第七話 寂しさに耐える
夢の王宮料理人として就職が決まったその夕方、私は足取りも軽く帰宅しました。一番に姉に報告すると大層喜んでくれました。
「良かったわ、ダフネ。正直言うと何だか最近の貴女は見ていられなかったのよ。新しい職場で心機一転、環境を変えてみるのも良いと思うわ」
姉のその言葉に私の目からはボロボロと涙が零れてきました。新しい就職先が決まって安堵したのでしょう、一度
「ご、ごめんなさい。お姉さま……私……」
姉は私を抱きしめて優しく背中を撫でてくれました。
「もしかして私やお母さまが幸せで浮かれているから何も言えないのかしら……だったら申し訳ないわ……」
私が二人の幸せに水を差したくなくて空元気を振るっていたことが分かっていたのです。姉には敵いません。
「私、先日失恋してしまったのです。というか、彼とは普通にお付き合いしていたわけでもありませんし、それ以前に私の想いも伝わっていないのですけれども……気持ちを新たにしばらくは王宮での仕事に専念することにしますわ」
私は涙を流したことによって少し気分が晴れました。ジュリエンと縁のない環境で忙しくしているうちにきっと彼の事なんて忘却の彼方に葬り去ることができるでしょう。
「……私たち、たった二人の姉妹でしょう。何かあったらいつでも相談相手になるから遠慮しないで。貴女の元気がないと私も心配なのです」
しばらく姉に背中をさすってもらうと少し落ち着いてきました。
「私、涙を流してすっきりしたみたいです。少し浮上できました。お姉さまのお陰です」
「良かったわ」
「お母さまとクリスチャンにだけは無駄な心配を掛けたくないのです」
「二人は貴女が社会人になったばかりで気が張り詰めているのだろうって、今のところは思っているみたいよ」
「それも本当のことですわ」
私も姉も、母と結婚したクリスチャンのことを名前で呼んでいました。彼はまだ若く、父親よりもどちらかと言うとお兄さんみたいな感じなのです。クリスチャンも好きなように呼んでくれていい、と言ってくれます。
それでもクリスチャンは私たちを本当の娘のように愛してくれていることが分かります。
それからすぐ、ポールさんからジュリエンが遠征に出掛けてしばらく留守にしていると聞きました。
「いやあ全く、ジュリエン坊ちゃんが居ないだけでクイヤール家のエンゲル係数は半減すんだよなぁ。マドレーヌ、お前もそう思わねぇか?」
「若旦那さまがいらっしゃらないとはどういう事ですか?」
「何でもペンクールへの遠征の任務をお引き受けなさったそうだ。当分帰ってこられない。まあ数か月くらいと聞いているがな」
そう言えば最近は裏庭で鍛錬をする彼を見掛けませんでした。それに最近は料理も三人分だけ準備していたような気がします。
私はもう彼に屋敷内や庭でばったりと会うこともないのです。始終気を張り詰めていなくても良くなり、安堵したと同時に、言いようのない寂しさに襲われました。
クイヤール家を退職する前にお別れくらいは言いたかったのに、と残念な思いでした。
私が作った一品にいつも気付き、褒めてくれた彼の言葉には新米料理人としてとても参考になったし、嬉しかったのです。それに長くは続かなかったとは言え、彼とのめくるめく秘密の逢瀬では女として
そして私はクイヤール家に退職届を提出しました。ポールさんの奥さんも王都に戻ってこられたので二週間後に辞めても人手不足にならないことは、私の罪悪感を減らしくてくれました。
ポール料理長は大層残念がってくれると同時に、私の将来を応援してくれました。
「何だと? 辞めちまうのか、マドレーヌ? まあな、王宮での仕事が見つかったんならその機会を逃したら駄目だ。頑張れよ」
「はい、ありがとうございます。ポールさん、短い間でしたが、大変お世話になりました」
クイヤール家を去った後、迷った挙句、私はジュリエンに文を書きました。未練がましいと思われてもしょうがありません。
それでも、初めての職場で手探り状態の私の料理に意見をしてくれた彼にどうしてもお礼を言いたかったのです。その文を読んでもらえるのがいつになるのか分かりません。読まれることはないのかも知れません。
王都はもうすぐ春を迎えようとしていました。私は王宮の料理人として新たな一歩を踏み出そうとしているというのに、心の中は未だに冬のままで冷たい風が吹いていました。
王宮本宮の大厨房のような職場では、私のような一介の料理人はただの歯車に過ぎません。私はとりあえず拘束時間の少なく労働条件の良いこの職場で働きながら栄養学を学ぶことを考えています。仕事に勉強にと忙しくしていたら大いに気が紛れました。
姉がテネーブル家に嫁ぐ日が段々と近くなってきました。結婚する姉のために、私は故郷のジルベール領近辺に伝わる伝統の婚礼用のお菓子を作ることにしていました。
我が家で隠れてこそこそと試作品を作っていたのですが、姉に内緒で大量に作るのは中々大変です。そこで王宮の厨房の上司である料理長に相談すると、忙しくない時間帯だったらお菓子作製のために厨房を使うことを快く許可してくれました。
一口大の大きさの蒸しパンのようなお菓子は、食紅を加え、白と紅色の
私が作った婚礼用のお菓子は、母が姉のために縫った伝統の既婚女性用のドレスとエプロンと一緒に結婚式の前日に姉に渡すことにしていました。
姉が嫁ぐ前夜、私たちは家族四人で最後の食事をしながらしんみりしていました。母と私が姉への贈り物をそれぞれ出すと姉は感極まって涙を流し始めたのです。
「私の結婚式までの短い間でしたけれども、こうして家族四人で暮らせて良かったと思えますわ」
「さあ、お姉さまそのくらいにしないと、明日は晴れの日なのですから。一生に一度のお式に腫れぼったい目で出るわけにはいきませんよね」
私までもらい泣きしてしまいそうです。
私もいつか姉のように幸せな結婚をする日がくるのでしょうか。ふとジュリエンの笑顔を思い出してしまいました。家族団らん中に私の意識を占領しないでよっ、と心の中で幻の彼に向かって叫んでいました。
その翌日は天候にも恵まれて、うら暖かな春の日でした。純白の花嫁衣裳に身を包んだ姉は言葉に出来ないくらい美しく、幸せオーラを放っています。
私もこの日だけは着飾って一日だけの即席貴族令嬢と化しました。いつもは一つにまとめて調理帽の中に収めている私の金髪も綺麗に結い上げ、耳より下の髪は緩く巻いて下ろしています。
テネーブル家からの迎えの馬車に花嫁と共に家族で乗り、大聖堂に向かいました。
「我ながら普段の自分との外見のギャップには驚きです」
私は馬車内の緊張した空気を何とか和めようとしていました。
「三人共、素のままでも十分美しいけれど、今日はもっと綺麗だね。私はそんな妻と娘が誇らしいですよ」
「まあクリスチャンったら」
「今日ばかりは私も貴族ばかりの招待客に混じっても庶民だとバレませんわよね」
「貴女はそうね、口を開かなければ分かりませんわよ、ダフネ」
「はいはーい、承知しております、お母さま。俗語は使わず、言葉遣いにも十分気を付けます」
「はい、は一度だけです」
私たちの馬車は大聖堂前に着き、姉は花嫁の控室で入場に備えます。私は母とクリスチャンと祭壇前の席に着くため、中に入りました。
そこで私はふと、大聖堂の招待客の中にジュリエンを見掛けたのです。はっとして慌てて顔を扇で隠しました。ペンクールに遠征中の彼が居るとは思ってもいませんでした。
***ひとこと***
各人の想いが交錯するクロエ・フランソワ組の結婚式です。ダフネはジュリエンと再会してきちんと向き合えるのでしょうか? それともエプロンをしていないからすぐには気付いてもらえないかも?
寂しさに耐える カタクリ
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