第26話 相違

「何があったんですか!?」

 帰ってきた一同、特に裕とケンを見て、玄関に出迎えに来た宏は目を丸くした。

「喧嘩」

 それだけ答えて自分の部屋に帰ろうとする裕の襟首を、宏が掴んで引き寄せる。

「消毒しますから、裕は……ケンさんも、こちらに」

「いいって」

「駄目です!」

 リビングのドアを開けて、宏は有無を言わせず二人を中に入れた。

「痛ーくしてやってー」

 萩がドア越しに念押しをして立ち去る。

 麗奈がリビングと自室のどちらに行くべきか迷っていると、後ろからユズに肩を叩かれた。

 振り返ると、小さく手招きされる。麗奈はユズの部屋について行った。

 どうしよう、と様子を窺っていると、ユズは自分の荷物からメモ帳とペンを持ってきて、丸っこい文字で

『これなら話せるよね』

 と書いて麗奈に見せた。

「あ……そっか、筆談なら出来るんだ」

『聞こえないわけじゃないから、麗奈は普通に喋ってね』

「うん」

 ちょっとタイムラグが出来てしまうが、通訳を通さずに話が出来るのは助かる。麗奈がユズと向かい合って畳に座るとユズは満足気に頷いて、メモ帳に『さっきはごめんね、ケンが』と書き込んだ。

「それは……まぁ、仕方ないよ」

『でも、怖かったでしょ』

「……仕方ないよ」

 怖かったのは本当。ただ、ケンがユズをあんなに思っていたのだと判って、とても複雑な気分だった。

「何も出来なくて、ごめんね」

『どうして麗奈が謝るの?』

「私の力ならユズを助けられるかもしれないのに」

『でも、私はそれは嫌だわ』

「ケンさん、あんなにユズのこと大切に思ってるのに……」

『それは麗奈も同じでしょ?』

 ユズの言葉に、麗奈は首を傾げた。

「同じ……?」

 ふふ、とユズが笑い、メモを見せる。

『裕さんと萩さんに、あんなに大切にされてるじゃない』

「はぁ? 何それ!」

 麗奈は思わず吹き出した後、手と首を最大限に振って否定した。

「ないない、まさか。アイツらがそんな、ケンさんみたいな強い思い持ってる訳ないじゃん」

『でも、あんなに麗奈のこと守ろうとしてたわよ』

「裕はあたしのこと従業員どころか雑用程度にしか思ってないし、萩は仮にも神様で、神主の孫であるあたしを守るのはお仕事だからだよ」

『えー』

「そうじゃなかったら何なのよ」

『絶対そうだと思ったんだけどなぁ』

「どこらへんが?」

『ぜんぶ』

「あはは、何それ」

 笑う麗奈を、不服そうに口を尖らせて見詰めるユズ。やがて強い筆跡で

『女子会するよ!』

 と書いて見せ、嫌な予感がして逃げようと立ち上がった麗奈の足にしがみついて引き留めた。

「えー……」

 しぶしぶ腰を下ろす麗奈に、ユズはふぅと息を吐いてメモを見せる。

『わかった。麗奈普段そういう話しないでしょ』

「だから、どういう話よ」

『こいばな!』

「興味ないってば」

 ユズは口を尖らせて残念そうな顔をする。

『だって、修学旅行のとき、消灯した後は人間の女の子達はみんなそういう話をするんでしょ?』

「する人はするかもしれないけど、あたしはさっさと寝るタイプ」

『なんだつまんない。そういうの、一回やってみたかったのに』

 ユズは何気なくそう書いたのだろうが、麗奈にはとても重い言葉だった。

 ユズは、学校にはもう入れない。修学旅行にも行くことは出来ないのだ。

「ユズ……」

『まぁ仕方ないよね』

「……修学旅行ごっこする?」

 麗奈が思い付きでそう提案すると、ユズはきょとんとして麗奈を見て、それから盛大に吹き出した。

 ペンを握ったまま何かを書こうとして、しかし肩が揺れているため文字が上手く書けず、メモ帳にミミズが這ったような跡が残る。

「いや、ごめん変な提案して」

『いいね! やろうよ、楽しそう』

「……えっ、ほんとに」

『うん』

 とはいっても具体的に何をするか考えていた訳もなく、とりあえず畳に敷き布団だけ広げて二人で寝転がり、消灯後の気分で語り合う。

 麗奈にはこれくらいしか思い付かなかった。

「あたし話すことないから、ユズが話してよね」

『ずるい』

「だって、本当にネタがないんだよ」

『学校にいないの? 一人くらい』

「いませーん」

『クラスの男の子とか、部活の先輩とか』

「いないってば。……ねぇ、ユズとケンさんの話聞かせてよ」

『やだー』

 何故かこの期に及んで嫌がるユズ。麗奈ははぁと溜め息を吐いて布団に臥せる。

「じゃあこんなことしてる意味ないじゃん。寝るだけになっちゃうよ」

『ちょっといってみただけ』

 ユズはうつ伏せになったまま頬杖を突いて、足をバタバタ動かした。楽しそうで何よりだ。

『ケンはね、初めて会ったときはまだ仔狐だったのよ』

「こぎつね……」

 子供、ではなく仔狐。妖だから当たり前なのだろうが、何となく微妙な響きだ。妖怪だとか言われても、やはり麗奈は彼等を人間の目線で見てしまうのだ。

 で、動物好きな麗奈には気になることが。

「可愛かった?」

『うん。モフモフ』

「……ちょっと見てみたいかも」

『私の持ち主のおじいさまのとこに、裏山からよく遊びに来てたの。親とはぐれたみたいだった』

 “持ち主”。ユズは付喪神だから、その正体である何か(まだ教えてくれない)を所持していた人物なのだろう。

「その時はまだ、化けたりしなかったの?」

『ええ。生まれつき妖狐ではあったみたいだけど、最初は化けてはなかったなぁ』

「その時からずっと一緒にいたんだ?

『正確にはもうちょっと後ね。最初は、可愛い仔狐がいたからちょっとからかってみたくらいで、ケンも私のことをちょっとした遊び相手くらいにしか思ってなかったみたいだし――』

 ユズが長文を書き始める。麗奈は黙ってその筆跡を追った。


 ユズの話を要約するとこうだ。

 ユズの持ち主の男性は楽器コレクターで、色々な古楽器を集めて大切に保管しており、ユズもそのコレクションの一つだった(これによりユズの正体が何かしらの楽器であると推測)。付喪神になったのはその男性の家にいた時だという。

 しかし男性が年老いて亡くなると、親戚たちはそのコレクションを売るかあるいは捨てるかして処分しようという話をし始めた。ユズは古すぎて捨てられる運命だったのを、ケンに頼んで家から連れ出して貰ったのだという。

「連れ出してもらったって……すごいね、逃避行みたい」

『付喪神は、持ち主なくしては生まれないの。持ち主に対して幸や禍をもたらすモノだから、持ち主がいないと自分からは家を出られないのよ。誰か新しい持ち主に持ち出してもらわないと』

「……へぇ」

 麗奈には難しい話だ。深く追及するのはやめておくことにした。

「それ、何年くらい前?」

『家を出たのは二十年か三十年くらい前。ケンと会ったのはそれより十年くらい前じゃないかな』

「……そんなに前なんだ……」

つまり、ユズとケンは三十年以上もの間ずっと一緒にいたことになる。人間ならば仲睦まじいおしどり夫婦といってもいいくらいの年数かもしれない。

「家を出た後は?」

『たまにバイトして、必要最低限のお金を稼ぎながらずっとあちこち旅をしてた。留まる場所もないし、ケンが山に帰ってしまうと、私はただのゴミになってしまうし。今思えば、裕さん達みたいに、人として生活してみるのも良かったかもしれないけど』

「そうなんだ……」

 そんなに長い間一緒にいたのなら、幼い頃からずっとユズの側で育ったケンがユズを助けようと必死になるのも理解できる。

「ユズは……」

 妖怪でなくなってしまうのが、嫌ではないの?

――麗奈はユズにそう訊こうとして、やめた。

ユズは、静かに布団に顔を伏せていた。

『思い出した ごめん』

 メモにそれだけ走り書きして、ユズは暫く顔を伏せていた。肩が震えている。

 思い出した、というのはきっと、今までの思い出とか、ケンとの出会いとか、そういった類いのものを思い出したということだろう。

「……ユズ」

 はぁっ、と息を吐いて、ユズは寝返りを打った。仰向けになって、天井を見上げる。それから麗奈の方を向いて、弱々しく微笑む。

 右手の人差し指で、畳に

『ごめん』

 と書いた。

「うん。大丈夫だよ」

『ほんとはこわい』

「……そっか」

 萩の話を聞いた感じでは、妖力の退化は死と同義。自分の死が近いと判って怖くない訳はない。

 ケンにはあんなことを言っていたけれど、やっぱり嫌なのだろう。

「あのさ、ユズ」

 麗奈が話し掛けるとユズは、何? と答えるように視線を返した。

「あたし、ユズになら、血くらい――」

 あげてもいいよ、という言葉の続きは出てこなかった。

ユズが体を起こして、涙の滲んだ目で、きっと麗奈を睨み付けたのだ。

「……あの」

 ユズがメモとペンを取る。

『それはしないって言ったでしょ』

「なんで? 誰も損しないのに」

『友達を傷付けてまで助かりたいとは思わないから』

「……人間も、骨髄とか臓器とか、移植することはあるんだよ。血液だって、輸血するし」

『それは医療行為としてでしょ。それとは違うもの』

「どうして嫌なの? あたしがいいって言ってるのに」

『萩さんと裕さんが怒るかも』

「そんなの知らないよ。あたしの意志だもん」

 麗奈がそう言うと、ユズは困ったように苦笑した。

『麗奈の気持ちも、ケンの思いも嬉しいし、そうして欲しい気持ちももちろんあるの。だけど、私はもともと生物ではないし……それに、もう充分長く生きたんだよ』

「充分……って」

『“付喪”って本当は“九十九”って書くの。人間に作られてから九十九年経った器物には魂が宿るって意味。だから私は、本当は作られてから百年以上経ってるの。充分生きてるよ』

「でも……ユズは、嫌なんでしょ?」

『嫌よ。麗奈のことも、ケンのことも忘れてしまう。自分の意志で動けなくなる。意志そのものがなくなってしまう。死ぬのと同じこと。そんなの怖い』

 字が震えている。不安と恐怖が入り交じる。

『だけど、そんなのは誰だってそう。生き物はすべていつか死ぬの。永遠なんてない、それは妖怪だって同じ。しかも私は、別に死ぬわけじゃないの。他の人達より、ちょっと得してる』

 そういって、ユズは麗奈の方を見た。

 たった一日しか一緒にいない麗奈にも、ユズの心の強さがよく分かった。

 消えるのは怖い。寂しい。それでも、死ぬわけではないから今後もずっとケンの側にいられる。そう、前向きに考えているのだ。

 ケンは、ユズのことをちょっと変わっていると言っていたけれど。ユズは強い。

「どうして、そんなに……前向きでいられるの」

 麗奈が呟くと、ユズは

『どうしてって』

と、書きながら小さく笑う。

『後ろ向きに考えたってどうにもならないじゃない』

 もっともな答えだった。

「すごいなぁ、ユズは」

『そうかな?』

「うん。尊敬する。……でもあの様子じゃケンさんの方はちょっと心配だね。思い詰めて首くくったりしないといいけど」

「……」

 ユズが真剣に考え込む。麗奈は冗談のつもりだったのだが、有り得ないこともない、のかもしれない。

『まぁ、人化出来なくなってもしばらくの間は話せるし……麗奈とは、話は出来ないけど』

「そっか」

『でも、もしよかったら、連絡先を……民宿の電話じゃなくて、携帯とかメールとか、ケンに教えてあげてくれないかしら。ケンともお友達になってあげて欲しい』

 ケンと友達に。

 命を狙うとはいかないまでも、怪我をさせられそうになった相手とそう簡単に友達になれるのか、という不安が麗奈の顔に出たのか、ユズは急いで

『いきなりケンと仲良くしろって意味じゃなくて。私もケンを通して、麗奈と連絡取りたいから』

と付け加えた。

「あ、いや、ケンさんが嫌って訳じゃないんだけど。いいよ、あとでメアドと番号書いて渡すね」

『ありがとう。……よろしくね』

 “ケンを”よろしくね。麗奈には、ユズがそう言ったように感じた。


 ◇


「はい、終わりましたよ」

 救急箱の蓋が閉じられる。

「全く……喧嘩だなんて、子供みたいなことはやめてくださいよ」

「すみません……ありがとうございます」

 絆創膏だらけになったケンは体を小さくしてソファーの端に座っている。

 散々続いた宏の小言に辟易した裕は、ソファーの反対側の端に深く座り、救急箱を片付けに行く宏の背中に向かって

「舐めときゃ治るってのに……」

 と漏らした。それを聞き付けた宏が振り返り、裕を半眼で睨む。

「そう言って放置した傷を化膿させて発熱して寝込んだのは誰でしたっけ」

「……」

 裕は言い返せずに口を閉じた。

「喧嘩なんてしないでくださいよ」

と言い残してリビングを出ていく宏と入れ違いに、萩が入って来た。

「終わった?」

「来んな短足」

「なんで。僕はケン君とお話があって来たの」

「ごめんなさい!」

 萩が何かを言う前に、竦み上がったケンが口走った。

「……まだ何も言ってないのに」

「ご、ごめんなさい」

「謝らないでよ」

「ごめんなさい……」

「埒が明かないね。それとも口癖なのかな」

 やや不機嫌にそう言って、萩は何故かケンと裕の間に腰掛ける。

「馬鹿、狭いよ、座んなよ」

「だったらお前があっち行けー。治療終わったんでしょ」

「ここ俺ん家だぞ」

「はいはい」

 裕は嫌がったが、結局移動はしなかった。

 ケンは怯えきって、ソファーからはみ出さんばかりに端へ端へと寄っていく。

「別に取って食ったりしないからさぁ」

「すみません」

「またそれ」

 萩はウンザリしながら呟いて、徐に手を伸ばしてケンの額に人差し指を突き付ける。

「次謝ったらデコピンね」

「ひぃ!」

「ひぃ、って……たかがデコピンに何ビビってんのさ。狐ってみんなチキンなの?」

「お前そんなに死にたいのか?」

 小馬鹿にしたような萩の問いに、間髪入れずに裕が斬り込んだ。

「あ、あの、それで……お話って」

 ケンが恐る恐る尋ねる。

「さっきの件に関して」

「で……ですよね、やっぱり」

「そりゃあね。何、株価の話でもされると思ったの」

「ご、ごめんなさ……」

「デコピン一発」

「痛っ!」

 バチン、と強めの音がした。

「こっちの指にもダメージあるんだからあんまり酷使させないでよね」

「はいっ!」

「で、本題」

 ケンをますます怯えさせていることに気付いているのかいないのか、萩は足を組んだ自分の膝に頬杖を突いて、うっすらと笑みを浮かべた。

 年頃の女の子ならたちまち惚れてしまいそうだが、萩に怯える弱い妖怪なら恐怖で血の気が引いてしまうだろう。もちろんケンは後者だ。

 隣で見ている裕からすれば、解ってやっているのだから悪魔の微笑みにしか見えなかった。

「麗奈の血肉で強い妖力が手に入る、って話だけどね。今後他の人間に手を出さないように言っておくけど……あんなこと、本当にやったら君自身も大変なことになるんだよ。解ってる?」

「……はい」

 ケンはしおらしく俯いた。

「もちろん君の気持ちは解るけど、今の時代は妖怪がそう簡単には人間に手出し出来ない事情があるのも解るよね。法律とかさ」

「はい……」

「血を寄越せなんて脅すだけでも恐喝、怪我させようものなら暴行とか傷害かな。まして、同意の元であっても腕一本もぎ取ろうものなら全国ニュースで大騒ぎになるだろうね。そしたらどうなる?」

「……人間に、見付からなければ」

「甘いねー、そんな派手なことしてバレないわけがないだろ。人間一人いなくなったら国中大騒ぎだ。最近の警察の捜査能力侮っちゃ駄目だよ」

「人間は、僕達の存在を知らないのではないですか?」

 やはりまだ諦めが付かないのか、ケンはしぶとく食い下がる。そんな彼に、萩は子供を諭すように優しい口調で問い掛けた。

「人間は知らないだろうけど、警察犬は? 人間じゃない者の臭いを嗅ぎ当てるのなんて容易いだろうね。それにもし、僕達みたいに人間に紛れて、警察やってる妖怪がいたら? そういう人達からすれば、人間を傷付けた妖怪は立派な犯罪者だ」

「……」

 ケンはぎゅっと唇を噛む。

「それでも……ユズが助かるなら」

「君はそれで良くっても、ユズちゃんはどうなるの。もし君が逆の立場だったらどう思う」

「……逆?」

「君を助けるためにユズちゃんが身をなげうって、人間に捕まったら? もし人間じゃないのがバレて、研究施設にでも連れていかれたら? 解剖とか実験材料にされちゃったら? それでも君は、助かって良かったと思うの?」

「……いぃ、嫌だぁ」

 ケンの声が震えた。泣く寸前だ。流石に萩も慌てて、ケンの肩を擦った。

「いや、今のは例えだから……あぁもう泣かない泣かない! 君そんなごついナリして、今いくつなんだよもう」

「す、すみま……ひぁ」

「もうデコピンしないから! そんな身構えなくていいから……ほんとにもう、さっき麗奈を追い詰めてた時の勢いはどこにやったんだよ」

 立派な身体でメソメソしているケンの頭を、まるで子供にするみたいに撫でてやりながら、あぁめんどくさい……と、萩は声を出さずに口だけ動かした。


 ◇


 リビングに戻ってきた宏は、キッチンに立って夕飯の仕度を始めた。

「萩さん、夕飯の準……あ」

 萩に手伝いを要請しようとしたが、取り込み中(ケンを慰めている)なのに気付いて口を閉ざす。

 宏は次に、ソファーで暇そうに座っている裕に視線をやった。

「裕……」

「手伝ってやろうか」

「野菜を……切って欲しかったのですが」

「やってやる」

 裕が珍しく手伝いを買って出た。しかし宏は、返答に困って口ごもる。

「あー……いえ、結構です」

「手、足りないんだろ」

「なんとかなりますよ」

「何だよ、折角手伝ってやるって言ってんのに」

「包丁、ですよ?」

「は? 何が言いたい?」

「いえ、その……あー、では……お願いします」

 躊躇いながらも、宏は頷いた。

「任せろ」

 普段は絶対キッチンには立たないくせに、今日に限って何故だかやる気に満ち溢れている裕が、ソファーから立ち上がって速やかにキッチンに来る。あまりにもあり得ないことなので、宏は小声で恐る恐る裕に尋ねた。

「どうかしたんですか? 珍しい」

「なんだよ失礼な。……居心地悪いんだよ」

 裕は同じく小声で返してくる。

「自分のお家でしょう」

「そのはずなんだがなぁ。んで何、切ればいいの」

「とりあえず、皮剥きだけお願いします」

「わかった」

 と、包丁を手に取ろうとした裕の手に、宏はすかさずピーラーを握らせた。

「こっちのほうが簡単ですから!」

「? ……おぅ」

 宏が裕に包丁を持たせるのを躊躇うのには深い理由があるのだが、これはすぐに明らかになる。


 ◇


 麗奈とユズが寝転がって話していると、突然襖がガラリと開いて裕が顔を覗かせた。

「……何してんだ、お前ら」

「修学旅行ごっこ」

「はぁ?」

 呆れたような声を出したあと、裕はちらりとユズに視線をやった。

しばらく沈黙に包まれる。麗奈には聞こえないやり取りがなされているのだろう。

 やがてユズは、笑顔で頷くと、麗奈の方を向いて両手を伸ばし、ぎゅうと抱き締めた。

 ユズの「最大級の感謝」だ。麗奈も手を回し、抱き締め返す。

 二人が離れたのを見ると裕は小さく頷いて、

「麗奈、いいか」

 と手招きをした。

「何?」

「宏が夕飯作ってるから、その手伝い」

「うん、いいよ。ユズ、行ってくるね」

 麗奈は立ち上がり、裕に付いていこうとし――

 その裕の左手を、麗奈は後ろからわし掴んだ。

「ななな何これ!?」

「あ? いや、別に」

 引っ込めようとする左手を無理矢理引き寄せる。その手からポタポタと鮮血が垂れ落ち、床に小さな赤い水溜まりを作っていた。

 よく見ると、廊下からユズの部屋までの道程にポツポツと血痕が残っている。

「ちょ、流血流血!!」

「別に大したことじゃ」

「何したの!? 何したらこんなことになるわけ!?」

「いや……」

「ちょっと、行くよ!」

 はっきり言わない裕の腕を引いて、麗奈はユズの部屋を飛び出した。

 リビングでは萩とケンがソファーに座って何やら話している。キッチンで作業中だった宏が、入ってきた麗奈達の方を振り返って声を掛けてきた。

「どうかしましたか裕、突然出ていっ……」

 そこまで言って停止する。宏の視線が裕の血塗れの手に注がれた。

「いつの間にそんなことに!?」

 宏は炒め物をしながら、手を離せないらしくフライパンと菜箸を持ったままキッチンから出てこようとする。

「いいですいいです、宏さんは料理しててください。で、裕はこっち!」

 麗奈は裕の手首を掴み、ダイニングの椅子に座らせる。

「ほら、手上げて!」

「はぁ? 何だよ」

「心臓より高く上げるの!」

「いいよ、別に」

 と嫌がる裕の左手首を、きつく握り締めて頭上に高く上げさせた。

 麗奈には怖くて傷を直視できないが、どうやら親指の付け根辺りを深く切っているらしい。その手首を握る麗奈の手も赤く染まる。

「……何してんの」

 振り返った萩が訝しげな視線を向けた。

「何、それ」

「いや、別に」

「……ケン、落ち着いたらユズのとこに行きなよ」

 萩はケンの肩をポンポンと叩いて立ち上がり、ダイニングテーブルに来て麗奈に握られた裕の手を覗き込んだ。

「うわぁ、何したらこうなったの。服まで真っ赤じゃん」

「いや……、まぁ、ちょっと」

「宏ちゃん、こいつに何させたの」

「人参の皮剥きをお願いしようと思って、ピーラーを……」

「はぁー成程」

「あんたピーラーでこんな怪我すんの!? しかも人参って、一番ピーラーで皮剥きやすい野菜じゃん!」

 麗奈は衝撃の事実に驚愕する。すると裕は不服そうに呟いた。

「いけそうな気がしたんだ」

「それ死亡フラグだよ、駄目なやつだよ!」

「お前、ピアノとか弾けるくせに実はどんだけ不器用なんだよ……宏ちゃん、次からピーラーはプラスチックのやつに換えてあげてね」

「すみません、私が刃物を持たせたばっかりに」

「何だよそれ、馬鹿にしてんのかよ!」

 萩と宏のやり取りに憤慨する裕だが、麗奈にも流石にこれは「ピーラーでこんな大怪我するような奴に今後刃物は持たすべきではない」と判断するしかなかった。

「なぁ、もう大丈夫だって」

 麗奈に掴まれた手を引っ込めようとしながら、裕が言う。麗奈は左手で手首の血管を、右手はガーゼ越しに傷口を圧迫していたが、その手をそっと離そうとして、やめた。手を離すとまだ血が流れるのだ。

「大丈夫じゃないよ、まだ止まってないし」

「じゃなくて。自分で押さえられるよ」

「……じゃあ傷のとこ、ちゃんと押さえなよ」

「解ってる」

 裕の右手と交代して、麗奈は両手を離す。今まで見たことないくらい、麗奈の手は血塗れになっていた。

「ねぇ、それ縫って貰った方がいいんじゃない」

 下がりそうになった裕の肘をぐいと持ち上げながら、萩が提案した。裕は萩に言われた意味が解らなかったのか、鸚鵡返しに呟く。

「ぬって……?」

「そう。病院行って縫って貰ったら。三、四針でしょ」

「縫う? 病院なんか行くわけねぇだろ。自殺行為だ」

「遺伝子検査や手術されるわけじゃあるまいし、外科くらいなら大丈夫でしょ」

「行かねぇよ」

 そんな二人のやり取りを聞きながら、麗奈はふと気になって聞いてみた。

「妖怪って、病院行くの?」

 萩と裕が同時に振り返る。

「行くわけねぇだろ」

「なんで?」

「……検査でもして正体バレたらどうすんだ。それに人間の薬が効くかどうか判らないし、そもそも保険証が無い」

「そっか……」

 もっともな答えだ。だが、それでも麗奈の疑問はまだ解消されなかった。

「じゃあ、大きな怪我とか病気したらどうするの?」

「怪我なら消毒液や傷薬くらいは使えるけど、病気は自分で治すしかねーだろよ。いざとなったら……俺等みたいな獣系の妖は獣医か? 付喪神は知らん」

「でも、外科的な処置なら人間と同じで問題ないんじゃないかなぁ。傷の縫合くらい、獣医だってするでしょ」

「じゃあお前は病院行ったことあるのかよ」

「ないよ。怖いもん」

「……だったら言うなよ」

「縫ってもらったことはある。痛かった」

「それは聞いてねえ」

「心配してやってるのに、ねー?」

 萩に同意を求められ、麗奈も頷いた。

「人間だったら病院行くよ、その怪我」

「ピーラーで切りましたーってさ」

 萩がニヤニヤ笑いながら言うと、裕は

「行かねえっつってんだろ!」

 と、椅子に座ったまま萩の腿を蹴った。

宏が一旦料理を中断し、片付けたばかりの救急箱を再び持ってきた。

 慣れた様子で裕の手の傷を消毒し、厚めのガーゼを当て、テープと包帯でしっかり固定する。

「喧嘩はするわ手は切るわ……余計な傷増やさないでくださいよ」

「元はと言えば全部あいつが悪いんだ」

 と、裕はたった今まで大人しくソファーに座ってこちらを見ていたケンを顎で示した。

ケンはびくりと飛び上がって、慌てたようにそっぽを向く。

「少なくともピーラーの怪我にケンは関係ないだろ」

と萩が言うが、裕は何やら気に入らない様子だ。

「……関係なくねぇよ」

「なんで?」

「ここ俺ん家なのに」

「はぁ?」

 ぶつぶつ言いながら立ち上がると、裕はリビングを出て階段を上がっていってしまった。

「もうすぐ夕飯ですからね!」

 宏が階段に向かって叫ぶが、返事はない。

「ご飯の時はあたしが呼びに行きますよ」

「お願いしますね、麗奈さん」

 宏がキッチンへ戻り、萩が宏の代わりに救急箱を片付けに行った。

 暇をもて余した麗奈はリビングを何となく見渡して、――ケンと目があった。

「あ……」

「ごめんなさい!」

 ケンがいきなり立ち上がり、深々と頭を下げた。

 誰に向かって言っているのか分からず振り返ったが、宏は裕が中途半端に残した人参の皮剥きに集中している。

 自分が言われているのだと判断して、麗奈はケンと向き合った。

「……えーと」

「怖がらせてしまってごめん。もう何もしないから」

「あぁ……いえ、気にしないでください」

 対応に困った麗奈は曖昧にへらりと笑って、リビングを出ていこうとした。しかし、何故かケンは麗奈の後をついて来る。

 リビングを出たところで、ケンが麗奈の腕を掴んだ。

 引き留める程度の軽い力だったが、麗奈は思わず警戒心を剥き出しにしてその手を振り払ってしまった。

「ご、ごめん……あのさ」

 ケンが困ったように振り払われた手を引っ込める。

「訊きたいことがあるんだ」

「……何ですか」

 言葉の裏をかかれないよう警戒しながら、麗奈は返答する。

「麗奈ちゃんは……妖が怖くないの?」

 何を訊くかと思えばそんなことか、と麗奈は嘆息して、少しだけ警戒を解いた。

「怖くないですよ。あくまで危害を加えないって解ってる相手なら、ですけど」

「……どうして」

「どうしても何も。例えば人間だって、刃物持ってうろついてる人がいれば怖いし、身近な人なら怖くないし。それと同じです」

「麗奈ちゃんは、裕さんや萩さんのことをどういうふうに思ってる? 契約者じゃないなら、何?」

 質問攻めにされて戸惑いながらも、麗奈はケンが何か変わろうとしているのを感じ取っていた。

 だから、きっぱりと答えてやる。

「友達」

「……ともだち」

 ケンが麗奈の答えを復唱する。

「妖怪と人間なのに、友達?」

「何か変ですか?」

「ううん。……ちょっと、いいなって思って」

「何が……?」

「守ったり、助けたり、心配したり、そういうの。いいなって」

「ケンさんは、ないんですか?」

「僕にはユズしかいないから。ユズが全てだ。……だから、ユズがいなくなったら、どうしていいか解らない」

 ぽつりと言った最後の言葉は、きっと彼の本心なのだろう。

「だったら……」

 麗奈はケンが顔を上げるのを待ち、彼の目をまっすぐ見つめて言った。

「作ればいいじゃないですか。友達」

「え……どうやって」

 ケンは掠れた声で尋ねる。しかし、反論するような口調ではなかった。反語ではなく、本当に方法を知りたがっているような。

「ユズがやりたがってたみたいに、学校に通えばいい。ケンさんはたぶん見た目も私達とそんなに変わらないから、高校生でも大丈夫でしょ」

「……無理だよ」

「望まないなら無理にとは言いませんけど……わざわざ学校行かなくたって、就職してもいいんじゃないですか。人間じゃなくて妖怪でもいい。とにかくたくさん出会って、ユズの他にもたくさん友達を作るんですよ。そして、その日あったことや楽しかったことをユズに話してあげれば、ただ二人でひっそり暮らすより、楽しみも共有できるでしょ」

「……」

 ケンは再び俯いて黙り込み、じっと考えている。

「ユズだって本当は怖いんですよ。不安で寂しいんですよ。だけど運命を受け入れようと頑張って、強がってるんです。貴方がそれを受け入れてあげなくて、どうするんですか!」

 はっきりしないケンの態度に、思わず語気が荒くなる。ケンはハッとしたように顔を上げた

 麗奈は息を整えて、一度ユズの部屋の方に視線をやる。きっとユズに聞こえてしまったかもしれない。

(……それでもいい)

 心の中で念じて、再びケンを見る。余計なお世話かもしれないけれど。

「……ユズのこと、大切なんでしょう」

「た、大切だよ、すごく大切に思ってる! 大事なひとだよ、大好きだよ」

 ケンは、力を込めてそう言った。

 本当に心からの言葉だと、麗奈にも判る程だった。

「だったら……側で支えてあげてください。ユズの友達として、お願いします」

 麗奈はそう言って、頭を下げた。

 しばらくの沈黙の後、

「……わかった」

 ケンはぽつりと、微かな声でそう言った。

「ちょっと考えてみる。ユズとも話してみる」

「そうですね。ユズと相談してみてもいいかもしれないし」

「……ありがとう。ごめんね」

「こちらこそ、……力になれなくてごめんなさい」

 ケンは麗奈に小さく会釈し、ユズの部屋に入っていった。

 麗奈は溜め息をついて、しばらくぼんやりと廊下に立ち尽くす。


「何やってんの?」

 萩がいつの間にかすぐ隣まで来ていて、麗奈の顔を覗き込んだ。

「え、あっ萩」

「ぼーっとしちゃって」

「……ううん、何でもない」

 麗奈は笑顔で首を振ったが、萩は何やら難しい顔をする。

「ちょっと来て」

 萩は突然、麗奈の手首をがしりと掴んで階段の方へ向かった。

 当然二階に萩の部屋はない。

「何処行くの?」

「いいから」

 萩に手を引かれ、麗奈は二階に連れていかれる。何処へ行くのかと思いきや、萩は廊下の窓を開け放った。

「うお!?」

 窓の向こうから素頓狂な悲鳴が聞こえる。

 二階の廊下の窓を開けると、そこは一階のリビング部分の屋上。裕がよく昼寝をしたり寛いだりしているスペースだ。

 麗奈が窓から外を見ると、びっくりしたような顔で裕が起き上がったところだった。

「何だよ、二階は関係者以外立入禁止だぞ」

「いいからいいからー」

 そう言いながら窓から身を乗り出す萩。

「来ていいって言ってねえぞ!」

 と言う裕を無視して屋根の上に降り立つと、萩は振り返って麗奈に手招きした。

「えーと……」

 麗奈は萩の向こう側の裕を窺う。裕は麗奈の方をちらりと見遣ったが、ぷいとそっぽを向いてしまった。

 駄目と言わないなら許容だろうと見なして、麗奈も萩に次いで屋根に降りる。

「これ、三人も乗って天井抜けないかな」

 麗奈が少し不安になって言うと、裕が面白がるようにニヤリと笑った。

「さあな。乗ったことないから分からん」

「最近の建物ってそんなに脆いの?」

 萩の検討違いな疑問に、裕は呆れたように「アホかお前……」と呟いた。

 傾斜の急な屋根に、麗奈は裕、萩と並んで恐る恐る腰を下ろす。

 ここへ来たのは二回目だ。前に来たのは、民宿へ来てすぐの頃。裕が妖狐だと知ったのが、この場所だった。

 裕ほど身軽でない麗奈はこの急な傾斜でうまく静止できず、滑り台のように滑り落ちてしまう危険性があったので、自分からここに来ようと思ったことはなかったのだ。

「で?」

 裕が不意にこちらを向いたので、麗奈は顔を上げ、萩の向こう側の裕を見た。

「うん?」

「わざわざ二人揃って、何の用だ」

「あの……」

 麗奈が口ごもって萩の方に視線を戻すと、萩は小首を傾げて柔らかく微笑んだ。

「で、れーなちゃんはさっき何をそんなに考え込んでいたのかな?」

「……は?」

「お兄ちゃんに話してみなさい」

 そんなことをニコニコしながら言う萩。麗奈は反応に困って裕を見た。

「何故俺を見る」

「いや、だってあたし別に何も」

「何もないとこじーっと見て立ってたから、何考えてたのかなーって思ったんだ。何かモヤモヤ考えてるときの麗奈の癖だよ。……あーそれとも、もしかして僕には見えない何かがそこに」

「何もいないよ!?」

「……何の話だ。全く解らん」

 裕は辟易した表情で、ごろりと仰向けに寝転がった。

 それに釣られて麗奈も空を見上げ、

「……あ、満月」

 前にここに来た時も満月だったのを思い出す。

「裕はここで何してたの?」

 とりあえず話題を変えようとして裕に振ると、裕は寝転がったまま目を閉じて

「月光浴」

 と耳慣れない単語を口にした。

「……何それ」

「日光浴の夜版」

「それは名前で判るけど……」

「満月の夜は妖力が高まるんだ」

 裕の代わりに、萩が答えてくれた。

「そうなの? なんか狼男みたいだね」

「あれも結局同じだよね。満月で妖力が高まるから……その結果変身しちゃったり人間襲ったりする訳で」

「そうなんだ……てか本当にいるんだ」

「そりゃいるよ。ただ日本じゃ野生の狼はいなくなっちゃったから、こっそり暮らしてるみたいだけど」

「へぇ……萩もやるの?」

「僕はやらない」

「ふうん」

 そこでふと思い立ち、麗奈は腰を浮かして萩の方を向いた。萩がちょっとびっくりしたような顔で麗奈を見返す。

「あのさ!」

「な、何」

「……あたしの血と……」

「お前の血を飲んだり肉食ったりして得られる妖力は、これとは桁が違うからな」

 麗奈が言い終える前に、萩の向こうから裕が口を挟んだ。

「……そっか」

「だからといって変なこと考えんなよ」

「……うん」

 ユズも満月の光を浴びれば、麗奈の血を飲まなくとも妖力を高められるのでは……と麗奈は思ったのだが、裕に考えを読まれてしまったようだ。

 麗奈は落胆して座り直した。

「今夜の満月のお陰で、ユズちゃんはまだ人型を保ってられてるんだと思うよ。本当ならそろそろ限界だ」

 萩は何気ない口調でそう言った。

「そうなの……?」

「ユズちゃんと話は出来た? どんな話をした?」

と、萩が優しく尋ねてくる。

「修学旅行みたいなことしてみたいって言うから、布団敷いてゴロゴロしながら喋ったよ。ユズが付喪神になった頃の話とか……ケンさんとのこと、とか」

 もう充分生きたと言ったユズの顔と、ユズがいなくなったらどうしていいか分からないと言ったケンの顔、両方が浮かぶ。思わず暗い気分になった麗奈の顔を、萩が横から覗き込んだ。裕も上体を起こしてこちらを向く。

「あのさ……」

 麗奈がぽつりと呟くと、萩は何も言わずに、表情だけで先を促した。裕は黙って麗奈を見ている。

「あたしならユズを助けられるんでしょ?」

「……それだとちょっと語弊があるかな。『麗奈が犠牲になれば』、だよ」

「でも、ユズは助かるんでしょ」

「助かる、ってのも変だ。あるべき姿に戻るのを先伸ばしにするだけ」

 萩の口調は至って穏やかだ。それでいてしっかりと、麗奈の言葉を否定する。

「……なんであたしがユズに血をあげるって言ったら、二人は怒るの」

 麗奈が思わずそう言うと、萩は首を傾げた。

「怒ったっけ?」

「あたしの意志でも容赦しない的なこと、ケンさんに言ってたよね。萩」

「そうだねぇ」

 惚けたように相槌を打つ萩。裕は何も言わないまま、視線を麗奈から外した。

「あたしがいいって言ったら――」

「君のご両親は」

 突然、萩は声を大きくして麗奈の言葉を掻き消した。

「君のご両親は……君を妖怪のエサにするために十五年間育てた訳じゃない」

「エサ……って」

 麗奈は思わず口ごもる。萩は表情や雰囲気は変えないまま、穏やかに続けた。

「大事な娘が妖怪に食われました。――喜ぶと思う?」

「別に丸ごと食われる訳じゃなくて、ちょっと血か何かを分けてあげるのはって言ってるんだけど……」

「親からすれば同じだよ。医療行為や慈善事業とは訳が違う。例えば人間は、私達は牛や豚から血肉を寄付してもらってます、お陰さまで今日も生きていられます、有難い……なんて思わないでしょ。妖だって同じだ」

「……」

 萩に言われたことを頭の中で反芻する。麗奈はどうしても萩の言うことに納得できなかった。

 ユズやケンが、麗奈のことをエサや食物だと見なしているようには思えないのだ。

「……なんで萩がそこまで言うの?」

「うーん……」

 何故か萩は、そこで言葉を濁した。

「……麗奈のこと大切に思ってる人はたくさんいるんだよ、ってこと」

「でも……あたし」

「一つ、いいか?」

 今まで黙っていた裕が、口を開いた。麗奈と萩は振り返って裕の方を見る。

「麗奈、お前……人間と妖を同一視し過ぎだよ」

「……え」

 裕の言葉に、麗奈は少なからずショックを受けた。

「……駄目なの?」

「駄目とは言わねえけど、良くはねえな」

「なんで?」

「なんでって、お前」

 裕はまるで、そんな当たり前のことも解らないのかとでも言うように

「そもそも別のものを一緒のものとして考えるのはおかしいだろ?」

 と目を丸くしながら言った。

「お前は人間。俺達は妖。性質とか考え方とか、元から色々違うんだよ」

 裕は簡単に言うが、麗奈としては受け入れ難い話だ。

 裕や萩が妖だということは麗奈もよく知っている。だからといって麗奈は、特に彼らと自分を区別したことはなかった。

 何故なら、“変わらない”からだ。笑ったり怒ったり、悲しんだり。学校に行って勉強し、友達と遊ぶ。ケンやユズはともかく、少なくとも麗奈の身近にいる妖達は皆、人間と何も変わらない――そう思っていた。

「違う……の、かな、やっぱり」

 俯いて呟いた麗奈の、髪をくしゃりと撫でる手があった。

 驚いて振り返ると、微笑む萩と目が合う。

「麗奈がそんなに気にすることないよ」

「あ……、その」

「ユズに訊いてみればいい。麗奈の血が欲しいかって」

「……それは」

 その答えはもう聞いた。ユズは、嫌だと言っていた。友達を傷付けてまで妖でいたいとは思わない、と。

 それをそのまま萩に伝えると、萩は麗奈の頭に手を置いたまま

「じゃあそれが答えだ。ユズの望みはそれなんだ。そうすればいい。麗奈が悩む必要ないよ」

 と、微笑んだ。

「……うん。ありがとう」

 ユズに対して何もできないのか、という麗奈の悩みは一応解決したことになる――のだが、裕の言葉でまた別に新たな蟠りが出来てしまった。

 麗奈はふと裕や萩を見て、気になることを口にした。

「裕や萩は……あたしのこと、どう思ってるの?」

「どう……?」

 二人はきょとんとして麗奈を見詰める。麗奈はわたわたと顔の前で両手を振って言い直した。

「ごめん、変な意味じゃなくて。その、あたしは人間だから、獲物というか、食べ物というか……そういうふうになるのかな」

 麗奈は不安になって真面目に尋ねたのだが、裕と萩は二人同時に噴き出した。

「あはは、そんなまさか」

「んなわけないだろ、馬鹿か」

「えぇ……なんか言ってること矛盾してるような」

「別の話だもん。僕にとって麗奈は麗奈」

「で、うちの従業員。じゃなきゃわざわざあの狐とあんなアホらしい喧嘩してまで守ったりするかよ」

 そう言って再び寝転がった裕の顔を、萩が何やら可笑しそうに上から覗き込む。

「そういえばさぁ、お前はなんでわざわざ、ケンと闘うのにあんな取っ組み合いを選んだの? 妖術使えば一瞬で吹っ飛ばせるのに」

「あんなピヨピヨ相手にでかい術ぶっこむなんてフェアじゃねーじゃん」

「ピヨピヨって何……」

 麗奈が呟くと、萩はニヤリと不敵な笑みを浮かべた。

「狐はみんなチキンらしいからね……」

「何か言ったか! 言ったよな!」

「だから狐同士でフェアプレーってことか」

 まだ何か言いたげな(言いたいことは麗奈には分かっているが)裕が、舌打ちしてから渋々頷いた。

「一応な……普通、狐は噛んだり引っ掻いたりの喧嘩はしないんだが」

「そうなの?」

 麗奈が目を丸くすると同時に萩も、へぇ、と呟いた。知らなかったらしい。

「でもしてたじゃん」

 そう言いながら萩は徐に手を伸ばして、隣の裕の頬に貼られた絆創膏を、指先でギュッと押した。

「いってぇ! 何すんだ!」

「あはは、ごめん」

 跳び上がった裕を見て、萩は面白がっている。

「そもそも彼奴が先に突っ掛かってきたんだ。普通なら狐は、優劣を付けるためにわざわざ無駄に相手に噛みついたりはしない。口開けて牙剥いて牽制して、口の大きさとか牙の鋭さを見せ合えば、互いの優劣なんざすぐ判る。そんなことも知らない彼奴は世間知らずの」

「ピヨピヨね」

 裕の台詞を継いで麗奈が言うと、裕はこくりと頷いた。

「……そうだ。思い通りにならないと騒ぐ子供や、大人に反発して暴れる若者と同じだな」

「ピヨピヨ」

「ピヨピヨね」

 麗奈と萩が面白がって連呼すると、裕は恥ずかしくなったのか

「うるせー、何べんも言うな!」

と耳を赤くして怒鳴った。

「お前が最初にピヨピヨ言ったんだよ」

「何かいいね、ピヨピヨ」

「可愛いよね」

「……そろそろ飯出来る頃だ。行くぞ」

「お腹空いたピヨ?」

「うっせぇ」

 ふざけた萩に向かって言い捨てると、裕はさっさと立ち上がる。

「え、なんでわかるの」

 麗奈が尋ねると裕は当然のように答えた。

「宏は必ず最後に味噌汁を作るからな」

「あー確かにお味噌汁の匂いするね。今日は大根かな」

 萩がうんうんと頷く。麗奈も空気を吸い込んでみたが、よく分からなかった。

「……すごいなぁ」

「言ったろ、違うって」

 裕はそう言うと、なんとヒラリと屋根から飛び降りた。

「危な……!」

 麗奈は思わず叫んで立ち上がり、バランスを崩して萩に支えられる。

 体を乗り出してまで庭を見下ろす勇気はなかったが、ダイニングの窓を開ける音に次いで「また裕は!」という宏の声がしたので、どうやら無事に着地したらしいことが窺えた。

「麗奈は真似しちゃダメだよ……?」

 感心する麗奈を見て何か勘違いしたらしい萩が不安そうに念押ししてきたので、麗奈は首を振った。

「しないよ。痛いの嫌だもん」

 特に身体能力の良くもない人間が屋根から飛び降りたりしたら、たとえ着地出来ても足の骨や関節をどうかしてしまうのは目に見えている。

(やっぱり、違うんだ)

 妖怪と人とは違うと言い切った裕。

 今この民宿にいるのは、麗奈を除いて全員が妖怪だ。人間は麗奈だけ。

 なんだか、一人だけ仲間外れにされたような気がして寂しくなる。

 裕には全くそんなつもりはないのだろうが、それでもあの言葉は、「お前はこの家の中では違うものなんだ」と告げられたみたいで。

 思わず俯いた麗奈の様子を見て、萩は麗奈の腕を掴む力を強めた。

「麗奈。大丈夫?」

「ん?」

「まだ気にしてるでしょ」

「気にしてるっていうか……」

「口下手だよね。あのチキン狐」

「……え?」

 麗奈が顔を上げると、萩は何処か遠くを眺めながら口を開いた。

「彼奴は別に麗奈を自分達と区別した訳じゃなくて、麗奈は人間なんだから、妖怪のために自分を犠牲にする必要はないって言いたかったんだと思うよ。……妖怪と人間じゃそもそも価値観が違う。人間にとって身体を傷付けられるのは大変なことだ。平気で人間を襲う妖怪と違ってね」

「……そうなのかなぁ」

「麗奈にしてみたら、助けられる命は助けたいって思いはあるかもしれないけど……ユズの意志も聞いただろ。妖怪側には、人間を食ってまで生き延びることを良しとしない者もいるんだってこと。特に、人と近しい妖怪は尚更。例えば麗奈は、大切な友人の身体の一部が特効薬だとして、その人を傷付けてまで自分が助かりたいなんて思うかな?」

 絶対にない。麗奈は強く首を振った。それを見て萩は優しく頷く。

「そういうこと。でも麗奈が、人に化けた妖を人間と同じように見てくれているのなら、そういうふうに接してあげて。いつも僕らにしてくれてるみたいにさ」

「……いつも? あたし、萩と裕には何も特別なことしてあげてないよ」

 麗奈がそう言うと萩は、恐る恐る屋根の上を歩く麗奈の手を引きながら、にこりと微笑んだ。

「それでいいんだよ」



 翌朝、民宿の松の間――ケンとユズの部屋から、二人の姿は消えていた。


 ただ、綺麗に畳まれた布団の上に、丸っこい文字で「ありがとう」の五文字が書かれたメモ用紙が一枚、そっと残されていただけだった。

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