伸ばした手の先

春嵐

01 ENDmarker.

 画が、描けなくなった。

 ある日突然、張っていた糸がふっつり切れるような感じで。何も、浮かんでこない。鉛筆も。筆も。大型端末のタッチペンも。携帯端末をさする指も。すべてが、綺麗に止まった。何も描けない。というより、わたしの中に、何もない。不思議な感じだった。

 仕事に支障はない。自己表現のための画ではあったけど、評価やちやほやされることが目的ではなかった。そんなものはどうでもいい。食事と同じ。食べたあとの感想なんてどうでもいい。口に運んで、噛んで、飲み込むときに、美味しければそれでいい。

 でも、さすがに目利きのひとには分かるかなと思ったので、案件ではなく普通に画を買ってくださるかたがたにはそれとなく自分の画ではないことをお伝えして、購入をやめてもらおうと思った。

 普段の二倍の値段で売れた。

 いつも買ってくださるかたがたは、企業も個人も、みんなして、応援してくださった。我々にはこんなことしかできないですけど、描けないことを気にやまないでください。支援ならいくらでも。おかねはおそらく余っていらっしゃるでしょうから、エステとか、美味しいごはんとか。綺麗な夜景なんてどうですか。老若男女問わず、みなさんそう言ってくださった。

 せっかくなので、エステ行って、美味しいごはん食べて、船に乗って綺麗な夜景を見た。たのしかったけど、別に何か画が描けるようになったわけでもない。

 夜景見た帰り。船を降りて、歩く。港湾。綺麗な波の音と、夜景が反射する海沿い。


「綺麗な海だなあ」


「川ですよ?」


 後ろ。声。

 男性が立っている。


「いやでも、ずっと向こうまで」


「まあ、そこは気にしないでください。なんで川なのか、俺もよくわかってないので。なんか、洲がなんとかって言ってました」


「なにそれ」


「夜景。どうでした?」


「綺麗でした。でも、綺麗なだけだった」


「じゃあ、もういちど乗りましょうよ。俺が解説します」


「やですよ。初対面」


「あ。そっか。それもそうですね。じゃあ、また会えたら、お話でもしましょうか」


 そう言って、彼は去っていった。

 不思議だなと、なんとなく思う。自分の顔に特に不満はないけど、基本的に異性から声をかけられることはなかった。同性にはよく色々と誘われる。やれ顔が綺麗だのスタイルがいいだのとまくし立てられたり。でも、それ以上でもそれ以下でもなかった。


「初めてかもしれない。仕事以外で男のひとと普通に話したの」


 意外と、普通だった。


「どんな感想だよ」


 ひとりごと。夜の街に、浮かんで消えた。

 その日は、ちょっとだけ、画が描けそうな気がした。気がしただけ。眠って、起きて、ちょっとだけ関係のない画を描いて。それを送った。

 普通のひとは、絵の上手下手で一喜一憂するらしい。ひどいことを言われると、書かなくなったりもするんだとか。大変だなあと思う。思うだけ。

 自分にとって画は、食事と同じだから。美味しく描ければ、それでいい。できあがった画は、食べ終わったお肉の骨と同じ。食べる部分がなくなったので、捨てるだけ。ただ、その骨で出汁だしをとったりするひとがいるから、お譲りする。

 美味しい食事もあれば、ただ空腹を満たすだけの食事もある。今までずっと美味しい食事ばかりで、飽きてしまったのかもしれない。画が描けないのは、味の薄い食事と同じ。これはこれで、滋味じみがあっていい。だけど、そろそろ、味の濃いものが食べたいな。


「おっ。来ると思ってました」


 夜景を見に来たら、彼がいた。


「行きましょう。さあ」


 導かれるままに、船に乗って。

 夜景を眺める。

 彼は、説明するとか言ってたのに、何も言わないで隣にいるだけ。何をしているんだろうと思って見てみたら、彼は夜景を見ていた。なんとも説明のできない、表情で。なんて言うんだろう、これ。彼の顔。満たされていて、それでいて、満たされていない感じ。


「そう。黄昏たそがれ


 黄昏の表情。思い出した。彼の表情は、黄昏だ。


「夜ですけど?」


「いや、あなたの顔が。黄昏って感じの表情だなって」


「俺の顔が?」


「うん」


「じゃあ、あなたが黄昏なのかもしれないですね」


 何言ってるか分からない。


「何言ってるか分からないみたいな顔されても、俺も困ります。突然、黄昏とか言われても」


 それ以降は、特に会話もせず、ふたりで夜景を眺めていた。

 船を降りたとき。なんとなくだけど、心が、繋がったような気がした。


「二回目の対面ですが」


 彼の言おうとしていることは、なんとなく分かった。前回は初対面で断られているから、伺いをたてている。


「おなかがすいたので、わたしは何か食べたいです」


「では、近くのホテルへ」


「は?」


「あ、いや。そういう意味ではなく。自炊ができるところをと」


「二回目の対面で手料理?」


「だめですか」


「ううん。でも前回断ったしなあ」


「じゃあ、近場のファミリーレストランにしましょう。仕事仲間がやっているレストランがあるので」


「まあ、それなら」


 導かれるままに、ファミリーレストランへ行ってごはんを食べた。彼は、途中でどこかへ消えて。ラーメンと共に帰還した。


「厨房の隅を借りて、作ってきました。どうぞ」


「いや、シチューのあとで」


 このファミリーレストランのシチュー。とっても美味しい。癖になりそう。


「ああ。シチュー美味しい」


 彼。ラーメンが伸びてしまわないかと、そわそわしている。


「しかたないなあ」


 シチューを一旦脇にどけて、ラーメンをすすってみる。


「え。うそ」


 美味しい。

 気付いたら、麺がなくなっていた。時間が飛んでしまったみたい。


「なくなっちゃった」


「どうでしたか?」


「味分かんなかった。なくなっちゃった」


 シチューに戻る。

 シチュー美味しい。味がある。ゆっくり噛んでたのしめる。でも、ラーメンは。味が分からなかった。


「そうですか」


 彼。満足したような表情。

 おなかがいっぱいになったので、帰って眠った。

 美味しそうないい匂いで、起きる。


「あ。起きましたか?」


「え。なんでいるの」


「いや、あなた半分寝ちゃうから。言われるままにおんぶして家まで運んできたんですけど」


 そうか。おなかいっぱいで、寝ちゃったのかわたし。


「朝ごはん。どうぞ。冷蔵庫の中身が空だったので、いくつか作り置きしておきましたから」


 朝ごはん。とっても、美味しそう。


「いただきます」


 美味しい。また、すぐになくなっちゃった。


「あれ。食べ終わっちゃった」


「では、俺はこれで」


「まって。またごはん作って」


「作り置きしてますから、それをどうぞ」


 彼を。手放したくないと思った。こんな美味しい料理。


「行かないで」


 言って、自分でびっくりした。まるで、恋人を引き留めるみたい。


「仕事なんで。ごめんなさい」


「なんの仕事。休んでよ」


「わがまま言わないでください」


 彼の顔に。一瞬だけ、黄昏が映る。それで、何も言えなくなってしまった。


「また来ますから。じゃあ、これで」


 彼が、出ていった。

 お昼まで、ぼうっとしていた。

 お昼ごはん。豚汁。彼が作り置きしていたものを、ゆっくり、噛んで、味わって、食べた。美味しい。とても美味しい。でも、美味しいだけで。朝ごはんや昨日のラーメンとは、何かが、違った。

 彼がいない。

 ひとり。

 ひとりの食事だから、なのか。彼がいるだけで、料理が美味しくなるなんて。そんなことが、あるのだろうか。

 おなかがいっぱいになったので、眠った。夜。夕焼けの光で起きた。


「あ。起こしちゃいました?」


 彼。普通に部屋に入ってきている。


「不法侵入」


「えっ」


「罰として、ごはん作って」


「うわあびっくりした。通報されるかと思った」


 彼。何かを買ってきているらしく、すぐにごはんの準備に取りかかった。その背中に、声をかける。


「お昼。作り置きしてるやつ食べた」


「どうでしたか?」


「美味しかったけど、昨日のラーメンとか朝ごはんほどじゃなかった。美味しいけど、なんかこう、普通の食事な感じ」


「そうですか」


「あなたがいないと、ごはんって、美味しくないの?」


「え?」


「作った人がいないと、美味しくないのかなって思って」


「あの。ちゃんと温めました?」


「え。温めるの?」


「冷たいまま食べたんですね。そうですか。ちょっと待ってくださいね」


 お昼食べたものと同じやつ。豚汁。ほかほかになっている。


「どうぞ。温め直しました」


 秒で食べ終わった。時間が飛んだみたいに、なくなった。


「あ。なくなっちゃった。おかわり」


「ごめんなさい。今ので最後です」


「ひどい」


「温めたほうが美味しかったですか?」


「味分かんなかった」


「そうですか」


 彼。満足そうな顔。


「夜ごはんは何?」


「お魚です。焼き魚」


 お魚。


「豚汁も作って」


「分かりました。食材買ってくるので、お魚食べて待っててください」


 焼き魚と格闘していたら、彼がすぐ帰ってきた。

 そして、焼き魚も瞬間的に食べ終わっちゃった。また、料理中の彼に声をかける。


「なんの仕事をしてるの?」


 料理人とか、かな。


「正義の味方をしてます」


「正義の味方?」


「はい。街の平和を、日々守っています」


「警察官?」


「いえ。フリーランスです。管区とは連携しますけど」


「警備員みたいな感じ?」


「まあ、そんな感じです。街全体を守る警備員みたいな」


「へえ」


 全然分かんない。


「おなかすいた」


「豚汁の完成まではまだまだかかるので、お先にお風呂をどうぞ。あなたが眠っているときに沸かしておきました」


「えっ」


「えっ」


 一瞬びびったけど、本当に他意がなさそうなので、普通にお風呂入った。

 上がったら、豚汁ができあがっていた。


「どうぞ」


 美味しい。そう思う前に、また、なくなってしまった。


「おなかいっぱい」


「眠りますか?」


「眠らない」


 画を。描きたくなっていた。


「画を描く」


「そうですか」


「見てて」


「お風呂入ってからでもいいですか?」


「どうぞ」


 彼がお風呂に入っている間、鉛筆を出して、筆を出して、大型端末と携帯端末を充電器に繋いで、タッチペンを机に並べた。


「見てて」


 お風呂上がりの彼。わくわくしながら、こちらを見ている。

 画を描いた。美味しい食事みたいな、とっても楽しくて、夢みたいな時間。鉛筆で描いて。筆で描いて。大型端末にタッチペンで描いて。携帯端末に指で描いて。たくさん、描いた。楽しい。画が、たのしい。わくわくする。

 すべて描き上がったとき、空が蒼くなってきていた。もうすぐ朝。


「ねえ見て。画が」


 振り向いて。

 彼がいないことに、気付いた。

 画に夢中で、彼に気付かなかった。そこで体力が切れたので、とりあえず近場のソファにもたれこんで眠った。

 また、彼が起こしてくれる。ごはんの美味しい匂いで、起きる。そう思ったけど、何事もなく、普通に起きた。夕焼けなのか朝焼けなのか分からない、紅い光。時計表示。四時。午前なのか午後なのか分からない。

 ゆっくりと起き出して、彼を探した。

 いなかった。

 自分の描いた、画だけがある。たのしくて、わくわくする。見ているだけで、気分が安らぐような。

 そして。

 気付いた。


「ねえ。あなた、画のなかから、来たの?」


 ひとりごと。応答はない。


「ねえ。わたしが描けなくなったから、描いてもらいに来たの?」


 やっぱり、応答はない。

 彼のいた痕跡を、探した。何もない。お風呂場にも、わたしが使ったタオルだけ。

 キッチン。わたしの食器だけ。

 冷蔵庫。


「あっ」


 作り置きしてある、豚汁が。あった。

 彼がいた証。見つけて、安心して。その場にへたりこむ。いたんだ。彼は。ここに。

 ゆっくりと立ち上がって。冷蔵庫から取り出して。豚汁を、食器に。

 温めようとして、やめた。また、すぐなくなってしまう。味も分からないまま。

 冷たいままの豚汁を、ゆっくり、ゆっくりと噛んで、味わって、食べた。

 涙が止まらなくなった。


「おいしい」


 温めたら、きっと、もっと美味しい。でも、味も分からずに、なくなってしまうから。冷たいまま。なるべく長く。ゆっくりと。食べる。

 彼は。きっと、わたしの中にいる。忘れたりしない。これからもわたしは、描き続ける。だから。安心して。わたしは。


「泣いちゃだめだ。しっかりしろわたし」


 豚汁の最後を、食べた。

 涙を強引に拭って。

 勇気は彼からもらった。おなかもいっぱいになった。

 さあ。

 描きはじめよう。


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