遅咲きのクローバー
青桐美幸
第1話
はあっ、と吐く息が白く立ち上っていく。
自ら生み出した靄が消えると、目の前には忙しなく行き交う人で溢れ返っていた。
駅前のロータリーは、仕事帰りのサラリーマンや制服姿の学生達が多く、延々と人波が続いている。
手持ち無沙汰にその流れを追いかけていたら、次第に目が疲れてきた。休ませようと視線を逃がしても、今度は色とりどりの電飾に遭遇する。どこもかしこも飛び込んでくる情報が多く、きらびやかさに少々怯んだ。
普段より集まっている人の群れ。普段より明るい夜の街。
そんな中、
カシミヤのコートに同じ素材のマフラーを重ね、厚手の手袋までしているのに、爪先から忍び寄る冷えは増すばかりだ。
寒さに弱いタイプなので、いつもはブーツにカイロを仕込んでいる。ただ、さすがに今日は色気のない格好を避ける必要があり、やむなく常備品を手放した。
そう、納得した上での決断だったはずだ。
にもかかわらず、その決断が間違いだったのではないかと思い始めたのは、待ち合わせ時間から三十分を過ぎても相手が現れず、連絡すら寄越さないことに痺れを切らした頃だった。
(今日に限って何なの? 遅れるなら遅れるって一言ぐらい送ってきなさいよっ!)
どんどん下がっていく気温と合わせて、真矢子の機嫌も急速に下降していった。
先ほどから何度もスマホをタップしては、通知のアイコンがないことを確認して焦れる。
『今どこ?』
『何かあった?』
『あとどれぐらいで着きそう?』
訊ねても、返事どころか既読すらつかない。
今までこんなことはなかった。初めての事態に一層気持ちが乱され、正常な思考が組み立てられなくなっていく。
いい加減文句の一つでも飛ばしていいわよね、と少々乱暴な行為すら選択肢に上る始末だ。
(さすがにもういいでしょ。あと五分変化がなければ実行する!)
強硬手段へのカウントダウンを開始したところで、ようやくアプリの着信音が鳴った。
画面に表示されているのはもちろん待ち人の名前だ。
「もしもし、カズヤ? 今どこにいるの? 寒すぎて耐えられそうにないから、まだこっちに着くまで時間がかかりそうなら近くのカフェに入ってもいい?」
「……悪いけど、今日は行けない」
一拍遅れて返ってきたのは、平常時より格段に低い声だった。
「どうしたの? 仕事でトラブルでもあった?」
「違う。仕事は今終わった」
「じゃあ何なの?」
冷気に晒されていたダメージと、知らせもなくやきもきさせられた不快感に、要領を得ない返答への苛立ちが上乗せされる。
けれど、直後に浴びせられた言葉は、体温を奪うどころか真矢子の芯まで凍りつかせた。
「お前にははっきり言わなきゃ伝わらないだろうから言う。そっちには行かない。お前とも会わない。これから先、お前には一切連絡を取らない」
「……は? どういう、こと?」
「真矢子とは別れるってことだよ」
一瞬、眩暈にも似た感覚に陥った。
拾った単語を咄嗟に理解できない。
「ちょ……っと待ってよ、いきなり何言ってるの? 全然意味がわからないんだけど」
「気持ちが冷めた。もうお前とはつき合えない」
「何で今なの!? 今日が何の日か知ってるでしょ!」
「知ってるけど、さっきお前が電話に出た時の台詞で心が決まった」
一体何が地雷だったというのだろう。反芻しようにも思い出せない。
「普通は連絡もなく三十分も遅れたら、『何かあったのか』とか『大丈夫か』とか心配するだろ。それに対して、お前は俺を心配する素振りすらなく、自分の都合を主張しただけだ」
「だってそれは本当に寒かったからで、別にカズヤの心配をしてなかったわけじゃないし」
「今だけじゃない。いつもそうだ。何においても自分の機嫌が最優先で、俺を気にかけもしない。お前に振り回されるのはもう疲れた」
その言い草だと、まるで真矢子がわがままし放題な痛い女みたいではないか。
自分勝手のレッテルを貼られることも腹立たしいけれど、現状の説明もせず唐突に苦情を叩きつけるのは、真矢子を気にかけていないことにはならないのか。
大体、先ほどから何度も様子を窺うメッセージを送った。それを読みもせず好き勝手言っているのはどこの誰だ。
反論したいことは山ほどあった。
なのに、かっとした勢いに任せて出てきたのは、思ってもみなかったほど弱々しい質問だった。
「本気でそんなこと思ってたの……?」
「悪いけどもうつき合いきれない。自分の思い通りにさせてくれる奴がほしいなら、他を当たってくれ」
「ねえ、せめて直接話さない? こんな形で一方的に終わらせるなんて……っ」
「プライドが許さないってか? 最後まで自分のことばっかりだな」
「違うってば!」
どうして曲解されなければならないのだ。
自分達のつき合いは、たった一本の電話で断ち切れるほど浅くはないはずなのに。
「――じゃあな、真矢子」
「待って、カズ……っ!」
呼ぼうとした名前は届かず、いとも簡単に恋人との繋がりが絶たれた。
真矢子は茫然としたまま、しばらくスマホを耳に当てて無機質な音を聞き続けていた。
***
自慢じゃないけれど、つき合う相手に不自由したことはない。
好みの男性と出会ったら気に入られようと努力するし、大抵はその努力が実って関係性が進展する。時には男性の方からアプローチしてくる場合もあり、平均値よりは高い自分の容姿レベルを自覚して身なりにも気を遣ってきた。
ただ、彼氏ができるまでは上手くいくのに、いざ恋人同士になったら長く続かないことの方が多かった。
別れを切り出すのはいつも真矢子からだ。理由は、「何となく価値観が合わない」とか「相手の干渉が強くなってきた」とか、居心地の悪さが大半だった。
しっくりこないのなら、わざわざ合わせようと無理するより、最初からフィーリングの近しい異性を探す方が早い。何事もスピード勝負だと思っている真矢子にとって、時間をかけて落としどころを見つけるというのは至極苦手なことだった。
――カズヤとは友達の紹介で知り合った。
共通の趣味からすぐに意気投合して彼氏になった。それまでの過程で引っかかる部分はなく、つき合い始めてからも大きな喧嘩などしたことがない。
だから青天の霹靂だったのだ。
まさかデートをドタキャンした上に、電話越しの宣言だけで恋人関係を解消するとは。
それも、よりにもよって今日。
***
突然の事態についていけずしばらく放心していた真矢子は、一際強く風が吹いたのを合図にして我に返った。
寒い。寒くてたまらない。
それでも、こんな気持ちのままでは真っ直ぐ帰ることすらできやしない。せめてこの行き場のない憤りをどこかで発散しなければ、誰彼構わず八つ当たりしてしまいそうだ。
ヤケになりかけながら、一人で明るすぎる街並みをさまよう度胸はなかった。
ならば次に取る行動は一つだ。
スマホから連絡先の一覧を出し、数回スクロールする。目的のデータに到達するまで、たった三秒。
見慣れた名前が表示され、波立っていた感情が不思議と落ち着いていく。
真矢子は迷うことなく通話ボタンを押すと、何コール目で相手が電話を取るか、妙に冷静な頭の中で考え始めた。
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