第3話幼少期その3

 もしもアイさんがガンに侵されていなかったら、僕はアイさんと出会うことはなかったでしょう。逆に僕が小児喘息じゃなかったら、それでも出会うことはなかったでしょう。


 もっと言ってしまえば――

 僕たちが同じ病院じゃなかったら。

 あの日、僕が中庭に居なかったら。

 アイさんが僕に話しかけてこなかったら。

 そう考え出すと、出会う確率は限りなく低く、知り合う可能性もゼロに近いです。


 それでも――僕たちは出会いました。

 余命が僅かなアイさんの、残りの人生の短い期間に、僕は関わることができたのです。

 それは偶然と片付けるには無粋すぎると僕は思います。かと言って必然ともまた違っています。

 アイさんはあの日、あの時、あの場所に居たんです。それは誰にも変えられない事実です。

 だから――アイさんは居なかったことにならないんです。


 僕が全快とまでは言えないけど、歩けるようになったとき、僕はアイさんの病室を訪ねました。

 しかし、会うことは叶いませんでした。

 面会謝絶。そう書かれた札が病室の前に掲げられていたのです。


 当時の僕には理解できない漢字でした。『面会』はなんとか読めたのですが、『謝絶』の意味は分かりませんでした。

 だから僕は病室を開けようと、ノックしたり扉を引っ張ったりしていました。


「こらっ! 何をやっているんだ君は!」


 怒鳴られた先を向くと、中年の男性が僕を睨みつけていました。記憶だとスーツ姿だった気がします。右手には手提げのカバンを持っていました。


 僕は病み上がりということもあって、逃げることはできませんでした。今思うと、悪戯しているわけでもないので、逃げる必要はなかったのですが。


「アイさんに会いたいんです」


 声が震えているのは、隠せませんでした。大人に怒鳴られる経験は、ほとんどありませんでしたので。

 幼少期には善悪の区別は曖昧でした。これをやったら悲しむ人が居る。怒る人も居る。それが善悪の判断でした。

 だから怒らせてしまったことに対して、僕は恐怖を覚えたのです。


 そんな僕に、中年の男性は「なんで娘に会いたいんだ?」と怪訝そうに訊ねてきました。

 ここでようやく、この中年の男性がアイさんの父親だと分かったのです。

 一先ずは怒りを抑えてくれたと判断して、僕は「見舞いに来たんです」と正直に言いました。


「えっと、アイさんは大切な友達なんです」


 友達。自分で口に出すと本当に奇妙でした。

 幼稚園を卒園していない子供が、二十七歳のOLと友達だなんて。

 しかし、僕たちの関係性を表すにはこれがとても最適だと思い込んでいました。


「もしかして、アイが言っていた、橋本洋一くんかい?」


 僕が頷くと中年の男性――アイさんの父親は悲しそうでもあり、嬉しそうでもありそうな複雑な顔をしたのです。


「そうか……娘がお世話になったね」


 言葉が柔らかくなったので、僕は緊張から解放されました。


「アイから聞いている。だけど、せっかく訪ねてくれたのに、悪いがアイには会わせられない」


 その言葉に僕は「なんで!?」と子供らしい端的で単純な返事をしました。


「もう、アイに会っても、アイには分からないんだ。君に言っても分からないと思うが、アイは助からない」


 父親は本当に疲れたように言いました。


「そ、そんな……」


 僕は言葉に詰まってしまいました。何を言っていいのか、分からなかったのです。

 喚くべきか、悲しむべきか、それすらも分からなかったのです。

「……ここじゃあ話しづらいから、中庭のほうへ行かないかい?」


 僕は父親に従いました。心がかき乱されて、言うことを聞くほかなかったのです。

 中庭に着くまで、僕たちは一言も話しませんでした。話す気分じゃなかったのです。

 中庭のベンチに座ると、父親はカバンから紙を取り出しました。


「この手紙はアイから君へ宛てたものだ。だけど、その前に、君に伝えておかないといけないことがあるんだ」


 僕は黙って頷きました。


「君のことはアイから良く聞いている。賢い子供だということも、優しい子供だということも知っている。だから君を一人前の男として、説明を続ける。いいね?」


 僕は緊張と戸惑いで何も考えられませんでした。

 でも、父親が僕を見込んでそう言っていると分かったので、頷きました。


「分かった。単刀直入――これは分からないか。じゃあはっきり言おう。アイはもう意識がない。末期がんになって、あちこちに転移がある。今は痛みを抑えるために、モルヒネという薬を使われているんだ」


 僕は父親が何を言っているのか分かりませんでした。言葉の意味も、単語の意味も分かりませんでした。

 だけど、もう駄目だと言うことは分かりました。


「もう二週間も持たないだろう。そう医者に言われたよ」


 父親は本当に悲しそうな表情をしました。

 二週間。そんな短い期間にアイさんが死ぬ。僕は死刑を宣告された囚人のように固まってしまいました。


「それを聞いた上で、君に会ったら渡すように言われた手紙だ。読むかい?」


 差し出されたのは便箋が二枚ほどの短い手紙。僕は手を震わせながら、受け取りました。

 そこに書かれていたのは、アイさんの綺麗な字ではありませんでした。僕の手と同じくらい震えている字でした。

 そこにはこう書かれていました。


『洋一くんへ。このてがみはパパにわたしたので、きちんと洋一くんがよめるかしんぱいです。でもよめたら、さいごにつたえたいことがあります。わたしは洋一くんにであえてうれしかったよ。だれもみまいにきてくれない、きらわれもののわたしだけど、さいごのさいごに、かわいいともだちができて、しあわせでした。もっとはなしたかった。もっといっしょにいたかった。だけどごめん。わたしはもうはなすこともかくこともできないみたい。洋一くん、さいごのわがままだけど、いうね。洋一くんには、わたしのみにくいすがたをみせたくない。がんでくるしむわたしをみせたくない。くるしむすがたよりもほんのすこしげんきだったわたしをおぼえておいてほしい。洋一くんはきっと、わたしをみまいにきてくれるとおもうの。だけど、あうことはできない。わたしも洋一くんにあいたいけど、いしきのないわたしに、洋一くんがどうおもうかふあんなの。それだったら、たのしかったおもいでのわたしでいたい。洋一くん、さいごにいうね。洋一くんはせかいをつまらないといったけど、そんなことはないんだよ? せかいにはたくさんのたのしいことがあるんだから、かんたんにあきらめないでね。それだけがしんぱいだよ。わたしはもうあえないけど、わたしより、やさしいひとはたくさんいるよ。それじゃあ、洋一くん。さようなら』


 手紙にぽたぽたと涙が落ちました。それが僕の涙だと気づいたのは、読み終えてからでした。読みやすいようにひらがなで綴られた手紙。今でもその手紙は手元にあります。


「私からもお礼を言わせてくれ。橋本洋一くん。娘の友人で居てくれて、本当にありがとう」


 父親は僕みたいな子供に頭を下げました。僕は泣きながら、膝を抱えて座り込みました。


「アイさん、なんで、そんなことを、言うの? 僕は、アイさんのこと、好きなのに……」


 もうアイさんに会えない。笑顔で僕に微笑んでくれない。本を読み聞かせてくれない。楽しい思い出を語ってもくれない。

 一緒に、居ることさえ、できない。


 僕は自分の無力さを実感しました。どんなに頭が良くても、どんなに知能があっても、一人の女性を助けることもできない。今死のうとしている命を救うことすらできない。


 なんで、僕が生きていて、アイさんは死なないといけないの?

 そんな思いが、頭の中を巡りました。

 このとき、この瞬間、僕の精神にトラウマが芽生えつつありました。僅か四才か五才の子供に、大事な人の死が圧し掛かっていたのです。何もできない無力感も、助長したのです。


 アイさんの父親と別れて、僕は自分の病室に戻りました。本来なら、ここでアイさんの病室に忍び込んでアイさんと会う、そんな展開があったのかもしれません。でもできませんでした。僕はアイさんの言葉に従うことしかできませんでした。

 アイさんが会いたくない。そう書いてあったのを、無下にできなかったのです。

 僕は小説に登場する勇者でも主人公でもありません。弱虫の傍観者なのです。誰も救えない、どうしようもない人間なのです。


 それから二週間。僕は再び小児喘息に侵されました。一歩たりとも病室から出ることは叶いませんでした。


 その間に、アイさんは死んでしまいました。

 僕の友達だったアイさんは居なくなりました。

 知ったのは、アイさんが死んで三日後のことでした。病室から面会謝絶の札が取れていて、看護婦さんに聞いたら、亡くなったことを教えてもらいました。


 葬式には行かれませんでした。どこに住んでいるのか知りませんし、聞いたこともなかったのです。

 墓参りもできませんでした。大人になった今でも、アイさんのお墓がどこにあるのか知りません。


 アイさんが亡くなってから、自分の病気が治るまで、僕は自分の病室を離れることはありませんでした。

 ぼうっと過ごす毎日。それが四日ほど過ぎた頃でした。


「どうしたの? 洋一くん。ぼんやりしていると時間がもったいないよ」


 そんな声が、頭の中から聞こえました。

 僕は窓辺を見ていましたけど、その声に反応して、辺りを見渡しました。

 アイさんの声? それとも別人?


 僕は声のする方向に目を向けました。

 もちろん、誰もいません。

 僕は子供の頃から幽霊というものを信じていません。信じていたら一人で病院に泊まることなんてできないです。

 だから、アイさんの声がしても、幽霊だとか思いませんでした。


「誰なの? 誰が僕に話しかけているの?」


 声に出して言うと、これは不思議なことですが、すうっと、アイさんの顔が目に浮かびました。

 傍らに居るのではなく、僕の中に、アイさんは居たのです。


 アイさんなの? 僕は訊ねました。

 そうでもあるし、違うかもしれない。頭の中のアイさんはそう答えました。


 僕は当時、知識が無くて分かりませんでしたけど、大人になった今、この現象がなんなのか分かりました。

 イマジナリーフレンドという症状だと判断できます。イマジナリーフレンドとは想像上の友達と直訳できます。つまり想像で作り上げられた幻覚と言えるでしょう。幼児期の子供が創りやすいと後に知りました。


 僕の場合、幼少期に受けた、大事な友達の死というトラウマが、このイマジナリーフレンドを創ってしまったと推測できます。

 そしてそれのモデルとなったのは、アイさんでした。


 アイさん、どうして僕を置いて死んじゃったの?

 ごめん。淋しかったかな?

 淋しいに決まっているよ。アイさんに会えなかったら僕も死んじゃうよ。

 そんなこと言わないの。私の分まで生きて。それだけお願いね。


 このように会話ができてしまいます。僕は僕がおかしくなったのだと思いました。軽いパニックを起こしかけました。

 だけど――僕は思い直しました。


 アイさんはもう居ない。これは現実だ。でもアイさんの偽物でも、こうして僕を見守ってくれる。だったらそれでいいじゃないか。

 なんて愚かしいんでしょう。死んだ人間のことを想ってありもしない幻覚を創ってしまう。これは逃げに過ぎません。逃避に過ぎません。


 ですが、イマジナリーフレンドを創ってしまう僕を大人になった僕は責めることはできません。


 きっと淋しかったのです。悲しくて仕方なかったのです。辛くてしょうがなかったのです。

 そんな孤独になりかけた僕を自分で言うのはなんですけど、責めることはできませんでした。


 僕はアイさんの幻覚を見続けることになります。時には相談したり、他愛の無い話をしたりしました。

 心の安定剤になってくれたのです。


 このイマジナリーフレンドのアイさんが居なくなるのは、時間がかかりました。

 具体的に言うと、高校生まで居ることになるのです。


 僕はアイさんに依存していました。

 厳しい現実を乗り越えるときに、必ずアドバイスを貰いました。

 僕は一生、アイさんと共に居るとばかり思っていました。

 でも、それはありえなかったのです。

 アイさんとの依存が無くなる事件。それは高校三年生まで時間を必要としたのです。

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