第19話 屋上

 翌朝麗奈は、萩や裕がダイニングに出てくる前に家を出た。

 昨夜早く寝た所為で普段より早く目が覚めたのもあるし、二人と顔を合わせ辛かったのもある。お陰で、まだ朝日が完全には昇りきらないうちに学校に着いていた。

 だからまだ誰も来ていないだろうと思っていた麗奈は、教室に入るといつものように「おはよう」と挨拶があったことに驚いた。

 弥生は既に登校していたのだ。

 麗奈が自分の机に荷物を置くと、弥生は開いていた問題集を閉じて振り返った。

「今日は早いね」

「もしかして弥生、いつもこんなに早く来てるの?」

「うん」

 弥生の机の横には、コンビニの袋が掛かっている。朝食も買って食べたのだろう。

「しかも朝から勉強って、偉いなぁ」

 感心する麗奈に、弥生は苦笑を返した。

「家じゃ集中して宿題も予習も出来ないから。夜は早く寝て、早起きするんだ」

「へぇ、あたしも見習わなきゃ。あたし何時に寝ようとギリギリまで起きないもん」

「じゃあ今日は何で?」

「……偶々、何か目が覚めちゃって……」

「ふぅん、そっか」

 弥生は軽く相槌を打つと、細い手首にはめたお洒落な腕時計の文字盤を確かめてから立ち上がった。

「ねぇ、麗奈」

「うん?」

「ちょっと見せたいものがあるんだけど、一緒に来てくれない?」

「いいけど。何処に?」

 麗奈が鞄を机の横に掛けて席を立つと、弥生はニコリと微笑んだ。

「屋上」


 ◇


 いつもの時間に起き出した萩と裕は、朝食を摂りにダイニングへ集まって、テーブルに並べられた食器が一人分空になっているのに気が付いた。

 宏はいつも三人を送り出した後に一人でゆっくり食べるから、これは麗奈の分だということが判る。

 いつもなら最後に起きてくるはずの麗奈が既に家を出ていたことに、二人は少なからず驚いた。


 裕と萩の間で数秒間の無言の戦いの後、負けた裕が渋々というように宏に尋ねた。

「宏、麗奈は」

「麗奈さんなら、たった今学校に行かれましたよ」

「何で」

「さぁ……何か用事でもあるのでは?」

 首を傾げる宏に軽く舌打ちをして席に着き、裕は用意された朝食を食べ始める。

「麗奈何か言ってなかった?」

 続いて萩が尋ねると、宏は不思議そうな顔をした。

「いえ、特には。早く目が覚めたから、と……麗奈さんに何かご用でも?」

「……いや」

 萩も椅子に座って箸を取ったが、自分でもよく判らない何かが心に引っ掛かってすっきりしない。

――嫌な予感がする。

 しばらく考えた後、萩は箸でカンカンと皿を二回叩いて裕の目を自分に向かせた。

「……何だ?」

「急ごう」

「そうしてる」

 これだけの会話で充分だった。

 裕と萩は普段より数倍急いで支度を済ませ、宏が慌てて見送りに来るのを待たずに民宿を飛び出した。


 ◇


 鈴代高校の屋上への扉は、普段は鍵が閉まっている。

 だから通常生徒は屋上へは出られないことになっているのだが、この日麗奈が弥生に連れられて最上階へ上ると、何故か扉が開いていた。

 扉を出ると、夜が明けたばかりで微かに赤みを帯びた青空が広がっていた。雲は一つもない。今日は快晴のようだ。

 ビュウと吹き抜けた強風に、麗奈は思わず足をすくませた。

 普段は立ち入り禁止になっているこの屋上に、転落防止のフェンスは無い。一歩間違えば落ちかねない危険に、麗奈は初めて気が付いた。

「見せたいものって何?」

 早く用を済ませて校舎に戻りたいと思いながら尋ねると、弥生はうっすらと笑みを浮かべた。

「……目の前に」

「判った、この景色でしょ。すごく綺麗だよね! あたし学校の屋上に登ったのって、小学校で町をスケッチした時以来なんだ」

 腰の高さまでしかない屋上の縁に手を置いて、麗奈は遠く続く町並みを眺めた。

 確かにこの風景は、こっそり見に来るだけの価値はある。期待を込めて振り返るが、弥生は何も言わなかった。

「……弥生?」

「ねぇ、麗奈」

 弥生は表情を変えず、こちらを見ている。

「私、この間訊いたよね」

「何て?」

「――妖怪がいると思うかって」

 どきりと心臓が跳ねた。

「麗奈は、いるんじゃないかって言った」

「……うん」

「麗奈は妖怪の存在を知ってたんだよね。身近にいるから……」

「……知ってたんだ」

「勿論。だけど麗奈は、人間に上手く化けてる妖怪しか知らない」

 弥生は、頭に付けた太いピンクのヘアバンドに手を掛けた。

「不思議に思わなかった? アクセサリーは禁止なのに、私がヘアバンドつけてること」

「え……? そういえば。あんまり気にしてなかった」

 現に、弥生に言われるまでそんなことすら忘れていた。弥生は呆れたような顔をする。

「麗奈ってなんか抜けてるよね。それに、鈍い」

 弥生はそう言って、ヘアバンドを頭から外した。その下から、色素の薄い髪と同じ色の、三角形の獣の耳が現れた。……犬の妖怪である流や涼と同じだ。

 それから弥生はスカートのウエストから徐に手を入れ、何かを引き出した。柔らかな毛で被われた長いそれは、恐らく猫の尾だ。服の中に隠していたのだろう。

「……猫?」

「そうだよ」

 弥生はにこりと微笑んで、麗奈に一歩近寄った。

「驚いた?」

「……知ってたよ。最初から、何となく」

「そっか。じゃあ説明はいらないね」

 弥生が一歩踏み出す。

「麗奈、妖怪が食べると強い妖力が手に入るんだって、本当?」

「……らしいね。根拠はないけど」

 麗奈は一歩後退った。

「ねぇ麗奈、お願いがあるんだけど」

「何?」

 弥生が一歩踏み出す。

 麗奈は後退る。

 弥生の顔をじっと見つめながら、麗奈は弥生の前髪に隠れた額に、黒い文様のような何かが見えて違和感を感じた。

「私達、友達だよね?」

「……そうだよ」

 踵が壁に当たって、麗奈は足を止めた。背後は腰の高さしかない壁、その向こうは空だ。

 弥生は微笑んだままの表情を崩さなかった。

「私の為に、死んでくれないかなぁ」

 まるで何かが爆発したような、轟音が響いた。


 ◇


 教室には早くから登校した生徒が数人いて、教科書やノートを開いたまま雑談していた。

 裕が教室に飛び込むと、全員一瞬こちらを向いたが、また雑談を再開する。

「麗奈は?」

「いない」

 廊下から尋ねた萩に小声で答え、裕は荷物を机に置くと教室を出て真っ直ぐに階段を目指す。

「どこ行くの?」

「あっちに行ったみたいだ」

「何で判るんだよ」

「ニオイで」

「さすが犬科……」

 萩は素直に感心したが、裕は首を傾げて眉を寄せた。

「でも何か変だ」

「何が」

「血の臭いがする」

「誰の?」

「知らない。けど同じ方向」

 短く返して、裕は階段を駆け上がり始めた。萩も後に続く。

 三フロアを一息に駆け上がり、屋上への扉のドアノブに手を掛けたが、軋んだ音を立てるだけで少しも回らない。

「何だこれ、外からも鍵が締まるのか」

「しっ! 声が聞こえる」

 萩が人差し指を唇に添えた。裕が口を閉ざす。確かに扉の向こうから、微かな声が聞こえていた。

『――死んでくれないかなぁ』

 耳に入った内容に、二人は顔を見合わせる。

「くそ……っ」

「代わって」

 ドアノブを力任せに回そうとした裕を押し退けて、萩が扉を調べた。

「もしかしたら、外から封印されてるのかも。下がって!」

 萩に押されて、裕は階段を数段降りる。萩はそれを確かめると、学ランの胸ポケットから七夕の短冊くらいの白い紙を取り出した。

 墨で何か文字が書かれているようだったが、裕がそれを認識する前に萩はそれをドアに向かって投げ放つ。

「“破”っ!!」

 萩がそう唱えるや否や、どういう原理かドアに貼り付いたその札は白い光を放ち、直後、まるで爆弾でも仕掛けたのかと疑うような爆音が轟いた。

 狭い踊り場は砂埃に包まれ、破壊されて歪んだ扉の隙間から光が射し込む。

 音が止んで数秒後、思わず両耳をふさいで顔を背けた裕の肩を叩いて、萩は親指で扉を示した。

「開いたよ」

「今のは……?」

「ん? 符術」

「じゃなくて。本当に解呪の術か?」

「違うけど?」

「…………そか」

 今はそんな場合ではないと思い直し、裕は突っ込むのを諦めた。


 ◇


 ビリビリとコンクリートを揺らすような轟音と同時に、屋上の扉から砂埃が大量に巻き起こった。

「何!? 爆発!?」

「……来た」

 混乱する麗奈とは対照的に、弥生は至って冷静だ。砂埃が収まると同時に、扉が内側から勢いよく開け放たれた。

「麗奈!」

 飛び出してきた裕と萩の姿に、麗奈は複雑な気分になる。

 けれど何も言わず一瞥しただけで、麗奈は真っ直ぐに弥生と対峙した。まだ、話は終わっていない。

「うん、いいよ」

「……え?」

 麗奈の言葉に、弥生が一瞬戸惑うような表情を見せた。麗奈の中に、一つの確信が生まれる。

「だから、いいよ。死んでも」

 もう一度、同じ言葉を繰り返す。

 今度は明らかに、弥生の表情に焦りの色が見えた。

「ど――どうして……?」

「友達にそうしてくれって頼まれたのなら、あたしは喜んでその通りにする」

「馬鹿、麗奈!」

「そんなこと言ったら――」

「部外者は黙ってて」

 口を出そうとする裕と萩に、麗奈は鋭く叫んだ。

「これはあたし達だけの問題なんだから」

 そう言って弥生に視線を戻そうとした時、突然首に衝撃を感じて麗奈はよろめいた。

 弥生が麗奈の背後に回り、首に腕を回して固めたのだ。

「貴方達、麗奈の守護妖怪なんでしょう」

 弥生が裕と萩に向かって叫ぶ。

「弥生、何して……」

「麗奈を助けたかったら私を殺して。じゃないと私は麗奈を殺す!」

 首に回された腕に、少し力が入った。けれど別に苦しくも何ともない。ただ腕を回しただけで、絞めたり折ったりする意志が全く無いのは明らかだった。

「嫌だね」

 弥生の言葉に裕が応える。

「自害したければ勝手にしろ。ただ、加担するのは御免だ」

「……麗奈が死んでもいいの?」

 裕が呆れたような溜め息をつく。萩がゆっくりと首を横に振った。

「僕がこの場にいる限り――麗奈が命じさえしなければ、君は麗奈に一切危害を加えられない。僕が一言、離せと言うだけだ。そんなこと君だって知ってると思ってたけど」

 ぐ、と弥生が言葉を飲み込んだ。麗奈ですら知らなかったそれを、弥生は理解していたらしい。

「理由は知らないけど、他人を利用して死のうなんて馬鹿な考えはやめた方がいい」

「……どうして……」

 麗奈の首に当たる弥生の腕が、小刻みに震えている。

「どっちにしろ私は、麗奈を殺そうとしたんだよ。貴方達は私を排除するべきじゃないの?」

「それは、麗奈が望まないことだ」

 きっぱりとそう言ったのは、裕だった。

 弥生が麗奈の首から手を離す。

「何で……? やっと、死ねると思ったのに。楽になれるって――」

――パンッ!

 鋭い音が鳴って、弥生がふらついた。

 麗奈が弥生の頬を力一杯叩いたのだ。

 振り抜いた右手をぎゅっと握り締め、麗奈は弥生を怒鳴り付けた。

「馬鹿なこと言わないで!!」

「……っ、麗奈には関係ない」

「関係無くない! あたし達、友達でしょ。さっき弥生が、自分でそう言ったんじゃない!」

「そんなのただの方便だよ」

 左頬を押さえた弥生は、涙の滲んだ丸い目で麗奈を見据えた。

「これを見ても、そう言える?」

 弥生が右手を前に差し出す。

 何かと思って手を見つめた麗奈の目の前で、突然その指先から腕にかけ、短い灰色の被毛が弥生の白い皮膚を覆うようにびっしり生えた。

 腕だけではなく、足や顔も同じように毛で覆われてゆき、形が変じる。

 しかし裕や萩が人化を解く時のように獣になるのではなく、中途半端な半人半獣の状態で変化は止まった。まるで二足歩行の猫にかつらと服を着けさせたような状態だ。

 体格は一回り小さくなっていて、制服が大きいのか手が袖に隠れていた。

「お前……混血なのか?」

「そうだよ」

 呟くように言った裕に、弥生だったそれは答えた。

「お父さんが猫又。お母さんは人間」

 姿は変わっても、声と目はそのままだなと麗奈はぼんやり思った。

「妖力が弱いから、どんなに努力しても完全にヒトには化けられない。……だけどヒトの血が混じってるから、胸を張って妖だって言えない」

 弥生は麗奈の方を見て、挑戦的に――しかしどこか悲し気に言った。

「化け物なんだよ、私。それでも麗奈は、私を友達だと言えるの?」

 麗奈は何も言わなかった。

 言えなかった。

 弥生が半妖だからどうとか、一切考えてはいなかった。

 そんなことはどうでも良かった。

 自分で自分を化け物だと言う弥生を見るとただ胸が痛くて、何と言えば良いのか言葉が見付からなかったのだ。

「三人には解らないよ。妖でもヒトでもない私が、今までどんな扱いを受けてきたかなんて……」

 今にも泣き出しそうな顔で、弥生は俯く。

「妖は私を仲間とは言わない。ヒトと素では付き合えないし、両親には学校で友達を作るなって怒鳴られる」

 そう言って弥生は自嘲気味に笑った。

「私には――もともと、居場所なんか無かったんだよ」

「……ふざけるな……」

 ぼそりと口を開いたのは、意外にも萩だった。

「ふざけるな!」

 その場にいた萩以外の三人が、一様に呆然とする。

 自分の言葉を横取りされた麗奈は、何が萩の気に障ったのか解らず萩の表情を窺う。

「……萩?」

「家族がいて、家があって、食事も寝る所もあって、友達だと言ってくれる人がいて。それでも君は居場所がないと言うのか!?」

 萩はまるで自分の事のように、悔しげに眉を寄せている。

「な、何で高沢君に口出しされなきゃ――」

 言い返そうとした弥生の言葉を遮って、萩は捲し立てた。

「君に毎日ご飯を食べさせてくれるのは誰? 十五年間育ててくれたのは? 君のことを友達だと言ってくれた人を、もう忘れたのか? ……本当に居場所も何も無いのがどういうことか知らない癖に、軽々しくそんなこと言うなよ!」

 弥生の目をきっと睨み、強く言い放つ。

「それから、麗奈がどんな気持ちでここにいるか、ちゃんと考えろ。麗奈は――」

「いいよ、萩」

 麗奈は弥生を挟んで反対側に立つ萩の方を見た。

 萩の言わんとすることが判った。昨日の麗奈の言葉の意味を、解ってくれたのだということも。

「ありがとう。だけどあたし、自分で言うから」

「……だって、麗奈」

「あたしはもう、何も出来ない子供じゃない」

 力を込めて、きっぱりとそう言った。

「ねぇ、弥生」

 麗奈は弥生の右手を取った。柔らかな毛で覆われた少し小さな手にはしっかり肉球も付いていて、思わずぎゅっと握り締めてしまいそうになるのを何とか抑え、両手でそっと包む。

「あたしは弥生が妖怪だって、最初から知ってた。……弥生がヒトじゃないのが嫌だったら、仲良くなんかならなかったよ」

「……だから、何よ」

 引っ込めようとする弥生の手をしっかりと握って、麗奈は弥生の薄い瞳を真っ直ぐに見つめた。

「居場所が無いなんて思わないで。居場所ならある。……弥生はあたしの友達だって、言ったでしょ? 弥生が言ってた方便とかじゃなくて。あたしが、言ったよね」

「…………」

「妖怪とか人間とか、そんなの気にしない。何でそうやって分類する必要があるの? あたし弥生のこと大好きだもん。だから……」

 握った右手をぐいと引き寄せ、麗奈は弥生を抱き締めた。

「……死ぬとか、言わないで。寂しいよ」

 突然のことに驚いたのか、麗奈の腕の中で弥生は固くなる。

「悩みがあるなら話してよ。聞いてほしいことがあるなら、何でも聞く。だから……一人で全部、抱え込まないで」

 腕の中にいた弥生の、身体の力がふっと抜けたのが判った。

「ふ……ぅ」

 小さな肩が、小刻みに震える。

 背中に回した手でぽんぽんとあやすように叩くと、やがて弥生は堰を切ったように泣き崩れた。

 幼い子供のように泣く弥生の背中を、麗奈はずっと優しく擦っていた。


 涙を流し、しゃくり上げながら、弥生はたどたどしく言葉を紡ぐ。

「れ、麗奈が……三人がずっと……ずっと、羨ましかったの……っ」

「……三人って、あたし達?」

「妖と……人間なのに、仲が良くて……公園で、遊んだりして、羨ましくて」

 弥生のその言葉に、一つの記憶が蘇る。

「あぁ……あの日あたし達を見てたのは、弥生だったんだね」

「私は、友達なんかいたことないし……あんなふうに遊んだことも、なくて……。だからずっと、淋しかった」

 弥生が麗奈の腕の中で、両目を擦る。涙はまるで弥生の心に溜め込まれていた思いを吐き出すように、止まらない。

「学校に入って、麗奈と知り合って……麗奈が、妖怪に理解がある人間だって聞いたから、麗奈だったら本当の友達になれるかもって思って……」

「……え?」

 ふと引っかかって、麗奈は制止を掛けた。

「ちょっと待った。聞いたって? 誰に?」

 突然の制止に弥生はきょとんとして、麗奈の胸から顔を上げる。

「理事長先生に……」

「はぁ? 何で」

「奨学金だよ」

 黙って話を聞いていた裕が代わりに答えた。

「人間は知らないだろうけど。この高校の理事長は、妖怪が人間と暮らせるように積極的に取り組んで下さってる」

「……まじ」

「マジ。金が必要かどうかには関係なく、入学する妖怪は皆、この学校の奨学会に入ることになってる。時々集会があって、どの先生や生徒なら妖に理解があるとか、暮らしていく上で不便はないかとか報告がある。もちろん、人間に紛れて暮らすだけ金の無い妖には奨学金も貸与されるきちんとした奨学会だ」

「麗奈は妖怪に理解があるっていうのは、僕等が理事長に報告したんだよ」

 萩が得意気に言う。

「そんなのあったんだ……じゃあ、あの健康診断の時って」

「あれも集会」

「そうだったんだ……知らなかった」

「その集会で、麗奈のことを聞いたんだけど……怖くて言えなかった」

 弥生は再び両目を擦る。

 涙は止まったようだが、未だに横隔膜の痙攣は止まらずにしゃくり上げ続けている。

「……それであんなに考え込んでたんだ」

「正体がばれると厄介だから、お父さんもお母さんも、例え妖でも友達を作っちゃいけないって言うの……だから尚更、心の隅っこで、麗奈とは友達になれないって思っちゃって」

 弥生が俯く。麗奈はコンクリートに膝をつき、下から弥生を覗き込んだ。

「うん」

「この間は親に、部活もやめろって言われたし……それで喧嘩して」

話の主旨が少しずつずれているが、弥生が懸命に話していることを聞いてやるしか、自分に今できることは無い。麗奈は黙って続きを促した。

「お父さんもお母さんも、睦月がいればいいんだもん。私はいらない子だから……」

 そして弥生の口から出たのは、聞き慣れない名前だった。

「睦月って……?」

「睦月は、私の弟。二人共、小さいときから、睦月ばっかり構って、私のことなんか、どうでも……っ」

 止まった筈の涙が再び溢れ出す。

 麗奈はもう一度弥生の背中に手を回した。弥生はしゃくり上げながら麗奈の肩に顔を押し付ける。

「わ……私に比べて麗奈は、仲のいい友達がいるし、恋愛相談できる優しい先輩もいるし、良い人に囲まれてるし……きっと今まで幸せに生きてきたんだろうって思ったら、羨ましくって、妬ましくなって……」

 弥生の話しぶりから、内容があの階段での出来事に及んだのが判った。

 麗奈は弥生の顔を上げさせて、正面から向き合う。

「あの時……怖かったんだからね。痛かったんだから」

「……ごめんなさい」

「それから弥生は、あたしのこと勘違いしてる」

「……勘違い……?」

「あたし、ずっと幸せだった訳じゃない」

 弥生は小さく首を傾げる。麗奈はくすりと笑って見せた。

「佐藤先輩に、恋愛相談なんかしてない。いじめの相談だったんだよ」

 弥生が息を呑んだのが判った。笑顔でする話ではなかったかなぁと、頭の隅でぼんやり考えながら立ち上がり、麗奈は屋上の縁に両手を置いて空を見上げた。

 もう、突き落とされたりする危険は無いということは解っている。

 一度目を閉じて、近くて遠い、忘れようにも忘れられない過去の記憶を呼び起こす。

 そして目を開けると同時に、麗奈は口を開いた。


「小学生の頃、一番仲のいい友達がいたの」

 懐かしい顔が、脳裏に鮮明に浮かんだ。

「ちいちゃんっていうあだ名で、気さくで明るくて、人懐こくて……軽い知的障害のある子だったんだ」

 大好きだった。見た目も可愛くて、子供心に憧れていたのを覚えている。

「いつも一緒にいて、何をするのも一緒だった。一番の親友だった。……そのつもりだった」

 しかし高学年になると、状況が変わった。

「バカな男子が、ちいちゃんのことを『ガイジ』だって言うようになった。寄ると移るぞ、近付くなって」

 今思えば、ほんの子供の戯れ言だ。バカみたいだと、笑って受け流すべき軽口。

 けれどまだ小学生の子供には、そう軽く取ることなど出来なかったのだ。

「いつも一緒にいたから、あたしもいじめられたよ。『あいつにもガイジがうつってる』って……今考えるとホント、馬鹿馬鹿しいことなのにね。くだらない」

 そう言って麗奈は自嘲気味に笑った。

……きちんと笑えていたか、判らないけれど。

「そして、中学に上がってしばらくたった頃――ちいちゃんは、校舎の屋上から飛び降りて……帰って来なかった」

 あの日の衝撃は、今でも覚えている。

 思い出すだけで、胸が刺されるように痛い。

「その前の日、一緒に遊んだ時にいきなりちいちゃんが『ごめんね』って謝ったの。自分の所為であたしがいじめられてると思ってて……あたしはそれでも、ちいちゃんと居たかったのに。あの時『また遊ぼうね』って、約束したのに……」

 もう彼女のことで泣かないと、心に誓ったのだ。空を見上げて涙を堪え、麗奈は続けた。

「誰にも相談出来ずに、ちいちゃんは逝っちゃった。……あたしが早く気付いてあげたら良かった。平気なふりして笑いながら、心の中では限界まで思い詰めてたことに気が付いてあげられたら良かったのにって、今でも思ってる」

 そしていじめの対象がいなくなると、矛先はすぐに麗奈に向いた。

 いじめの存在を知らなかった新しい中学の担任が、子供が不安がらないように「持病で亡くなった」と嘘を吐いた所為で、事情を知る麗奈以外の生徒は責任も何も感じなかったのだ。

「アイツが死んだから、コイツもきっと死ぬぞって。学校に行くと机に菊が置いてあったし、教科書は嫌な言葉の落書きだらけだったし、上靴なんか十足近く買い直した」

 今は本当に、世間知らずの子供がすることだなぁとつくづく思う。

「先生にも家族にも相談できなくて……学校でたった一人、いつも心配してくれたのが佐藤先輩だった」

 何も言わなくても、彼女はすぐに麗奈に声を掛けてくれた。部活に誘い、毎日面倒を見てくれた。

 お節介かもしれないけど、と苦笑した彼女の親切心が、どれだけ有難かったことか。

「天国のちいちゃんに会いたくて、思い詰めて自殺を考えそうになったこともあった。だけど――引き止めてくれた人がいた」

 君のことが好きだよと、死んだら絶対に許さないと、力強く抱き締めてくれたあの手の暖かさが、どれだけ心に染みたことか。

 麗奈はくるりと体ごと振り返り、座り込んでいる弥生に微笑み掛けた。

 弥生を挟んで向こう側にいる、萩にも向けて。

「だから今度は、あたしが弥生を助ける番だよ」

「れい……」

 言葉を詰まらせる弥生を、麗奈はきっと睨み付けた。

「いなくなるなんて許さないからね。弥生が自分で、友達だって言ったんだから。友達はずっと一緒にいるものなんだから」

「麗奈……っ、――ありがとう……」

「どういたしまして」

 座り込む弥生に近付くと、麗奈は弥生が立ち上がるのに手を貸した。

「麗奈……怖いの、嫌いなんじゃなかったの?」

 おずおずと尋ねる弥生に、麗奈は笑顔で答える。

「最初はちょっと怖かったけど。弥生がいい子だって知ってるから。本当はずっと淋しかったんだってことも」

「そっか……うん」

 弥生も釣られたのか、はにかむように笑った。

「……ありがと」


 弥生が人の姿に化け直し、制服やヘアバンドを整える間、麗奈は裕と向き合っていた。一歩離れた所で、萩が不安そうに見守っている。

 いざ向き合ってみると言葉が見付からず、互いに黙り込んでしまった。

「あの……」

「――ごめん」

 先に口を開いたのは麗奈だったが、それを遮って頭を下げたのは裕だった。

「え?」

「昨日、酷いこと言った。お前の過去とか何も知らないで」

「……だろうね。言ってないし」

 入学式の日の裕の口調を真似て返すと、裕は複雑そうに顔を上げた。

「でも……お前がどう思うかとか、少しも考えてなかった」

「それは仕方ないよ、知らなかったんだから。……あたしもごめん。助けてくれて、ありがとう」

「……どういたしまして」

 向かい合って頭を下げ、顔を上げると目があって、どちらともなく照れ笑いして顔を背けた。

 制服を整えた弥生は戻ってくると、三人から少し離れて立ち止まった。

「あのね。一つ、聞いて欲しいことがあるんだけど」

「うん?」

 麗奈が促すと、弥生は思い切ったように口を開いた。

「麗奈、悪い妖怪に狙われてるの」

「え? それって、どういう……」

「私じゃなくて、別にいる。昨日、私に麗奈を階段から突き落とさせたのが、そい……、ああぁ!!」

 話の途中で、突然弥生が悲鳴を上げた。左手で右の二の腕を掴んで蹲る。

「弥生!?」

 三人が駆け寄ると、弥生の制服の右袖が赤く染まっているのが見えた。さっきまではなかったものだ。

「ち、血が」

「さっきのはこの臭いだったんだ」

「佐竹さん! これ何、どうしたの」

 萩が弥生の肩を揺すると、弥生は歯を食いしばって痛みに震えながら右袖を捲り上げた。

 肘よりも少し上、白い皮膚にまるで細いナイフで一周ぐるりと切られたかのような傷が出来ていた。見ている間に傷は徐々に深くなり、流れる血の量が増えていく。

「れ、麗奈を……連れていかないと、まずは私の腕を持っていくって……っ」

 萩が肩で息をする弥生をしばらく見つめる。その後ろから、裕が思い付いたように叫んだ。

「佐竹、お前、そいつと契約か何かしたんじゃないのか!」

「したかもしれない、けど……その時意識がなかったの! 最近まで何も覚えてなかったもん……っ」

「暗示を掛けられたのか……そのままじゃ斬り落とされるぞ。たぶん身体の何処かに印があるはず――」

「これだ!」

 萩が素早く弥生の前髪を上げた。額には、先程麗奈が見た黒い紋様のようなものが付いている。

 萩がその印に触れて小さく何かを唱えると、それは呆気なく、跡形もなく消え去ってしまった。

「え……あれ?」

「呪いは消したよ。もう大丈夫。痛くない?」

 弥生が腕を押さえて起き上がると、萩がにこりと微笑んだ。

 血は流れているが、傷の進行は止まったようだ。麗奈はポケットからハンカチを出し、傷口を押さえてやった。

「あ……ありがと」

 弥生は麗奈からハンカチを受け取って自分で押さえる。

「こんな、簡単に……?」

「後で保健室で消毒してもらいなよ。たぶん大して力の強い妖怪じゃないから、しばらく様子を見て麗奈に近付いたら僕等が追い払えばいい。口外できないように暗示掛けられてたみたいなのに、頑張って教えてくれてありがとね」

 笑顔でそう言った萩を、弥生は呆気にとられたような顔でまじまじと見つめた。

「……もう怒ってないの?」

「君が本気で麗奈を狙った訳じゃないって判ったから。……君を操った妖には容赦しないけど?」

 笑顔で言ったが、怒った萩が本当に容赦しないことを数日前に知ったばかりの麗奈は、まだ見ぬ妖が危険を察知して逃げ出してくれることを祈った。

 出来ればスプラッタは見たくない。


 校舎に戻ろうとした麗奈の目に最初に飛び込んできたのは、校舎内へ繋がるひしゃげた扉だった。

「何これ……?」

「あぁ。それ彼奴の仕業」

 裕が、素知らぬ顔で扉を通って階段を降りていく萩の背中を指差した。

「佐竹がドアに封印掛けただろ。あれ壊すためにぶっ放ったんだ」

「……そ、そう」

 自分を助ける為に来てくれたのだから、麗奈には文句は言えない。ちらりと横を見ると、弥生がばつの悪そうな顔で麗奈を見つめ返していた。

「れ、麗奈……私、そんな術とか使えないよ」

 その言葉に、裕と萩が静止した。

「……え?」

 それだけ言って、裕と萩が恐る恐る振り返る。

「そのドア、もとから立て付けが悪くて……最初から鍵も壊れてたの。ただ、相当頑張らないと開かないくらい固いから、鍵の修理は必要なかったみたいで……まぁ、今朝私が、無理矢理こじ開けたんだけど……」

 弥生の言葉は、徐々に語尾が小さくなって消える。

 我に返った裕が、萩の背中に向かって思い切り怒鳴り付けた。

「術なんか掛かってなかったじゃねえかよ!!」

「……本当に?」

 怒鳴られた萩は、青い顔で振り返る。弥生がおずおずと頷いた。

「あーあ。後で弁償だぞ、お前」

「いや……手加減出来ないんだから仕方無いだろ」

「他の方法が浮かばなかったもんかねぇ」

 呆れた声を出す裕を、萩は半眼になって睨んだ。

「無力だった君に言われたくないね」

「麗奈がどこにいるか探し当てたのは誰だ」

「あぁそうだ、忠実なワンコがしっかりご主人の匂いを辿ってくれたんだったっけ?」

「てっめぇ!」

「ストップストーップ!」

 麗奈は慌てて二人の間に割り込んだ。

「二人共、あたしの為にやってくれたのは解ったから。もうやめなよ、そろそろ授業だって――」

……授業?

 ふと戻ってきた現実に、四人は一旦動きを止めた。

 今日は平日。

 ここは学校。

 時間は――……。


 キーンコーンカーンコーン。


 聞き慣れたチャイムが、校舎内に響いた。

「あ。朝補……」

「遅刻だな」

「補習だからまだ遅刻にはならないよ! ほら、急ごう」

 麗奈は弥生の手を引き、裕と萩を押し退けて駆け出した。

「廊下は走るなよー」

 後ろから裕の声が聞こえたが、気にしない。

「弥生」

 階段を降り切ったところで、走りながら小声で隣の弥生に話し掛けた。

「ん?」

「今日もお昼一緒に食べようね。それから、一緒に帰ろう」

 教室の前に辿り着く。

 後ろのドアに手を掛け、立ち止まって弥生の目を見る。

 弥生はしばらく麗奈の目を見つめ返し、

「……うん!」

 嬉しそうに頷いた。


 教室に入ると、まだ教師は来ていなかった。

 なんとか間に合ったようだ。

 二人が席について数秒後に教師が入ってきて、学級委員が号令を掛けると同時に前のドアが開く。

「稲崎、早くしろー」

 教師に言われ、遅れて入って来た裕は拗ねた顔で席についた。

 麗奈と弥生は顔を見合わせ、教師に聞こえないよう声を出さずに笑った。




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