妖と、人間と。
第8話 日常
「ありがとうございましたー」
店の外まで聞こえる大声で言われて少し恥ずかしくなりながら、麗奈は逃げるようにスーパーを出た。
今日は宏に頼まれた食材を買う為に、カスミ食鮮館という近所のスーパーへ来ている。忙しい日が続いてなかなか買い物する暇が無かったのだ。その所為か両手に提げたビニール袋は一杯で、かなりの重さになっていた。
「萩。もういいよ」
店の入口の横にあるベンチに荷物を置き、肩から提げたショルダーバッグに声を掛ける。ジッパーを大きく開けると、中から白い鼬が顔を覗かせた。
「……っぷは、あぁ、苦しかった」
「大丈夫?」
「押し潰されるかと思った」
「だってスーパーはペット禁止だし、入口に紐で繋ぐ訳にもいかないでしょ」
「だから普通に買い物手伝うって言ったじゃん」
拗ねた声を出す萩を、麗奈は子猫にするように首の後ろで摘み上げて顔の前にぶら下げた。
「一人で平気、仕事なんだから。第一、単なる見張りだって言うから連れてきてやったのよ」
彼を肩に載せ、再び両手に荷物を持つ。荷物が重くてよろける麗奈に、萩が肩から再度声を掛けた。
「ねえ、下ろしてよ。片方持つからさ」
「結構。子供じゃないんだから」
「そうじゃなくて。僕は女の子に重い荷物持たせてることが」
「はいはい黙って。喋ってるとこ人に見られたらどうするの」
「でも……」
視界の端に、心配そうな萩の顔が映る。
しかし萩は何故かやたらと麗奈を子供扱いするので、麗奈としては手伝われるのが嫌なのだ。
その時ふと肩が軽くなり、背後でドサッと重い物が落ちる音がした。
「痛っ」
「!」
驚いて振り返ると、尻餅をついて呻く少年の姿が目に入る。
「いたた、この高さにはちょっと無理あったかな」
「馬鹿、そのまま落ちたらどうするのよ! 猫みたいに着地できないんだから、下手したら死んじゃうじゃない!」
「だって麗奈が言うこと聞かないから」
少年は立ち上がって口を尖らせた。見たところ十六か十七の少年は、鼬の萩が人に化けた時の姿である。
「人の所為にしない」
「はいはい、っと、お先ー」
萩は追い抜きざまに麗奈の右手から袋を奪った。
「あ! 待って、自分で持てるから」
「いいっていいって」
言うが早いか、萩はスピードを上げて走り出す。
「ちょっ……待ちなさいってば!!」
麗奈は慌てて彼を追い掛けた。
全力疾走すること約五分、二人はとある家の前に辿り着いた。
「……大丈夫?」
膝に手を突いてゼエゼエ肩で息をする麗奈の背中を萩が擦る。
「だっ……大丈夫だって、言ってる、でしょ」
「……死にかけてる」
「だって、走るなって言うのに、走るから」
「ごめんごめん。まさかペース落とさずに付いて来れるとは思わなくて……ほら早く、中に入って休憩しよう」
萩が腰の高さの門を押し開けて、麗奈を見遣った。その門の横のブロック塀には小さな表札が掛っている。書かれているのは本来表札に書かれている筈の名字ではなく、『民宿・狐荘』の文字。どう見ても民家にしか見えないここは、麗奈が下宿している宿である。
萩に視線で促された麗奈は、一度萩を睨め上げると、溜め息と共に立ち上がって中に入った。
「只今帰りましたー!」
「お帰りなさい」
大声で帰宅を知らせると、奥から返答があった。
左手のドアを開けると右にキッチン、左にはダイニングと、その奥がリビングだ。カウンターキッチンからパタパタとスリッパの足音が出てきて、穏やかな声の青年が二人を出迎える。
「お帰りなさい、麗奈さん、萩さん。買えました?」
「はい。宏さんに頼まれたのはこれで全部です」
麗奈と萩が袋を差し出すと、宏と呼ばれた青年は中を覗いて満足気に頷いた。
「オッケーです、素晴らしいです。裕が行くと必ず余計な物買って来ますから……痛ッ!?」
頭を押さえた宏の足下に落ちたのは、テレビのリモコン。飛んできた方向を見ると、テレビの前でソファーに立ち、ガッツポーズをしているもう一人の少年が目に入った。薬で染めたのではない天然の金髪の彼は、金茶の瞳に悪戯っぽい光を浮かべている。
「やーりィ、ストライク」
「裕! 物は投げないで下さい」
叱られた裕は、悪びれもせずに鼻で笑った。
「バーカ、陰口は陰で叩け」
「陰口? 真実を述べただけのつもりですが」
「それ以上言ったら次はこのソファー投げるぞ?」
「片付けるのも貴方ですよ?」
子供のような下らないやりとりをしている彼等こそ、この民宿の経営者らである。
民宿『狐荘』――小さな商店街から少し外れた閑静な住宅街にある、小さな民宿だ。外観はどこにでもあるような一軒家で、周りの住宅街と溶け込んでいる。表札をじっくり見なければ、誰もこの家が宿だとは気付かないだろう。
十日に一人客が来れば良い方だというこの民宿に、麗奈が泊まり、宿泊費代わりにバイトをし始めてから一ヶ月が経っていた。
この民宿の変わった所は他にも複数ある。
経営者の生活スペースと宿泊スペースが隣り合っているので民宿というよりも一般家庭に下宿しているように感じること。
経営者が裕と宏のたった二人しかいないこと。
そもそも十日に一人の客足で、若い二人が暮らしていけるのかという謎、などである。
因みに、麗奈が来てから客はまだ一人――但しそれは、麗奈と一緒に働きたがって宿泊費を払おうとしない萩のことだ――しか来ていない。
何より、この民宿の最も特異な点を挙げるとすればそれは、住民のことだろう。
裕と宏の二人、そして客である萩も、実は人間ではない。鼬である萩が人に化けているのと同様、経営者二人も人ではなく、化けているのである。
彼等は人間が称するところの『妖怪』というモノ達だ。勿論麗奈は彼等の正体を知っているが、今のところは普通の人間と同じように接していた。
「ああ、そう言えば麗奈さん。今日の午後からお客様が宿泊されるそうですよ」
袋の中身をテーブルに出しながら、宏が思い出したように告げた。
「本当ですか! やった、遂に初仕事だ」
「は? 何だそれ、聞いてねえぞ」
落ちたリモコンを取りに来た裕がむっとした。宏は拾ったリモコンを手渡しながら、フイと顔を背ける。
「出て下さいと言ったのに、裕が電話を取って下さらないからでしょう」
「今はちょっと手が離せないって言っただろ」
「テレビを見てるのは『手が離せない』とは言いません」
「こ……宏さん、お客さんは何時頃来られるんですか?」
麗奈が無理矢理話を戻すと、宏はあっさりと裕を無視して麗奈に顔を向けた。
「麗奈さんが出掛けてすぐ――丁度十時頃電話があって、今から出て特急で三時間ちょっと掛かると仰っていたので……、十四時前でしょうか」
「三時間? 遠いんですね。あたしの家と同じ位かな」
「そう言えば萩山もそれ位遠いよね。でもこんな遠い所に泊まるって、この近所何かあったっけ?」
萩が首を傾げると、宏が頷いた。
「少年サッカーの対抗試合が明日と明後日に霞原で行われるのですが、親御さんが仕事で来られないのでお子さんだけがいらっしゃるということです」
「子供だけで! 少年サッカーってことは小学生ですよね。うちの弟と歳近いのかなぁ。偉ーい」
「一人は中学二年生のお姉さんだそうです」
「うちの妹と同じだー……あれ」
何となく嫌な予感がする。
「その、お客様のお名前は? ちゃんと聞いてるよね」
萩が尋ねると、宏ははい、と頷いて麗奈の予感を現実にした。
「高沢勇太さんと、華奈さんと……? あの……?」
「………………」
「え? な、何か」
変な間が空いて狼狽する宏に、裕が一言。
「宏。麗奈の名字忘れたか」
「え? 確か、高ざ……あっ!?」
何とも言えない微妙な空気が流れた。
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