えていた。手汗が尋常ではない。彼女の顔が見られない。他人に対し、こうも感情をぶつけるのはいつぶりだろう。
「えっと、じゃあ、そういうことだからっ」
京介は席を立ち、その場から逃げ出した。
これでいい。少し話してわかった、綾乃はいいやつだ。こうして突き放したからといって、周りに悪評をばらまくようなことはしないだろう。
「……」
彼女の良心に漬け込んでいるようで、気分が悪くなってきた。
重たい頭を引きずって、保健室に駆け込む。ベッドに身体を預けて瞼を落とすと、いつの間にか放課後になっていた。
一度は止んだ雨が、再び息を吹き返していた。
ひとまずカバンを取りに教室に戻ると、二人の女子がお菓子を広げて駄弁っていた。普段、綾乃がよく話している二人組だ。彼女らは京介を一瞥すると、何だあいつかとどうでもよさげに談笑を再開する。
「佐々川さんってさ、何かうちらのこと下に見てない?」
「あー、わかる。壁作ってるっていうかさ」
カバンに伸ばした手が、ピクッと止まった。
京介は彼女らに視線を向けた。スナック菓子を摘み、指についたカスを舐め取る動作が、嫌に気味悪く映った。
「ブスのくせにムカつくよねー」
「ほんっとね。何様だよって感じ」
カバンを持ち、急いで教室を出た。一分一秒でも早く、彼女らから離れたかった。
頭の中で、何度も彼女らのやり取りがループする。何度も何度も、正確に、一言一句違わず。授業中には決して発揮されないような記憶力が、ここにきて猛威を振るう。
足早に玄関へと向かい、靴を履いて傘を取った。
早く帰りたい、今すぐに帰りたい。何か食べて、ゲームでもして、テレビを観て、適当なところで眠ってしまえば忘れられるだろう。
京介は背筋に嫌な汗が伝うのを感じながら、逃げ出すように玄関を出た。
「あ、藤村っ」
打ち付けるような雨音を割って、彼女の声が鼓膜を揺らした。
つられるように目を向けると、そこには綾乃が立っていた。
「具合悪かったんだって? 大丈夫?」
「……うん、まあ」
生返事をしながら傘を開く。
「誰か待ってるのか?」
「ううん。傘、誰かが持って行ったみたいでさ。ビニールだから、間違えたのかな」
言いながら、綾乃は可笑しそうに頬を綻ばせた。
京介は自分の傘を見た。少し肩は濡れるだろうが、二人で入っても問題はない。
「くしゅっ」
可愛らしい音と共に、綾乃の鼻からだらんと鼻水が垂れた。へへっと照れ臭そうに笑って、「風邪ひいたかな」とティッシュを取り出し拭き取る。
「私は止むの待つから。じゃあね」
そう小さく手を振って、ふんっと鼻をかむ。
自分に絡むなよと、食堂で吐き捨てたばかりだ。彼女はその意思を尊重したのだろう。
「……うん」
傘の柄を強く掴み、綾乃に背を向けた。
靴の中に水が入ったわけでもないのに、一歩一歩が不快で仕方がない。ビニールに打ち付ける水の音でさえ耳障りだ。
(あいつが何したっていうんだよ……!)
教室にいた女子たちの言葉は、未だ京介の脳内を占拠していた。
少し話せば、綾乃が他人を見下すような人物でないことはわかるはずだ。明るくて、単純で、少しバカな、楽しいやつだとわかるはずだ。
自分でもわかることが、なぜ彼女らに伝わらないのか。
美しさへの妬みなら、それもおかしな話だ。
綾乃は食事制限をしていると言っていた。菓子を突きながら無為に時間を過ごすあいつらに、嫉妬をする権利などない。
仕事に懸命で、その中でも学校に通って、勉強をして。
そんな彼女を身勝手に突き放して、不快な思いをさせて、それなのに気を遣わせて。
僕は一体何をやっているのだろう――と。
京介は歩みを止め、大きく息を吐いた。
◆◇◆◇
雨脚は弱まる気配を見せず、明日の朝まで降り続きそうな勢いだ。
いつ帰れるのだろう。一人暮らしの綾乃には、親に迎えに来てもらうことができない。手持ち的にタクシーを呼ぶことは可能だが、誰かに見られて陰口を叩かれるのは困る。家はそこまで遠くないが、この雨を走り抜けるのは気が引ける。
「……?」
忘れ物でもしたのだろうか。制服を着た誰かが、校門から入って来た。
細い身体、低い身長。視界は雨のせいで不遼だが、その生徒が近づくにつれシルエットが明らかとなる。それは、見知った男の子だった。
「これ、カバンに入ってて。使ってくれていいから」
足元が悪い中、小走りだったためだろう。
京介は息を切らしながら言った。片手に折り畳み傘を持って。
「……タグ付いてるけど、わざわざ買って来たの?」
「ち、違う。買ってそのままにしてたんだ!」
「ふーん……」
京介は赤面しながら言って、「んっ」と折り畳み傘を押し付ける。
「……じゃあ、僕は行くから。また明日」
踵を返す京介に、綾乃は手を伸ばした。
彼の服の袖は、雨に濡れていた。
「い――」
思考するよりも先に、唇は動いていた。
「一緒に帰ろっ」
彼が一人を好むとしても。
ここでわがままを言わないといつか後悔するだろうと、綾乃は確信していた。
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