第五章~耳をすませば~③
「そっか、残念。でも、『たんぽぽ娘』の彼女が不安な想いで過ごしていた時間を考えたら、私なんて、たったのひと月だもんね。全然たいしたことないよ」
(全然たいしたことないって、メチャクチャ気にしてるやん)
言葉とは裏腹に、言外に含まれるニュアンスをヒシヒシと感じさせる内容に対して、これ以上、長期に渡ってこの件に触れられたくはないと、秀明は素直に謝罪し、救済策についての教えを乞う。
「その節は、あらためて申し訳ありませんでした。どうすれば、その《ひと月》の間のことを許してもらえるでしょうか?」
「そうね。『たんぽぽ娘』を読んで感じてくれることがあったなら、マークと最後に別れた後のジュリー・ダンヴァースの気持ちを想像して、その気持ちを忘れないであげて」
亜莉寿の言葉を受けて、秀明は、もう一度『たんぽぽ娘』のストーリーを思い出し、ジュリーの存在に想いをはせる。
「……わかりました。了解です」
秀明の言葉に納得したのか、亜莉寿は、満足した様な表情を見せたあと、さらに要求を追加してきた。
「それと……打ち合わせに備えて、何か食べたくなってきたな~」
「……はい。今日は、これまでの埋め合わせに、ここのお店のお代は払わせていただきます」
「そうなの? そう言ってくれるなら追加の注文を……」
メニュー表を手元に寄せ、ケーキなどのデザート類に目を通す亜莉寿。
「吉野さんが、カロリーとか気にしないタイプならだけど」
その秀明の一言に、亜莉寿は顔を上げ、
「ん~。何か余計な言葉が聞こえた気がしたけど、空耳かな~?」
いつか見た様な表情が現れたが、今日は機嫌が良いのか、警戒レベルは五段階のうち、まだまだレベル一といったところだ。
「いえ、何でもないです。お好きなモノをお召し上がり下さい。お嬢様」
秀明は、向かいに座る亜莉寿に対して、うやうやしく礼をする。
「それでは、遠慮なく……」
と亜莉寿は、近くのウェイターに、フルーツワッフルの追加オーダーを頼んだ。
(よりによって一番値段が高いメニューを……)
秀明が、一瞬苦い表情をすると、
「どうしたの? 何か訴えたいことがあるのかな、有間クン」
と目ざとく質問をする亜莉寿。
また、余計なことを言われたくないと感じた秀明は、話しをそらすべく、
「いや……今日は会った時から、ご機嫌だったから、『吉野さんも打ち合わせを楽しみにしてくれているのかな?』って思ってたんやけど、こんなトラップが用意されていて、それにまんまとハマってしまう自分の間抜けぶりに自己嫌悪に陥っていたところ」
と答えると、亜莉寿は「ふ~ん」とつぶやいて薄く目を閉じ、クスクスと笑いながら問いかける。
「いま言われたことには、いくつか気になる点があるんだけど……まあ、それは置いておいて、有間クンが、『私も打ち合わせを楽しみにしているのか?』って、想像したということは、少なくとも『有間クンは、今日の打ち合わせを楽しみにしていた』ということで良いんだよね?」
「あっ……」
話しをそらそうとして、またも自身で墓穴を掘ったことに気付いた秀明は、開き直って、言い返す。
「えぇ、そうですよ! 去年の夏にジョン・ヒューズの話題で盛り上がることが出来たお姉さんと話すことが出来てるんだから、楽しみにしてるに決まってるじゃないですか!」
「そうなんだ~。そっかそっか」
終始ご機嫌だった彼女は、この日一番と言っても良い満面の笑みで、
「それは、お姉さんとして、期待に応えないといけないね~」
と、子供かペットをあやす様な口調で応じた。
さらに、よほど気分が良いのか、彼女は、いつも以上に饒舌に語りかけてきた。
「『たんぽぽ娘』はね……うちの母が父と出会った頃に、『読んでほしい』って薦めたお話しなんだって。その時に薦めたのは、別の短編集だったみたいなんだけど。今日、返してもらった文庫版は、このお話しが気に入った父が、『亜莉寿が本を読める様になった時のために』って、私が生まれた日に買ってくれたものなの」
秀明は、彼女の言葉に耳を傾けながら、文庫本の最終ページを確認した時のことを思い出した。
『集英社文庫コバルトシリーズ海外ロマンチックSF傑作選②たんぽぽ娘』の奥付には、
一九八〇年二月一日発行
と書かれていた。
「ずいぶん前に出版された本やと思ったけど、そんなエピソードがあったとは……大切な本を貸してくれて、ありがとう」
秀明が、あらためて礼を述べると、
「ううん、お話しが気に入ってくれたみたいで良かった!何より、有間クンの色んな面白い表情が見れたしね」
亜莉寿は、ニコニコと楽しそうに笑う。
(結局、それが目的やったんかい!)
「『たんぽぽ娘』を楽しんでくれたみたいだから、また、今度は別のSF小説をオススメしたいな」
と亜莉寿は続けて語る。
「アリス店長のオススメなら、ぜひ読んでみたいな」
秀明が応じると、
「わかった。じゃあ、次はジェイムズ・ティプトリー・ジュニアを読んでもらおうかな。『たった一つの冴えたやり方』って知ってる?」
「タイトルは聞いたことあるけど、まだ読んだことないな……」
二人のとりとめのない会話は、このあとも続いた。
終始、亜莉寿の手のひらの上で踊らされている様な感覚が拭えなかった秀明だが、自身の気分を害されたという想いにはならなかった。
(まあ、吉野さんが楽しんでくれてるなら、別にイイか)
彼の内面では、吉野亜莉寿と会う度に、ある病が少しずつ中毒の様に進行していった。
この時は、まだ自覚症状すらなかった有間秀明は、その病の体験も乏しいため、抗体や免疫などを持ち合わせているハズもなく、本格的な中毒症状が出るまでに何も対策を打つことが出来なかった。
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