第17話 トモダチ

 少女は俯いて、古ぼけた木製のベンチに腰掛けていた。

 既に日は暮れかかり、少女のいる境内は紅に染まっている。

 小さな神社の本殿の屋根に一羽の鴉がとまって、少女を見下ろしている。

 ざり、と下駄で砂を踏む音がして、少女が顔を上げる。

 白い着物と青い袴の、少女よりいくらか年長の彼は、境内の真ん中に立って少女を見つめた。

「……どうしたの?」

「……帰りたくない」

 それだけ言って、また俯く。

「……どうして?」

「学校に、行きたくない……」

 彼は少女の隣に並んで腰掛けた。

「……君のお母さんが、心配していたよ」

 少女は答えない。

 彼は少女の、空虚な瞳を覗き込んで問う。

「僕に話してくれないかな」

「……だめ。すぐお母さんに言うから」

「言わないよ。約束」

 差し出した小指を、少女は叩いて拒んだ。

「いや」

 彼は溜め息を吐いて、背もたれに身体を預けた。

「じゃあ、帰らなくちゃ。明後日、始業式なんだろ」

「…………」

 少女は黙っている。

 時間だけが過ぎ、太陽はもう完全に山の向こうに沈んだ。

 少女の親は、彼女が神社にいることを感付いているから、探しに来ない。神社には彼がいて、安全だということを知っているからだ。

「……ねぇ」

 少女が呟く。

「死ぬ、ってどういうこと?」

「……え?」

「死んだら人は、どこに行くの? どうやったら、死んだ人に会える?」

 ずきん、と彼の胸が痛む。

「……死んだ人には……会えないよ」

「……あたしも死ねば、会えるかなぁ?」


 時が止まった気がした。

 彼はぎょっとして、少女を見下ろした。

「何を……」

「……だったら死にたい……死にたいよ」

 少女の頬を、一筋の雫が伝う。

「死にたい……ちいちゃん、ちいちゃんに会いたいよ……!」

 少女は声を上げて泣き出した。

 死にたい、ちいちゃんに会いたいと繰り返して。

 彼は隣に座る少女を、強く強く抱き締めた。

「そんなことしたら、みんな悲しむよ」

「おか……お母さんと、お父さんには、妹たちがいるもん」

「友達だって」

「友達なんかいない!」

 泣き叫ぶように言った少女は、彼の肩に顔を埋めた。

「ほんとの友達は、あたしに消えろなんて言わない。机に菊置いたりしない、教科書に死ねなんて落書きしない!」

 静かな境内には、少女の嗚咽しか聞こえない。

「僕が、いるじゃないか」

 ぽつりと、彼は呟いた。

「君がいなくなったら、僕は嫌だよ」

「ふ……っく……」

「死ぬなんて、許さない」

 今度は強く言う。

 少女が涙に濡れた顔を上げ、真っ赤な目で彼を見上げた。

「君には僕がいる。死んだら許さない」

「なん……なん、で」

「君は『ちいちゃん』が好きだったんだね」

「……うん」

「ちいちゃんが亡くなった時、どんな気持ちになったか覚えてる……?」

「…………」

「僕は、君が好きだよ」

 真っ直ぐに、少女の目を見つめて、彼は言った。

「君が好きだから、死んだりさせない。死なせない」

 少女は目を丸くして、彼を見返している。

「だから、お正月にはまたここに来てよ……君がいなくなったら、寂しいよ」

 彼は涙をこらえるので精一杯だった。

 まだ中学に上がったばかりの少女が、こんなに苦しんでいるなんて知らなかった。

 もっと早くに、気付いてやれば良かった――。

「……ありが、とう」

 少女は袖で目を擦り、しゃくり上げながら、ぎこちない笑顔を見せた。

「あたし……、もうちょっと、頑張って、みる」

「うん」

「お正月も……ここに、いる?」

「ずっといる。君を待ってる、いつも」

「うん」

 もう一度、目を擦る。

 少女はもう泣き止んでいた。

「じゃあ、また来る」

「もう暗いよ。お祖母ちゃん家まで送ってく」

「うん」

 彼は少女と手を繋ぎ、立ち上がった。

 もう暗くなった山道を、二人で歩く。

 彼は傍にいてやれない自分がもどかしくて、悔しくて仕方なかった。

 ずっとこのまま、手を繋いでいたいと思った。


 ◇


「はよー」

「……おはよ」

 裕が学ランの釦を閉めながらダイニングのドアを開けると、覇気のない声で返事が返ってきた。

 いつものことながら麗奈はまだ起きておらず、裕と入れ違いに宏がダイニングを出て麗奈を起こしに行く。

 ダイニングテーブルに突っ伏していた萩が体を起こし、両手で顔を叩いた。

「よしっ」

「どうした? いつもアホだが今日はさらにアホ面になってるぞ」

 裕が何気無く言うと、萩は半眼で裕を睨んだ。

「うるさい馬鹿狐、いつも一言多いんだよ」

「心配してやってんだ」

「そうは聞こえなかったけど……あぁ、馬鹿だから語彙が少ないのか。なら仕方ない」

「黙れ短足」

「そっちから話し掛けてきたんじゃないか」

「てめえが腐った顔してるからだ!」

「腐った顔ってどんな顔だよ!」

「小学校に入学したはいいが、給食をいつも全部食べきれないことに悩んでいるピカピカの新一年生の顔」

「……ん?」

「察しろよ。高校で何かあったのかって訊いてる」

「そ、そうだったの!? なぞなぞかと思った!」

 本気で驚く萩を、裕は呆れた目で見遣る。

「最初に『どうした』って訊いただろ」

「ああ……引っ掛け問題」

「違ぇよ阿呆」

 裕は萩の頭を掌で叩いて、自分の椅子に座った。

 萩はむっとして叩かれた所を擦り、口を開く。

「なんか……昨夜昔の夢を見たんだけど、起きたらあんまり覚えてなくてさ。なんで高校に入ろうと思ったんだっけ、とか、そういう……」

「……お前、高校入らなきゃよかったって思ってるのか?」

「そうじゃないけど……、でもちょっと僕には早かったかな」

「何が?」

「いや……」

 萩は少し眉を寄せて考え込み、やがて言葉が見付からなかったのか、苦笑して

「何でもないよ」

 と答えた。

 萩が箸を取って両手を合わせたのと同時に、けたたましい音を立ててダイニングのドアが勢いよく開かれた。

「おう」

「おはよう」

 寝癖の付いた髪にジャージ姿で飛び込んできた麗奈に、二人はけろりとして挨拶する。

「なんで起こしてくれなかったの!?」

「だってお前、前起こしに行ったら『女の子の部屋に勝手に入るなんて最低』って怒鳴っただろ」

「しかも二人とも着替えてるしぃ! あぁもう、顔洗ってくるっ」

「せめて寝癖くらい直して降りてこい」

 裕の言葉を無視してバタバタと洗面所へ走っていった麗奈を見送り、裕は萩に目を向ける。

「堅くなんな。テキトーにやっときゃいいんだよ」

「アテになりそうにないなぁ」

「だったら聞くな」

「はいはい。どうも」

 萩はフフと笑って、朝食に箸を運ぶ。

「あぁ。あと、休み時間に勉強するなよ?」

「なんで?」

「うるさい上級生以外の人間が寄り付かなくなる」

「はいはい」

 素っ気ない振りをしながらも、萩が裕の助言を頭に叩き込んでいるのは明白で、裕は笑いを堪えて熱い茶を啜った。


 ◇


 麗奈が学校に着いた時、弥生はいつも通り既に自分の席に着席していた。

 麗奈は昨日から弥生のことを少し心配していたのだが、弥生の方は至って普段と変わらない。

 笑顔で挨拶を返してくれた。

 だから今日もまた何事もなく過ぎると、安心しきっていた麗奈が間違いだったのだ――。


「弥生、それ何?」

 その日の最後の授業である体育の前、更衣室で着替えていた時だった。

 ブラウスを脱いでキャミソールだけになった弥生の二の腕に、赤黒い痣が付いているのを麗奈は見つけた。

「え……うん、ちょっとぶつけたの」

「ぶつけた……?」

 体操服を着て隠そうとするのを止め、麗奈は指で痣に触れて軽く押す。

「……痛っ」

「あ、ごめん」

 手を離すと、弥生はすぐに体操服を着て痣を隠した。

「ねぇ弥生、この痣、歩いててうっかりぶつけたなんてものじゃないよね……内出血酷いよ」

「歩いててぶつけたんじゃなくて、その……転んだの」

「横向きに?」

「うん、自転車でバランス崩して……こんなふうに」

 両手を前に突き出しハンドルを握る真似をして、弥生は転ぶ動作をしてみせた。

「……なんだ、そうだったんだ」

「そうそう」

「気を付けなよ、子供じゃないんだから」

「はぁい。麗奈も早く着替えて」

 弥生は笑いながら着替えを済ませ、麗奈を急かす。

 しかし麗奈には、弥生の言ったことが嘘だという確信があった。

 転んだだけでは腕の内側にまで痣など出来ない。

 そもそも、弥生は自転車通学なんかしていない。


 弥生の二の腕に付いていた痣は、所々薄くて見えないところはあったが、ほぼぐるりと一周、まるで何かに強く掴まれたかのようにはっきりと付いていたのだ。

 微かな不安を残したまま、麗奈はあくまで明るく振る舞う弥生と共に校舎の外へ出た。

 今日はグラウンドで持久走がある。

 体育館の更衣室から、校舎の壁沿いに歩いて行けばグラウンドの出入口がある。

 まだ半袖の体操服では少し寒いので、風のあまり吹かない壁際を、他のクラスメイトも一緒に縦に連なって歩く。

 不意に、窓を開けるような音が、上から聞こえてきた。

 その音に釣られ、何気なく頭上を見上げた、その時だった。

「危ない!」

 何かに、突然背中を強く突き飛ばされた。

――ガシャン!

 列の後方で、悲鳴が上がる。

 転んだ麗奈は何が起こったのか判らず首をひねって背後を見つめた。

 隣で弥生も恐怖に目を見開いていた。

 たった今まで麗奈と弥生が歩いていたコンクリートの犬走りに、大きな焼き物の鉢が落ちてきたのだ。

 二人との距離は僅か数センチ。

 頭に当たっていたら、命は無かったかもしれない。

 血の気が引いたのが判った。


「大丈夫か!?」

 裕と正樹が、麗奈達の元へ駆け寄ってきた。

「誰だよ今の! 気を付けろよ、ちゃんと謝れー!」

 空を見上げ、正樹が拳を振り上げる。

 裕は麗奈と弥生に手を貸して立たせた。

「破片とか当たらなかったか?」

「う……うん、大丈夫」

「佐竹は」

「大丈夫……」

 頭上の窓が次々に開き、生徒達が何事かと見下ろす。

 それを見て裕が、小さく舌打ちをした。

「しまった……どの教室か判らなくなったな」

「いいよ、別に。事故だろうし」

 裕は少し険しい顔で首を振り、弥生が正樹に話しかけられているのを確認すると、声を潜めた。

「今、お前達を押したのは俺だ」

「え? でも、裕は今向こうから来て……」

「妖術使ったに決まってるだろ。風だよ」

「そうなんだ……ありがとう」

「その鉢……何者かが故意に狙って落としたんだ。上から誰かが見下ろしてた」

「え……」

 息を呑む麗奈の肩に、裕が手を置いた。

「佐竹かお前かは判らないが、どちらかは確実に狙われてるみたいだ」

 裕は上を見上げ、目を眇める。

「しばらくは警戒してろ。帰りも、あいつと二人きりじゃ危ない」

「……分かった」

 小さく頷く。

 心に暗雲が立ち込めたようだった。

 落ちてきた鉢の処理は職員室から駆け付けた教師に任せ、麗奈達は授業に戻った。


 体育の授業は四、五組の二クラス合同で行われる為、既に集合していた生徒の中には萩の姿もあった。

 校庭で、生徒達は男女各一列になって並ぶことになっている。

 麗奈が自分のクラスの位置に体育座りで腰を下ろすと、萩と隣になった。

「……何かあった?」

「ん、何でもない」

 心配そうに声を掛けてきた萩に麗奈は笑顔で首を振ったが、萩は眉を寄せる。

「血、出てるけど」

「えっ」

 萩が指差したのは、麗奈の膝。

 精神的なショックが大きくて気付かなかったが、突き飛ばされて転んだ時に擦りむいていたのだ。

 コンクリートの地面で転んだ所為か、出血量はそれなりに多い。

 萩に言われて傷を認識した途端、傷口が鈍く痛み始めた。

 隣を見れば、弥生は同じく転んだ時に擦りむいた掌を痛そうに舐めていた。

「弥生。体育終わったら一緒に保健室行こっか」

「うん」

「君も怪我してるじゃん。まだ時間あるから、今行った方がいいよ」

 萩が手を伸ばし、麗奈の後ろに座った弥生の手首を掴んで掌の傷を見る。

「いや、でも」

「もう授業始まっちゃうし……」

「いいから!」

 萩は躊躇う麗奈と弥生の手を引いて立ち、列から外した。

「間に合わなかったら僕が先生に言っとくから」

「……解った。弥生、行こう」

「ありがと」

 萩に礼を言って、二人は保健室へと向かった。


 麗奈も弥生も傷の処置をしてもらって体育の授業が終わるまでには何とか間に合い、皆と一緒にタイム測定を終えることが出来た。

中学でテニスをやっていた麗奈は運動には自信があったのだが、受験勉強で暫く運動していなかった所為か持久力は結構落ちていて、ひどく落胆した。

「はぁー……去年はもっと行ったのに。最悪」

「半年運動してなかったんなら仕方ないよ」

 終礼の前、支度をしながら鞄の上に突っ伏した麗奈の肩を、弥生がぽんぽんと叩く。

「また高校でもテニスやるんでしょ?」

「うん……。あ、弥生は部活決めた?」

「うん。書道やろうかなって」

「書道いいじゃん! かっこいいよ」

「麗奈は入部届出した?」

「うん、出した。練習は来週からだけど」

「そっか……じゃあ、私もあとで出してくるから、待っててくれる?」

「いいよ」

 と、頷いたところで教室の前のドアが開き、クラス担当の山本が入ってきた。

「はい、ホームルーム始めるから席に着いて。今日の六限の件、知ってる人もいると思いますが――」

 山本は、体育の前に起きた事件について簡単に説明し、六限の前には四、五組だけが空であったこと、落ちてきたのはこの二クラスのどちらかからであること、まだ誰がやったかは判らないが、うっかり落としたのであるなら届け出て欲しいということを連絡した。

 その他には特に詳しい話も無く終礼が早めに終わったので、弥生は入部届を提出しに行った。

 一緒に帰る約束をしていた麗奈は、弥生が帰るまで教室で待つことになった。

「おーい稲崎、今日暇か? 暇なら……」

「悪い。お前と違って忙しい」

「じゃあまた今度遊ぼうなー」

「死ぬまでのうちにはな」

「よっしゃー。約束だぞ!」

 正樹の誘いを(彼なりに)丁重に断って、裕は自分の席に留まっていた。

 まだ入ったばかりの一年生、居残りする程勉強熱心な生徒はいない。

 やがて裕と麗奈を除いてクラスメイトは全員教室を出ていった。

「麗奈。佐竹待ってるんだろ。あいつどこ行った?」

 二人きりになって十分も経った頃、裕が待ちくたびれたように席を立って麗奈の元へ来た。

「入部届提出しに行った。あれ、部長と顧問と生徒会室に提出だからちょっと時間掛かるんだよね」

「面倒臭いな」

「帰っててもいいよ? 待ってなくても……ていうか何で待ってんの」

「……別に一緒に帰るつもりは無いからな。見張るだけ」

 意味の解らないことを言い出す裕に、麗奈は眉を寄せた。

「何をよ?」

「……色々」

「色々って何」

「色々は色々だ」

「だから色々って……」

「麗奈、ただいま」

 ムキになって聞き出そうとする麗奈の肩を、帰ってきた弥生がポンと叩いて、ついでに少し揉んだ。

「痛た、お帰り」

「お待たせ。……稲崎くんも一緒?」

「一緒には帰らないんだって」

「? ふーん」

 不思議そうに裕を見遣り、ちょっと首を傾げた弥生は、すぐに気にするのをやめて麗奈の手を引いた。

「じゃあ帰ろ」

「うん」

 二人は手を繋いだまま歩き出し、少し遅れて裕も付いてきた。

 三鈴川の河原を歩きながら他愛の無い会話をして、時折水面に跳ねる小魚を見ては指差して笑う。やっと金曜日が終わったと、両手を上げて喜ぶ。

 別に普段と大して変わらない光景だったが、麗奈は何か心がもやもやして気が晴れない。

 いつも別れる橋の前に来るまで、弥生は麗奈と手を繋いだままだった。

「ねぇ、弥生」

 弥生が渋々と麗奈から手を離し、ゆっくりと家路に付こうとした時、耐えきれなくなって麗奈は呼び掛けた。

「ん?」

「もし……もしも、何か困ったことがあったら、あたしに言ってね。何でも相談に乗るから」

 弥生はきょとんとして麗奈を見つめると、くすりと笑う。

「なぁに、それ。麗奈って心配症なの?」

「いや、あの……例えば教科書忘れたとか、ノート無くしたとか」

「私はそんなにドジじゃないってば」

 弥生は数歩歩いて振り返った。

「じゃあまた、月曜日に!」

「またね」

 手を振って別れる。……いつも通りだ。


 裕が麗奈に追い付いて、何気無い様子で話し掛けた。

「今日の夜は久々に刺身だって、朝から宏が張り切ってたぞ」

「朝から……ま、まさか釣りに行った訳じゃないよね?」

「スーパーで鮪が安売りだとさ」

「ならよかった。……お刺身かー、久しぶりだよね。楽しみだなぁ」

「お前食うの好きだな」

「いいじゃん、健康的な証拠。好き嫌いする裕よりずっとマシ。野菜もちゃんと食べなきゃ身長伸びないよ?」

「うるっせぇ、黙れ!」

 裕は追い抜き様に掌で麗奈の後頭を軽く叩き、拗ねたのか早足で進んでいく。

「本当のことだもん」

「お前なんか食い過ぎで今に体重が倍増するからな、見てろよ」

「女子にそんなこと言うな」

 ぎゃあぎゃあ騒ぎながらいつしか二人の足取りは駆け足になり、気付けば民宿の前まで辿り着いていた。

「お帰りなさい」

裕と麗奈が玄関を開けると、エプロン姿の宏がリビングのドアから顔を覗かせた。

「六時半には夕食が出来上がるので、着替えて手を洗って待っててくださいね」

「はーい」

「ガキかよ……」

「ん? 好き嫌いするんだからそうでしょ」

「ですね」

 からかう麗奈に、宏が同調する。

 裕は無言で踵を返し、足音高く階段を登って部屋に帰ってしまった。

「あ、麗奈さん」

 麗奈も部屋に帰ろうと階段に足を掛けると、宏が思い出したように呼び止める。

「はい」

「萩さんが部屋でお休みなので、食事の前に起こしてさしあげて貰えませんか?」

「寝てるんですか? 分かりました」

「お願いします」

 宏が軽く頭を下げてリビングへ戻った。

 麗奈も自室へ荷物を運び、着替えを済ませる。

 数分後、食事直前に起こすよりは良いだろうと思って、階下へ萩を起こしに向かった。


「萩、起きてる?」

 そっと襖を開けて部屋を覗くと、萩は薄暗い和室の隅で、静かに寝息を立てていた。

 畳まれた敷き布団にうつ伏せで上体を載せ、足を投げ出す形で眠っている。きちんと毛布を着ているのは、恐らく宏が掛けてやったのだろう。

「萩、もうすぐご飯だよ」

 呼び掛けるが、返事が無い。

 気持ち良く眠っている時に起こされる不快感はよく知っているから、無理に起こすのが憚られて麗奈は小さく唸った。

「疲れてたのかなぁ……、ん?」

 チラリと視界に入った動く物に、ふと麗奈の意識が向く。

 毛布に隠れて判らないが、恐らく腰の辺りから伸びているらしい、全体的に白くて先だけが黒いふさふさの、

「……尻尾?」

だ。

 気が抜けている所為か、それとも寝るときはいつもなのか。

 腕に隠れて気付かなかった、頭にもしっかり丸い耳が生えていた。

「……萩ー、尻尾出てますよ」

 肩を叩いて声を掛けても、「んー」と小さく呻くだけだ。

 余程疲れていたのだろう、と思うと同時に悪戯心が擽られ、麗奈は人差し指で軽く尾に触れた。

 以前猫の尾を触りすぎて引っ掻かれたことがあるから、動物は尾に触れられるのが嫌いだと知ってはいる。

 相手が萩なら大して怒らないだろうと勝手に思った結果だ。

 案の定萩は嫌そうに眉を寄せ、尾がひょいと動いて麗奈の手から離れ、毛布の下に隠れた。

「起きなきゃ続けるよ」

 くすくす笑いながら今度は耳を数回突つく。

 すると萩は毛布を頭から被り、麗奈が毛布を脱がせようとしても微動だにしない程、がっちりと掴んで固定した。

「もう、折角ソフトに起こしてやってんのに。ちょっと! 夜ご飯!」

「んー……うるさい……」

 漸く目が覚めたのか、毛布から顔の上半分だけを出して半目でこちらを見る萩を、麗奈はガクガクとひたすら揺さぶった。

「起きろ起きろー、起きなさい、ご飯だってば」

「うー、やめて」

「起きたらね」

「眠い」

「夜寝るんだからいいじゃん」

「後で自分で作って食べるから」

「それは駄目、折角宏さんが作ったのに」

「眠い」

「駄目だって」

「……何してんだ?」

 終わりの無いやり取りをしていたら、開いた襖から裕が覗き込んできた。

「萩が起きない。何とかして」

「後で食べるってばぁ」

「だから、それは駄目なの!」

「いいじゃん」

 その時、裕が人差し指を口に当てながらゆっくり忍び足で部屋に入ってきた。

 麗奈に背中を向けて毛布から出ようとしない萩に、麗奈の側からこっそりと近寄る。

 何をするのかと思いつつ見守る麗奈の前で、再び毛布からはみ出していた白い尻尾を、裕は思い切り踏みつけた。

 瞬間――襖が吹っ飛んだ。

 バタンバタンとけたたましい音を立て、外れた襖は廊下の反対側に激突して床に倒れた。

「ふ……ふざけるな」

 涙目になった萩が、裕に向かって突き出した右手をすっと下ろす。

「……痛ぇな」

裕は顔をしかめて右の頬を手で押さえた。

 裕に向かって放たれた空気砲は、裕の頬を掠めてその向こうの襖を吹き飛ばしたのだった。

「お、折れたらどうするんだ」

「折れない程度にやったからな」

「お前……ッ」

 萩は本気で怒ったら物騒だなと思いつつ、拳を握りしめて目を潤ませ、左手で腰を押さえて踞る萩の肩を、麗奈はぽんと叩いた。

「晩ご飯だよ」


 ◇


「……ただいま……」

 そっと玄関を開けて家に入ると、弥生はリビングへ向かった。

 リビングでは父と中学生の弟が、テレビを見ながら談笑している。

「あぁ、お帰り」

「おかえり」

 父はテレビに目を向けたまま、弟は弥生を振り返ってにっこりと笑いながら言った。

「遅かったじゃない、五時前には学校終わったんじゃなかったの?」

 台所から、タオルで手を拭きながら母親が出てくる。

「一時間も何してたのよ」

「……帰りのホームルームが長引いて」

「また? それ今日で三回目よ、嘘は吐かないで」

 一回目は本当に、ロングホームルーム時間内に終わらなかったクラス役員決めが放課後まで長引いたのだから、この嘘を使うのは正確には二回目だ。

 そんなことを言ったところで母が信じる訳もないが。

 弥生は密かに溜め息を吐いた。

 ちょっと自分の意思で行動しただけで、あれやこれや問い詰める。

 親は子供を自分の配下に置きたがるものだ。

「何でもないよ」

「何を隠そうとしてるのよ。またふらふら遊んでたんじゃないの」

「違うってば」

「じゃあ何よ。……まさか、あれほど言ったのに部活に入ったりしてないでしょうね?」

「…………」

 弥生は黙り込んだ。

 これ以上嘘を吐く必要はないと思ったからだ。

 別に、弥生は何も悪いことはしていないのだ。

 しかし母はそれが気に入らなかったらしく、さらに声を荒げる。

「入ったの!? 部活は駄目だって言ってたじゃない、すぐに退部しなさい!」

「嫌!」

 負けじと弥生も言い返した。

「お金が掛かる訳じゃあるまいし、別にいいじゃない。何でそんなことまで全部お母さんに決められなきゃいけないの!」

「何よ、その言い方は。私は弥生の為を思って言ってるのよ?」

 母のその言葉に、弥生の中で何かが音を立てて切れた。

 弥生の掌が、ダイニングテーブルを強く叩く。

 食器がカタカタと音を立てる。

「私の為って何!」

 悲鳴に近い叫びが、リビングに響いた。

 母親は、弥生の突然の叫び声に目を丸くした。

 弟は不安そうに弥生を見つめ、父は相変わらずテレビを見ている。

「そんなこと誰も頼んでない。友達を沢山作るなとか、部活に入るなとか、そんなに私を支配したいわけ!? 本当にそれが私の為になると思ってるの!?」

「な……何を言ってるの、弥生」

 母は急にしどろもどろになった。

 今まで大人しかった弥生が急に言い返したのだから、当然といえば当然だ。

「どうして私の自由にさせてくれないの? 私、お母さんが困るようなこと何もしないよ。奨学会にだって入ったし、勉強も頑張ってるのに。どうして駄目なの!」

「そういうことじゃないの。違うのよ弥生、そうじゃなくて――」

「だったら何よ!」

「……弥生」

 父親の、低い静かな声が割って入った。

「今までのことを忘れたのか。[[rb:睦月 > むつき]]やお前が、どれだけ大変な思いをしてきたか」

「『睦月やお前』?」

 弥生はフンと鼻で笑う。

「お父さんやお母さんが心配してるのは、睦月だけでしょ。いつだって睦月睦月って、私の心配なんかしてくれたことない。私は今まで一度だって……」

――パンッ。

 顔の横で、高い音が鳴った。

 ぶたれたのだと気付くのに、そう時間は掛からなかった。

「いい加減にしなさい。弥生」

 今まで聞いたことがないくらい怒りに染まった声。

 母は弥生を叩いた手をゆっくり下ろした。

「……ッ、もう知らない」

 弥生は踵を返し、呼び止める両親の声を無視して二階への階段を駆け上がった。自室に飛び込むと、勉強机の椅子と本が詰まったカラーボックスを内開きのドアの前に置き、完全に固定した。

 乱れた息を整えるうち、次第に心の奥から堪えきれなかった何かが溢れ出し、弥生は壁に寄り掛かったまま崩れ落ちた。涙があふれて止まらなかった。

 脳裏に写るのは、同じ民宿に止まっているという少年と、楽しそうに帰宅する親友の姿。

 麗奈と別れた後、しばらく後をつけてみたのだ。

 ストーカー紛いのことだと解ってはいたが、何故裕が一緒にいるのかも気になった。

 そして、二人で楽しそうに話しながら駆けていく二人の姿を目にしてしまったのだ。

 ……親友などとは自分が勝手に思っているだけなのかもしれない。

 彼女にとって自分など、只のクラスメイトでしかないのかもしれない――。

 そんな訳ないと自分に言い聞かせても、次から次へと悪い考えが浮かぶ。

 止めどなく流れる涙を拭くこともせず、弥生は一人で嗚咽を上げた。

「ねえさん、どうしたの」

 ドアの向こうから、弟の睦月の声がした。

「かあさんに、なにいわれたの」

 聞こえる声に、微かに不安が混じっている。

「ドアあけてよ」

「うるさい!」

 意味が無いと知っていながら、弥生はドアを拳で殴った。

「ねえさん、だいじょうぶ?」

 もちろん反応は無い。

 睦月は、生まれつき耳が不自由だった。そして、外見も他の子供に比べて異質であったため、幾度となくいじめに遭った。

 両親が弟ばかり気にかけているのは、その所為なのだ。

 耳の聞こえない彼には、弥生と母の口論の内容など、聞こえていなかった。

 口の動きを読んで会話することは出来ても、あんなに感情的になった早口は到底読み取れなかった筈だ。

「自分ばっかり可愛がられて……いい気になってんじゃないわよ」

 聞こえないと分かっていて、弥生は弟に毒づいた。

 しばらくすると諦めたのか、ドアの向こうの気配が去った。

 ほっと息を吐いたのも束の間。

 突然、右の二の腕に鋭い痛みが走った。

 咄嗟に右袖を捲り上げ、弥生は息を呑む。

 見えない糸で強く縛られたかのように、皮膚がめり込んでいた。更衣中、麗奈に指摘されたのと同じ位置だ。

 腕が千切られそうな激痛に、弥生は悲鳴すら上げられず床に転がって歯を喰い縛った。

 ふと、暗い窓の外に人影が写る。

 もしや弟が一階の屋根に登って来たのではないかと、弥生はふらふらと立ち上がって窓を開けた。

 しかし、誰もいない。薄暗い町並みが見えるだけだ。

 見間違いかと、窓を閉めようとした時、それは唐突に現れた。

「まダか」

「……ひっ、誰!?」

 突然視界を遮った黒い影に、弥生は反射的に飛び退いた。

「契約ヲ忘レた訳デはあるまイ」

 聞き取り難い、幾重にも重なって聞こえる声。

 輪郭のはっきりしない、墨色の体。

 見たこともない物だ。

「クク……お前ガ契約を果たせナかったラその身体を貰ウと、言ってあった筈だガ?」

「な……何のこと」

「早ク奴を連れテ来なけれバ、まずハそノ右腕ダ」

「どういう意味!? 何なの、これ……」

「覚えガ無イか」 

「知らない! 気が付いたら変な、痣が……」

 そこまで言って、ふと引っ掛かりを覚えた。

 何故自分は、麗奈に腕の痣を指摘された時、転んだなどと咄嗟に嘘を吐いたのだろう――。

「思い出セ」

 影が、口らしき部分をぐにゃりと歪めて、笑った。

「……っ」

 ずきん、と響く小さな頭痛に、弥生は眉を寄せた。

「……ぅ、あ」

 覚えの無い記憶が、頭にどっと流れ込む。

 目眩がして足元がふらつき、弥生はベッドに仰向けで倒れ込んだ。

 影と契約を結んだ自分、幾度となく影に脅され、腕を寄越せと締め付けられ無意識に契約の了承をする自分、そして、帰宅する麗奈を友好的でない視線で見送る自分の記憶が、弥生の脳裏にしっかりと焼き付く。

(知らない、私はこんなの……)

「約束は、明後日まデだ。破レばその腕を貰っテ行ク。その他ノ部分は後からダ」

 窓の外から聞こえた声は、意識を失った弥生の耳には届かなかった。

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