第29話 母来たる

「明日から夏休みだぁー」

「夏期補習だけどな」

「でも通常授業はないだろ?」

「夏期補習あるけどな」

「午前中で終わることもあるし……」

「夏期補習」

「くそ……っ!」

 背後の正樹と裕の会話を聞きながら、麗奈は机に肘を突いて溜め息を吐いた。

「高校生に今までみたいな夏休みなんかないでしょ。もう帰りのホームルーム始まるよ」


 今日は一学期の最終日。終業式を終えて、各自教室に帰ってきたばかりだった。

 高校に入学して最初の夏休みと受かれている生徒も多いが、忘れてはいけないのはここが中学と同じ環境ではないということ。

 夏休みとはいっても、最初と最後の二週間ずつしっかり夏期補習が開講され、全員強制参加。だから休みは実質二週間もないのだ。

「ま、いーや。補習終わったら皆で海行くもんな」

「……開き直り早いな」

「俺はいつまでもウジウジしたりしないんだよ、ゆうたんと違って」

「誰がゆうたんだ」

「な、タカナっち、結局女の子誰が来んの?」

 切り替えの早い正樹はいきなり振り返って麗奈に呼び掛けた。

 せわしない正樹とのやり取りにも、毎回変わる謎のニックネームにもそろそろ慣れが生じてきた頃だ。

「弥生と亜紀とみゅう。予定が合えば来るってさ」

「おー、選り取りみどりだな」

「……お前やめろよそういうの……」

「なんでだよ。人いっぱいいたほうが楽しいだろ」

「じゃねーよ、言い方の問題だよ」

「何かおかしかったか? あーそうそう日程は、補習が終わった二日後から一泊でいいかな」

「お盆休み真っ最中かぁ……混んでないかな?」

 麗奈が少し躊躇うと、正樹は困ったように頭を掻いた。

「いやまぁそうなんだけど。お盆以外は、京介が塾らしいんだよ」

「中村くん塾なんか通ってんだ」

「あいつん家、エリート一家だからな。両親獣医だし。息子もいいとこ目指すんだろ。てなわけだからお盆は空けておくように

「……だってさ、大丈夫?」

 ちょうどタイミング良く教室に戻ってきた亜紀と美優に呼び掛けると、二人はきょとんとして立ち止まった。無理もない。

「何が?」

「海に行く話。お盆休みでいい?」

「あぁ、あの集団ビーチ合コンね。お盆かぁ、どうしよっかな」

「違う違う、皆で楽しく遊ぶだけだよ」

 冷めたような亜紀の言い方に、正樹が反論する。

「でも男女四対四なんでしょ?」

「その方がどっちか孤立しなくて楽しいかなって」

「それを合コンって言うんでしょ」

「少なくともコンパではないだろ! あー、合同……お泊まり」

「もっと悪いわ!」

「えー、みゅうは泳ぐの楽しみだけどー」

 美優が口を挟むと、正樹が助かったとばかりにガッツポーズした。

「よっしゃ! みゅうみゅう来てくれるってさ! アッキーナも来いよ」

「えー。ヤヨは?」

「来るって言ってたよ」

 麗奈が教えると、亜紀は渋々というように頷いた。

「仕方ないなぁ。皆が行くならアタシも行くよ」

「やった! これで四対四成立だな」

「そこにこだわってたのかよ」

 麗奈にとって、友達と泊まりで外出するのなんて自然教室と修学旅行以外では初めてだった。

数日後が楽しみだ。


 ◇


 三者面談の期間は、教師がいたりいなかったり不規則なため部活動は休み、あるいは自由参加の個人練習になる。

 夏期補習が半分ほど終わったその日、麗奈のテニス部は自由練習となっていたが、麗奈は用事があるからということで練習には行かずに帰路についた。

 となると、部活をしていない裕と萩、そしていつも萩といる隣のクラスの京介も一緒に帰宅することになるのがいつもの流れだ。

「そういえば、京介も海行くんだよね?」

 萩が思い出したように確認すると、京介は頷いた後申し訳なさそうに眉を下げた。

「うん。俺の都合でお盆になってごめんな、お前ら下宿組は帰省の都合とかあっただろ?」

「僕は帰省しないから大丈夫だよ」

「あたしも。お母さんがこっちに来てくれるから」

「俺はもともとここに住んでるから」

「そうなのか。よかった」

 と、京介が安心したように微笑む。

「海なんて小学校以来だから楽しみだな」

「あたし水着買わなきゃ。学校のしか持ってないや」

「おー、どんなん買うの」

「安くて可愛い水着があればいいなぁ……でも似合わないかも」

「高沢さんなら何着ても似合うよ。楽しみにしとく」

 さらりと京介がそんなことを言うので、麗奈は返事に困って萩を見た。

「……京介、そういうのは思ってもあんまり言わない方がいいよ」

「そうなのか?」

 萩が小声で(それでも麗奈には聞こえていたが)言うと、京介はきょとんとして首を傾げる。

 そんな京介を見て、少し離れたところで裕がポツリと

「あいつってなんか……天然人タラシだよな」

と呟いた。

 麗奈は黙って頷いた。


 三鈴川の橋を渡ったところで京介と別れ、土手の道を三人並んで民宿に向かって歩いていた時だった。

 突然、麗奈の両脇を歩いていた裕と萩が、弾かれたように勢いよく同時に身体を反転させて振り返った。

「な、なに」

 驚いた麗奈は咄嗟に裕の服を掴む。

 こういうことは今までにも頻繁にあったが何度あっても慣れないものだ。

 麗奈には聞こえない音、あるいは麗奈には感じない気配のようなものを察した時の二人の反応にはいつも驚かされる。

 知らない妖怪の気配を感じた時、二人は麗奈を危険から守るためにそれらを警戒しているらしいのだが、何もないのにいきなり振り返ったり走り出したりされると、普通の人間である麗奈は余計に不安になるのだ。それで結局「何でもなかった」ということもしばしばある。無駄に緊張するからやめてほしいというのが本音だ。

「今日は何……?」

「余所者が入ってきたか」

「結構強い妖気だ。こっち近付いてきてるよね」

「麗奈、石は」

「持ってる」

 裕の問い掛けに答え、麗奈は服の上からペンダントを握った。

「……これまた大層なお客だな」

「うー……ん!?」

 裕に頷いて返そうとした萩が、何かに気付いて遠くを見据えた。

「萩? どうしたの」

「……ミナだ」

「誰?」

 麗奈が首を傾げると、萩は身体の緊張を解いて麗奈の方を振り返り、苦笑した。

「君のお母さんでしょ」

「は?」

 言われてみれば確かに麗奈の母の名前は咸子みなこだ。

 今日は母が狐荘に来る日だった……が、何故裕が警戒しているのか、また萩が困ったような苦笑を浮かべているのかが解らない。

「……まーた凄いの連れてきちゃったな」

 萩が呟くと、裕はしめたとばかりに口角を上げた。

「お前の身内か。処理は任せた」

「えぇ……お前の土地だろ」

「連れてきたのはお前の身内なんだろ。後は知らん」

 二人のやり取りの意味が解らず麗奈が途方に暮れていると、裕にぐいと腕を捕んで後ろに引かれた。

「下がってろ。危ない」

「え、まさか本当にそういう感じなの!?」

「そうじゃなかったらどうなんだ」

「お母さんと何の関係が……」

「来た!」

 萩が鋭く叫び、裕と麗奈の前に出る。

「え、何!? てかあんた達住宅街で何するつもり……」

「あー大丈夫、すぐそこ河原だし」

「そういう問題じゃなくて……わあ!?」

 ごう、と音を立てて、思わず数歩よろけてしまうほどの突風が吹いた。

 萩が右手を高く上げ、ぱちんと指を鳴らす。

 金属を打ち合わせたような高い音。恐らくこれは今までに何度か聞いた、結界を張るときに聞こえる音だ。

 とはいっても麗奈はまだ結界というのが何なのかいまいちよく理解してはいない。音は聞いても、視界には何の変化もないからだ。たぶん外から見えないバリアのようなものなのだろう、と勝手に思っている。

 そして、それを張ったということは、その内側に自分達以外の何者かも閉じ込めたということで。

 次第に視界が白く靄が掛かったようになった。すぐ下の三鈴川すらも見えなくなる。

 麗奈が不安になって後ろから裕の制服の裾に掴まると、裕は手を後ろに回して安心させるように麗奈の腕を軽くポンポンと叩いた。

「ただの霧だ」

「これは……ミナの方だね」

 萩は学ランの胸ポケットに手を突っ込んで何かを探している様子だったが、やがて「いっか」と呟いて手を引っ込める。

 その時麗奈の耳に、パタパタと何者かが走ってくるような足音が届いた。

 今まで感じなかった第三者の気配がようやく感じられたことで少しほっとしたが、それが危険なものならまだ安心は出来ない。

 しかし霧の向こうから現れた人影を見て、麗奈は思わずポカンと開いた口が塞がらなくなった。

 脱いだハイヒールを左手に鷲掴み、全力で走ってくる女性。こちらに気付くと、驚いた様子もなく右手を大きく振った。

「やっほー麗奈、はーくん久しぶり!」

「お母さん!?」

 霧の向こうから現れた麗奈の母は、そのまま先頭にいた萩の傍らを走り抜け、麗奈を弾き飛ばさんばかりの勢いで抱き付いた。

「麗奈ー! 元気そうで良かった」

「お母さんも……元気そうだね」

「親子の再会邪魔して悪いけど、ちょっとそこの奥さん」

「はーくん、ごめん。変な虫付けちゃった」

 責めるような萩の視線に、ぺろりと舌を出して可愛らしく応じる母咸子四十三歳。

「……ミナ、説教は後でね」

「きゃあ、はーくん怖ぁい」

 そうとは微塵も思っていなさそうな顔で、咸子は麗奈をぎゅうと抱き締める。

 萩の額に青筋が浮かんだように見えたのはきっと気のせいではないだろう。


「その人間の娘を寄越せ」

 その時、低い声と共に霧が晴れて大きな獣が姿を表した。

 体長二メートルは越えるだろう。尾も合わせると、優に四、五メートルはいくかもしれない。褐色の毛並みに長く太い牙、太くてやや短い四肢の先には鋭い鉤爪が覗く。

 麗奈の知っている動物ではなかったが、敢えて近いものを挙げるとすれば、イタチ科の動物だ。それを巨大化、猛獣化させたような感じ。

 ということは。

「……お前の親戚か?」

 裕の質問に、萩は首を振った。

「まさか。あんな野蛮な親戚いません」

「鼬っぽいけどな。足みじけーし」

「妖としての種族が違う。川獺かわうそかなぁ。まだ生き残ってたんだ」

「イタチ科って点では一緒じゃねーか」

「違うんだよ。……おーい、お前。人間の娘ってもしかして、今追い掛けてきたこの人のこと?」

 萩が問い掛けると、妖は鋭い牙を剥き出して唸った。

「そうだ、その娘は私の獲物だ」

「あのね、残念ながらこの人間、ムスメって歳じゃないんだよ。もうおばさんだから」

「そこのガキうるさいわよ」

 凄んだ咸子に、萩は振り返りもせず背後に手を振って、黙ってろという動作をした。

「その人間、旨そうな匂いがする。強力な妖力の匂いだ」

「あ、そう。でも悪いけどあげられないんだ」

「何故だ」

「うーん……法的な意味で?」

「人の法で我等は縛れまい」

「僕の社の管理してる一族の娘さんなんだよね、これでも」

「貴様、萩山の山守のテンだな」

「まあ、そうとも言う」

「関係あるまい。その娘が自ら契約をしたのだ。喰っても良いと」

「……はあぁぁあ?」

 心底呆れたような声を出して、萩は頭痛でも堪えるかのように頭を押さえた。

「それは聞き捨てならないな……ミナ?」

 恨みがましい目で振り返った萩に、咸子はへらへらと笑いを浮かべながら

「契約なんかしてないわよ。四十のオバサン捕まえて『旨そうな娘だ、喰わせろ』だなんて、『そこの美しいお嬢さんお茶しませんか』に匹敵するような殺し文句言ってくるものだから、嬉しくってついつい」

「つい……?」

「私を捕まえられたら食べていいわよーって」

「それは立派な契約だっ、馬鹿!」

「えへへ。だから捕まらないようにはーくん何とかしてね」

「……っ!」

 悪びれない咸子に、萩は呆れて何も言えないようだ。こめかみを押さえて首を振っている。

「……お母さん、萩と仲良かったんだ」

 麗奈が小さく呟くと、咸子は何やら意味深に微笑んだ。

「拳で語り合った仲だもの」

 獣の妖は暫く様子を見るようにうろうろしていたが、やがて唸り声を上げて体勢を低くした。

「契約は遂行させてもらう。邪魔をするな!」

 後足で地面を蹴って飛び上がる。裕が麗奈と咸子を背中に庇ったが、それより先に前に出た萩が右手を突き出して、妖を弾き飛ばした。

 妖はそれを予測していたかのようにくるりと着地して、牙を剥く。

 間髪入れずに今度は萩が動いた――と、麗奈が認識した瞬間には萩は既に妖怪の目の前に移動しており、目をしばたいた妖怪の鼻面を蹴り飛ばした右足を綺麗に振り抜いた後だった。

「速い……」

「流石ははーくんね」

「いやいや、挑発してどうすんだ」

 裕の言う通り。蹴られた妖は怒りに身体を震わせて、狙いを咸子から萩に変えたようだった。

「おのれ小僧。邪魔をするなら容赦はせん、消し去ってくれよう」

「わぁー、時代劇みたーい。……でも」

 怒る妖に対してまるで無邪気な子供みたいな台詞を吐く萩に、麗奈は一人ハラハラする。しかし、その次の言葉を聞いた妖と、すぐ側にいた裕の顔色が変わったのを見て、ただ事ではないということにようやく気付いた。

「仮にもこっちは山神だ。……消えるのはそちらだよ」

 萩の胡桃色の髪の中から、真っ白な丸い獣耳がぴんと立ち上がった。学ランのウエストから、白くて長い鼬の尾が揺れる。背中しか見えないが、雰囲気で感じる気迫。多分萩は今、無表情だ。

「貴様ほどのちんけな妖力で神を名乗るとは笑わせる」

 妖が口元をニイと歪めて笑う。

「纏めて喰ってやろう」

 妖が牙を剥き、全身の毛を逆立てて萩に飛び掛かった。

「小僧だのちんけだの、そっちこそ何を見てるんだか……。知らないよ、死んでも恨まないでよね」

 面倒くさそうに、萩が右手を差し出す。その腕に、オレンジ色の炎が螺旋状に巻き付いた。

 妖は風を纏って高く飛び上がり、鋭い鉤爪の狙いを萩に合わせる。しかし萩はそれを数歩で難なくかわすと、炎を纏った右手を構えて妖に向かって駆け出した。

 瞬間。

 黒と白の残像。

 どん、と空気が揺さぶられるような衝撃。

 弾かれたのは妖だ。

 萩はその直後凄まじい跳躍力で、崩れた体勢を整えようとする妖の頭を上から踏み付けて飛び越えると、背後に回った。

 麗奈や咸子を背後に置いたまま戦うのは危険だと判断したのだろう。

 萩を追ってよたつきながら振り返った妖怪が、一瞬で炎の渦に包まれる。

 麗奈達のいる所まで、激しい熱風が吹き付けた。

 蛋白質の焼ける嫌な臭いに、思わず顔をしかめる。麗奈が裕の方を見ると、裕は青ざめた顔のまま目を見開いて萩を凝視していた。

 妖がぶるりと身体を振るわすと、炎が散って消滅する。

「あちゃー、川獺って水か、そっか」

 軽い調子で言って腕を組む萩。

 その隙を突こうとしたらしい妖が大きく口を開けると、小さな衝撃音と共にアスファルトの地面が大きく穿たれた。穴の周りは水で濡れている。水の塊が、弾丸のような速さで萩のいた場所に向けて発射された――のだが、その時には既に萩は妖の背後に回り込んでいて、地面に穴が開いただけだったのだ。

 萩は、振り返った妖怪の牙をひらりとかわすと、

「ドコクスイ……あるいはスイショウモク、かな」

 呪文のような言葉を呟きながら妖の前足を軽く避けて懐に飛び込み、振りかぶった拳を妖の横腹に至近距離から叩き込む。妖の巨体は軽々と吹き飛ばされ、土手から河原に転がり落ちた。

「……!?」

 驚きのあまり口をぱくぱくさせて河原を指差す麗奈の顔を、相変わらず抱き付いたままの咸子が面白そうに覗き込んだ。

「何をびっくりしてるの」

「だっ……だって、飛んだよ!?」

 まさかあの細腕で、しかも妖術らしきものは使わずにあの巨体を吹っ飛ばすとは、いったい誰が予想できただろうか。

「あらー麗奈、もしかしてまだ何にも知らないのね」

「え?」

「はーくんああ見えてかなりの怪力なのよ」

「……でも確かさっきお母さん、拳で語り合ったとか言って」

「そうよー、通算百四十一勝百五十七敗で負け越してんの。やんなっちゃう」

「負け越し……ひゃく!?」

 桁がおかしい。そもそも何の勝負のことだか全く解らない

 萩は怪力だというのなら、拳での戦いではないはずだ……と、信じたいところなのだが。


 落ちた妖を追って河原に降りた萩が右手を差し出すと、地面から土の塊が幾つも浮かび上がった。

 流れるような萩の手の動きに従って、土塊の群れが妖へと襲い掛かる。次々に生じては飛んでくる土塊の数の多さに、初めは跳んでかわしていた妖も避けきれなくなったのだろう、次第に攻撃をまともに受けるようになる。

 ぶつかった土塊は妖の身体にそのまま貼り付いて、少しずつ妖怪の自由を奪っていく。

 萩は逃げようとした妖怪の前に素早く回り込み、逃げる隙を与えない。何も知らない者が見たら、どちらが悪者か判らなくなるだろう。

「ねぇお母さん、萩が言ってた、ドコク……なんとかって何?」

「さっきの? 土剋水か水生木かって言ったのね」

「どういう意味?」

「それもまだ教わってないの? 土は水を剋する、水は木を生かすってことよ。陰陽五行の考え方だけど、解りやすく言うとゲームのタイプ相性ってとこね。水タイプを倒すには土タイプか植物タイプ……みたいな」

「萩はそんなのも知ってるんだ……」

 麗奈が感心して呟くと、話を聞いていた裕は嫌な顔をして首を振った。

「妖のくせに陰陽に通じてるって、吸血鬼が十字架に祈りを捧げるようなもんだぞ」

「通じてるんじゃないわよ、はーくんは知識があるだけ。陰陽術は使えないもの」

「そっスか」

「こらー、そこの馬鹿狐、たらたら雑談してないで手ぇ貸せー!」

 河原で妖と争っていた萩が、裕に向かって叫ぶ。

十一トイチでな」

 萩の呼び掛けに、裕は飄々と応えて土手を降りていった。


「貴様ぁぁあ!!」

 怒りに吼えた妖が萩に飛び掛かろうとするが、つんのめって河原に叩き付けられた。地面に生えた草の間からうねうねと伸びた植物の蔦が、妖怪の四肢に巻き付いて拘束している。

 妖が力任せに引きちぎっても、次から次へと巻き付いてキリがない。

 巨体を持つ妖怪でも、ヒトと同じ身体をした萩に掠り傷一つ付けられないのだ。今まで萩が本気で戦っているところは見たことがなかったから知らなかったが、やはり萩は強いのだと思い知らされる。

「この地の要素はお前の方が扱いやすいでしょ。うまくコイツとっちめてやってよ」

 萩が裕に言うと、裕は先程と同じことをしれっと言った。

「トイチでな」

「……お前の土地のイザコザ処理なのに何で僕が力を借りなきゃいけないんだよ」

「手を貸せって言ったのお前だろ」

「……この狐……っ」

「ツケにしといてやるよ」

 裕が右手を高く上げる。

 と、その瞬間、拘束されていた筈の妖が蔦を引きちぎって飛び上がった。

「あっ」

「油断したな」

 土手の上にの道に降り立った妖はニヤリと笑うと、麗奈と咸子の方を向いた。

「獲物が増えた。好都合」

「わぁ、やっばー」

「馬鹿、気抜くなって!」

「手貸してくれるんじゃなかったの?」

「貸すとは言ったけどまだこっちはまだ心構えが……くそ!」

 慌てた二人が土手を駆け上がってくるが、妖が麗奈と咸子に飛び掛かる方が速かった。

 いつになく身の危険を感じて悲鳴を上げた麗奈を安心させるかのように、咸子はにこりと――にやりと、微笑んだ。

「おかーさんに任せなさい」

 咸子の右手から、何か白いものが目にも止まらぬ速さで走った。

 妖の動きが止まる。

「残念でした」

 不敵に微笑む咸子の手から伸びた帯状のものが、ぎっちりと妖を縛り上げていた。

 麗奈はもう呆気に取られて何も言えない。

「人間が……ッ」

「何も出来ないか弱い小娘だと思ってくれてたの? どうもありがとう、すっごく嬉しいわぁ」

 そう言って咸子がヒラリと取り出した白い紙切れに、麗奈は見覚えがある。時々萩が使うあれだ。

 身動きが取れない妖の元まで軽やかにスキップしていくと、

「でも、賭けは私の勝ちみたいね。だって貴方は私を捕まえられなかったんだもの。ざーんねーんでーした」

 歌うようにそう言って、妖の額にぺたりと札を貼り付けた。

 ギャッ、と短い悲鳴を上げて、妖が身体を強張らせる。直後、数メートルの巨体は風船のようにあっという間に縮み、数秒後にはたった今まで妖がいた場所に小さな褐色の獣が伸びていた。

 その首根っこを掴み上げ、ぶらんぶらん振り回しながら、咸子はこちらに向かって歩いてくる萩に誇らしげに手を振る。

「ほらほら、はーくん見てた?」

「見てた? じゃなくて……っ」

 萩は呆れたような、ほっとしたような微妙な顔で溜め息を吐き、ふと麗奈の方を振り返る。

「そうだ麗奈、怪我はない?」

「あ、うん、――」

 ないよ、と答えようとした瞬間。

 視界がぐるりと回った。

 否、麗奈の視界ではない。視界の中で、萩が回ったのだ。

「油断したわねー。だから妖にも逃げられたりするのよ」

 目を丸くして尻餅を突く萩の胸ぐらから手を離して、咸子は小馬鹿にしたように笑った。

「これで百四十二勝百五十七敗。記念すべき三百戦目が楽しみね」

 裕が口を押さえて笑いを堪えている。

 萩の顔が赤くなる。

 何が起こったのか判らなかった麗奈も、ようやく状況を理解した。

 咸子が萩に背負い投げをかましたのだ。

 つまり、「拳で語り合う」は本当に拳で勝負していたということで。

 ぷちん、と萩の中で何かが切れた気配。しなやかだった尻尾の毛が、ブワッと広がった。

「咸子……」

「やだぁ、はーくん顔怖ぁい」

「いい加減にしろぉぉぉ―!」

 閑静な住宅街に、萩の怒鳴り声と裕の笑い声が木霊した。


「君は何回言われたら理解するんだ!? 下手に妖怪に喧嘩売ったら駄目だって昔から何度も何度も何度も何度も何ッ度も言ってきたじゃないか!!」

「喧嘩なんか売ってないわよ、ナンパされたのよ」

「結果的には一緒だろ!? しかもあんな、無謀な契約なんかして――」

「私はそう簡単に食われたりしないわ」

「そういう変な自信はどこから湧いてくるんだよ! 君なんかよりよっぽど強い妖怪はわんさかいるんだよ、そういう奴等からしたら君が一人で歩いてるのなんか」

「旨そうな獲物にしか見えないってんでしょ? 知ってる」

 萩が尻尾の毛を逆立てて凄い剣幕で咸子を説教している。一方全く悪びれた様子もない咸子は、気絶したカワウソを手元で弄んでいる。バンザイさせたり、アイーンさせたり。

「……今日はたまたま僕らがいたから良かったものの、もし本当に一人だったらどうするつもりだったんだ。しかも今日は、君だけじゃなくて麗奈まで危険に晒したんだよ、分かってんの?」

「愛娘は命に換えても守る自信あるわよ。母親をなめないで」

「それで自分から喧嘩売って妖怪に喰われたら元も子もないだろ! 母親ならもっと母親らしく……」

「やぁだ、はーくん姑さんみたい。男の子に母親像語られたって、ねぇ」

「僕は麗奈の身を案じてるんだ! 子供三人産んだ母親がこんなんじゃ心配にもなるよ!」

「こんなんだなんて失礼ね。子供達だってあと五、六年もすれば成人して社会に出ていかなきゃいけないんだもの、身を守る術はおいおい教えていくわ」

「そういう話じゃなくて! 僕が言いたいのは、母親が子供を危険に晒してどうするんだってことで……!」

 ……埒が明かなそうだ。

 麗奈と裕は、背後でガミガミ説教する萩の声を聞きながら、土手の草むらに二人並んで腰掛けた。

「お前の母親、おもしれーな」

「あれにいつも散々振り回されてるのはあたし達なんだけどね……もう慣れた」

「確かにあの人の娘やるのは大変そうだ」

「その分自由にのびのび育てて貰ったよ。……でも、萩がお母さんとあんなに仲良かったなんて知らなかったなぁ……タメ語だし、萩があんな怒るの珍しいよね」

「いや、俺に対しては別に珍しくもないし……あれが仲良さそうに見えんのか?」

 裕が背後を指差す。

 麗奈はうーんと首を傾げた。

「喧嘩するほど仲が良いって言うじゃない?」

「……喧嘩っていうか、あれ説教みたいだけどな」

「いいのいいの」

 麗奈はパッと立ち上がり、咸子と萩に手を振った。

「お母さん、萩。あたし達、先に民宿に帰るからね」

「えーっ、じゃあ私も行く、連れてって麗奈」

「咸子! 話はまだ――」

「着いたら聞くから。長旅で疲れてるんだからちょっと休ませてよ。私もう若くないんだから……って、さっきはーくんも言ってたじゃない」

「……っ」

「ほら」

 してやったり顔の母。麗奈は萩の隣に立って、肩をぽんぽんと叩いた。

「まともにお母さんの相手しても疲れるだけだよ、萩……」

「いやまぁ、分かってるんだけどさぁ……」

 この数分間でかなり疲弊した萩が溜め息を吐く。

 またしばらく、民宿が賑やかになりそうだ。

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