第4話 妖怪

 町の向こうに、小高い森のようなものがある。商店街の案内所でもらったパンフレットによればそこは隣町との境にある大きな自然公園で、町民達の憩いの場となっているらしい。

 駅前からその公園が見えたので、麗奈は少し興味を持ってそちらに足を進めた。

「……誰もいない」

 公園には、見事に人っ子一人いなかった。初め疑問に思ったが、すぐに気が付く。今日は平日だ。

 誰もいない公園を歩くというのも、貸し切っているようでなんだか楽しくなる。遊具も売店も無く芝生と小さな森だけの自然公園を、麗奈は独り占めしたような気分で歩いていた。その時、


――キィン!


 突然、硬い金属を打ち合わせたような甲高く微かな音が公園内に響いた。

「え? 何の音……」

 辺りを見回すが、何も変化は無い。

 気のせいかと麗奈が首を傾げたその時、刀が空を裂くような音が耳元を掠め、続いて胸元でパキンと何かが割れる音がした。

 驚いて見下ろすと、首から提げていたはずの水晶のペンダントの紐が切れ、石が砕けて足下に落ちている。は萩山を出る時に、誕生日プレゼントとして萩に貰ったものだ。

「嘘……何で?」

 拾ってよく見ると、紐はまるで刃物で切ったかのように断面が綺麗だった。劣化で千切れてしまったのではない。何者かが切ったのだ。ずっと身に着けていたはずのこれを、誰が、どうやって。

「いつの間に……」

「よくやった、リュウ」

 突然背後から、若い男の声が聞こえた。

「任しとけって言ったろ!」

 今度はもっと明るい、別の男の声。

 驚いて振り返ると、今の今まで誰もいなかったそこに、黒いロングコートを着た二人の男が立っていた。フードを深く被っていて、顔がよく見えない。

そして二人のうち片方、先に聞こえたほうの声が、麗奈に話しかけてきた。

「……高沢、麗奈さんですね?」

「違います」

 見知らぬ人間に名を呼ばれ、気味が悪くなる。麗奈は即座に否定して、立ち去ろうとした。しかし男は早足で先回りして行く先を阻み、再び同じ質問をする。

「高沢麗奈さんですよね。萩山神社の跡取りの」

「……すみませんが、どなたですか」

 名を聞く前に名乗るのがマナーだ。得体のしれない不安を拭い去って負けじと尋ね返すと、男は勝利を確信したかのように薄く笑った。麗奈の背中を嫌な予感が駆け抜ける。

「ああ、よかった。やはり人違いではなかったようだ」

「人違いです。そんな人知りません」

 麗奈が強く言って方向転換すると、男は麗奈の言葉は気にも留めないように、麗奈の腕を掴んで引き留めた。

「我々とご同行願います」

 ヤバイ、と直感した。ただ事ではない。これはもしや、世間一般で言う誘拐、若しくは拉致ではないか。

「ちょっと……離して! 何なんですか!」

 麗奈は男の手を振り払い、数歩後退る。

「何してんだリョウ、早くしねえと彼奴等来ちまうだろ」

「解ってる」

 手持無沙汰に見ていた男が焦れたように急かして、リョウと呼ばれた方が頷いた。

「少々手荒くなりますが」

「! 何する気!?」

 再び男がこちらへ伸ばした手をかわし、麗奈は駆け出した。しかし数歩走ったところで突然足に何かが引っかかり、前につんのめって転びそうになる。

「危な……何、これ」

 地面から伸び出した植物の蔓が右足首にグルリと巻きついている。てっきり草の根に足を引っかけただけかと思ったのに、引っ張っても外れない。普通には有り得ない現象だった。

「ちょっと待って、何これ!?」

 二人組が黙って歩いてきて、抵抗する麗奈の両手を素早く掴んで背中に回し、拘束した。

「痛い、放して!」

「別に命まで奪ったりしませんからご安心を」

「少しだけ血を頂くよ」

「あぁそうですか……って、血!? もしかしてあんた達、悪徳献血業者の……いや吸血鬼が、輸血を……病院で、あれ?」

 混乱してきた麗奈を見て、男は不思議そうに尋ねてくる。

「ひょっとして、ご自身の立場をご存じないのですか?」

「無自覚だったのか……だからこんな町で無防備に一人歩きしてたって訳か、あんな小さな結界だけで。こちらとしては大変好都合だったが」

「何の話、意味分かんないんだけど!」

 麗奈は恐怖と焦りで泣きそうになる。すると二人は、麗奈がすでに抵抗できない状態になっているためか、わざわざ説明してくれた。

「貴女は代々神社に仕える一族の娘でしょう。だから生まれつき、強い妖力を持っているのですよ」

「強い妖力を持つ人間を食えば、強い妖力が手に入る。今までは萩神の強い護りがあったから誰も近づけなかったみたいだが……あんたがこの街に出てきてくれたお陰で俺達にも手を出すことが出来るようになったって訳だ。まぁ、昨日はあの狐んとこにいたからちょっと手は出せなかったけどな」

「そして、さっき貴女に掛かっていた守護は、あの小さなペンダントだけ。アレを壊せば貴女は完全に無防備で、どんな雑魚でも手を出せる」

「はぁ……? 何を言ってるのか、さっぱり」

「要するに、俺達からしてみればあんたは恰好の獲物だって事さ」

「……えもの」

 獲物。つまり、獲られるモノ。

 食物連鎖でいえば食われるモノ。

 それって……。

「た、食べられるの!?」

「俺たちはそんな野蛮じゃないから、いくら何でも食いはしねぇよ。血だけ少しくれればすぐに放してやるさ。今の時代、肉まで食うのはよっぽどの物好きだけだ」

「あぁ、でも……」

 男の片方が、にぃっと不敵な笑みを浮かべた。唇から覗いた犬歯がやけに鋭く見えて、思わずぞっとする。

「ほら、貴女が泊まっている宿、あの二人はどうだか判りませんよ。もしかしたら、肉まで食べるのかも。そのつもりで家に置いているのかもしれませんしね」

「何の話……? 変な事言わないで」

 眉をひそめる麗奈を見て、二人はくすくす笑った。面白がられている。でも、何を言われているのか分からない。得体の知れない恐怖に、麗奈はただ二人を睨み付けるしか出来ない。

 足に巻きついていた蔦がじわじわと伸びて、腰の高さまで巻きついてくる。背中で拘束されていた両手も、一緒に巻き取られる。

 動けない。

 食べられる、と思った。普通に人間生活をしていてこんな感覚を覚えることなどほとんどないのだろうけれど、比喩ではなく、本当に食べられると思った。人間にこんな本能があったなんて、と頭のどこかで感心しながら、しかし声に出すことも出来ず、身動きも取れずに、ただただ途方に暮れていた。

「では。ご同行願います」

「嫌っ――放して! ちょっと、誰か!!」

 全身巻き取られてそのまま連れていかれそうになったところで我に返り、咄嗟に大声で助けを呼んだ。白昼堂々人さらいをしようとしているのだ、誰か一人くらい気付いてくれてもいいものなのに誰も気付いてくれない。麗奈の考えを察したかのように、フードの男の片割れがにやりと笑った。

「助けを求めても無駄ですよ。この公園には強力な結界を張りましたから。外には貴女の声は届きません」

「そうそう。たとえあの狐と言えど、入っては来れ……」

その時。


――パン!


 ガラスが砕け散るような音がした。

「……何?」

 二人組が振り返る。麗奈も恐る恐る振り返ると、そこにいたのは。

 民宿の、若いほうの彼だった。

「おい! 無事か」

「裕くん?」

「……ゆうくんて呼ぶな、気持ち悪い。裕でいい」

「えっ? あ、はい……っていうかそんな場合では……た、助けて」

 何故か鬱陶しそうに呼び方を訂正され、麗奈は訳も分からぬまま取り敢えず助けを求める。裕はそれには答えずに黒いフードの二人組を見据えた。

「さあ続きをどーぞ。“たとえあの狐と言えど、入っては来れ”?」

「入っては来れ……たり、したかもしれないなぁ……」

 片割れが、へらへらと情けない笑みを浮かべて後退る。もう一方が焦ったように責め立てた。

「リュウ! 結界はしっかり張れってあんなに言ったじゃないか!」

「えぇ……いや張ったんだけどよ、なんつーかこう……俺じゃ力不足でした? みたいな? はは」

「妖術じゃ彼奴には敵わないんだぞ!」

「解ってるけどよぉ」

 二人が言い争う間に、裕は欠伸でもしそうなくらい平然としてこちらにすたすた歩いてきた。それに気付いた二人が、麗奈を後ろにして裕と向き合う。

「横取りはさせねぇぞ!」

「はぁ? どっちが横取りだ」

「……やはり独り占めするつもりでしたか」

「いや、誤解を招く言い方すんなって。大体俺は全くそんなつもりはさらさら無ぇし、ただバイト先探すって言ったから泊まらせただけだし」

「つまらん嘘を! どうせ獲物を閉じ込めておくつもりだったのだろう」

「誰が獲物だ誰が。大体、勝手な想像で話を進めんな妄想族め。こんな街中で人間捕まえてんじゃねえよ。もし他の人間に見られたら大騒ぎだろうが」

 そこまで言ったところで、裕は右手を顔の左で構えた。

「なっ……なんだ、やる気か! やれるもんなら――」

「よせリュウ、挑発するな!」

「別にてめーらなんぞの挑発に乗るつもりは無い。……おいそこの簀巻きのお前、動くなよ」

 スマキ。麗奈は自分の体を見下ろした。肩の辺りまで完全にグルグル巻きにされている。簀巻きだ。

「動くなって言われても動けないもん」

「……分かったよ、じっとしてろ」

「だから、動けないからじっとせざるを得ないん……」

「いいから黙ってろ」

 裕は右手を左から右へ、空を切るように素早くスライドさせた。それと同時に、麗奈の体を束縛していた蔓がバサリと地面に落ちる。まるで見えない刃物が飛んで来たみたいだった。

「えっ……切れた?」

「あぁっ!」

 男二人が呆気に取られている隙に裕が駆け寄ってきて麗奈の腕を掴む。そのまま腕を引いて彼等から素早く距離を取った。

「大丈夫か? 怪我はないな」

「だ、大丈夫……ねえ、今、何したの?」

「いや、まあちょっとな。……怖かったか?」

「少し……っていうか、そもそもあの人達、何者? 血を飲むって何? 裕く……裕は知ってる人?」

「知ってるかどうかと言えば、知ってることに……」

 そこで裕は言葉を切り、ハッとして顔を上げた。直後、ボールか何かが飛んでくるような音が、ひゅん、とこちらに向かってきた。

 裕が麗奈の前に出て、それを左腕で受ける。ばしん、と確かに何かがぶつかった音がした。

「っつ!」

 右手で左腕を押さえて、裕がしゃがみ込む。飛んできた何か、はどこにもない。が、裕の腕に当たったのは確かだった。まるで空気の塊のような。

「……いってぇー」

「大丈夫!? ……あ、そこ、もしかして」

 左腕は、確か包帯を巻いていた。あの目も当てられないほどの深い傷があったのは、左腕の筈だ。

 裕が左手の袖を捲り上げると、包帯に血が滲んでいる。それを見て裕が舌打ちした。

「ああ、そこは確か……?」

「そうだよてめーらにやられたとこだよ!」

 惚けたように首を傾げる二人組に、裕が怒鳴りつけた。

「くそ、せっかく血止まったのに……また宏に痛い消毒される」

「喧嘩した相手って、この人達だったんだ」

「あー、まぁな。……宏! いるんだろ」

 麗奈の呟きを軽く流して、突然裕がどこかへ強く呼びかける。直後、傍の茂みから素早く飛び出した影が、裕と麗奈の前に背中を向けて立ちはだかった。

 ジャケットの後ろ姿には見覚えがある。

「えっ……こ、宏さん!?」

「宏、彼奴等とっ捕まえろ」

 裕が一言、まるで命じるようにそう言う。宏は不服そうに眉を寄せて振り返った。

「……それは裕の仕事ではないのですか?」

「何で俺が」

「私なんかより、断然裕の方がお強いですし」

「嫌だ、面倒臭い。それに俺は彼奴等が気に入らねえんだ」

「はぁ……分かりました」

 宏は一瞬麗奈の存在を気にするようにチラリと視線を遣り、しかしすぐに逸らして、二人組と対峙した。

「申し訳ありませんが、ここ一帯は裕のテリトリーです。出て行っていただけますか」

「その人間を渡してくだされば考えます」

「雑魚が口出しすんな」

 宏の言葉に二人組が返す。返事を聞いた宏の顔が、ピリッと引き攣った。

「ざ……雑魚……」

「おーいおい乗せられてんぞ。そんなあっさり挑発に乗るんじゃない」

 裕に諭されて、宏がハッと我に返る。

「……そうでした」

 二人組のうち、口の悪い方がニヤニヤしながら前に進み出た。

「じゃあお前倒したら、出てってやる代わりにその人間寄越せよ」

「おお、いいぞ」

「裕!?」

 宏が答えるより先に、何故か背後から裕の返答が飛んだ。焦った宏の声は裏返る。

「そんな無責任なこと言って」

「負けると思うから負けるんだ。勝つと思えば勝てる、さあ行け相棒」

「誰が相ぼ……わっ」

 突如宏の足下の土が盛り上がり、まるで小さな爆弾でも仕掛けたかのように音を立てて芝生が吹き飛んだ。宏は咄嗟に飛び退いたが、着地したその場所からも土が次々に吹き上がってくる。

 軽いステップでヒラリヒラリと全てをかわし、宏は二人組と間合いを取る。そしてすかさず彼が右手を突き出すと、今度は見えない手に突き飛ばされるように、二人組が数メートル吹き飛んで地面に転がった。

 あれはいったい何合戦だろうか。今度は攻撃を仕掛けている立場に立ったらしい宏を見ながら、半ば呆然として麗奈は裕に尋ねた。

「ねえ……あの人達って、何なの? あれ何してんの?」

 未だに何が起こっているのか理解出来ない。先程と同じような質問だ。裕は暫く考え込むように口を噤んだ後、呟いた。

「山に住む……妖だな」

「アヤカシ?」

「妖怪」

「ようかい……って、はぁ!? 妖怪ってあの、ろくろっ首とか塗り壁とか一反木綿とか?」

「……まあ、そーゆーのもだけど、あいつらは、……長く生きて妖力を持って、化けたり妖術を操ったりする獣、って言ったら解りやすいか? 化ける狸とか狐とか、猫叉とか。あの二人は山犬だな」

「いや……まさか。そういう非現実的な話じゃ……ない、でしょ?」

 否定して欲しくて裕を見るが、裕は何も言わない。

「……まさか本気?」

 混乱しながら恐る恐る問うと、裕はゆっくりとこちらを向いて、ぽつりと付け加えた。

「……俺も宏も、そうだって言ったら?」

「へぇ……って、ええ? はぁ、うっそぉ!?」

「いや、さすがにあんな光景まで見せちまったら、今更誤魔化しようがねぇし……本当」

「……本当……?」

「うん」

 俄には信じられない。

 だが、信じられないのと同時に、麗奈は頭の何処かで納得もしていた。

 蔓が伸びて巻き付いたり、触れずに物を切断したりという不可思議な現象は、全て妖怪の仕業だったから起こり得たのだ。

 麗奈がどう反応して良いか分からずに裕の目を見ると、目を逸らされてしまった。唇を噛んでじっと地面を見つめる表情からすると、あながち嘘とも思えない。この表情が、笑いを堪えている表情だとするなら話は別だが。


 その時、裕が息を呑んで顔を上げ、鋭く叫んだ。

「宏、後ろ!」

「え――ぅあっ」

 宏の後ろの地面から飛び出した蔓が、素早く宏の体に巻きついたのだ。蔓はあっという間に首にまで達し、息が詰まった宏は苦しげに咳き込む。

「……かはッ!」

「あの馬鹿、何してんだよ……トロいにも程があんだろ」

 宏が蔓を振り解こうとしてもがくが、効果は無い。裕が舌打ちし、大声で叫んだ。

「もういい、宏! 戻っていい、戻れ!」

「あ、もう終わりか? つまんねぇな、やっぱ雑魚だ」

 ニヤリと笑った黒い男を、裕が睨みつける。

「違ぇよ、その戻れじゃねぇんだよ。……宏、早く原身に戻って抜け出せ、窒息したいのか!」

 裕が叫んだ直後、蔓に巻きつかれていた宏の姿がふっと消えた。同時に、ゴウ、と音を立てて炎が立ち、蔓が激しく燃え上がる。

 そしてその炎の中から、一頭の獣が落下して地面に着地した。

 舌を出して苦しげに息をするその動物は、麗奈も見たことがある。

――狐だ。

 しかしそれは普通の狐ではなく、鈍く光る銀の毛皮を持つ、銀狐だった。

「大丈夫か」

 ポカンとする麗奈に構わず裕が呼びかけると、その狐は振り返って頷いた。

「……なんとか」

(喋った……!?)

 麗奈はぎょっとして言葉を失う。

「背後には気をつけろって、いつも言ってるだろ」

「すみません、失念していて」

「馬鹿野郎、そんなんじゃいつか死ぬぞ」

「すみません」

「てめーらいつまで遊んでるつもりだ!」

 二人組の片割れが叫び、銀狐――宏が向き直る。麗奈は、振り返りざまに彼が再び麗奈に視線を向けたのに気が付いた。宏は、先程から麗奈の存在をずっと気にしているのだ。まるで、麗奈がいることに何か不都合があるとでもいうように。

「……麗奈」

 裕が呟いた。

「分かったろ? あれが宏の本当の姿……原身の、狐だよ」

「……さっき言ってたのって……」

「そう。……この事だ。あの二人組も……、俺も宏も、人間じゃない」

 麗奈は暫く呆然として、裕の金茶の瞳を見つめ返した。

「人間じゃないって……?」

「言葉通りだ。お前等人間から見れば、俺もあの二人も全く同じ、バケモノだってこと」

 少し間をおいて、麗奈は呟いた。

「あたしは……思わないけど」

「思わない?」

 裕が顔を上げて少し目を見開く。

「全く同じだとは、思わない。その……例えば悪役と正義の味方くらいの違いはあると思うし。裕く……裕は、助けてくれた訳だし。それとも、あの人達が言ったみたいに、肉まであたしを食べるつもりだった?」

 麗奈が言うと、裕は思い切り顔をしかめた。

「……はぁ? 彼奴等そんな事言ったのか? 悪趣味だな」

 やはり、あれはただの脅しだったようだ。少しだけほっとする。

「うん。いくら何でも、そんな馬鹿な話は信じなかったけど」

「ならいい……けど」

 裕はそう言ってふと視線を逸らし、自分の足元を見つめた。

「……お前……、怖がらないのな」

「え?」

 首を傾げると、裕は母親に言い訳する子供みたいに、目を伏せてボソボソと呟いた。

「その……だって嫌だろ、妖怪だぞ? 人間じゃねえんだぞ? 普通怖いとか気持ち悪いとか思うだろ……」

「……もしかして裕は、自分が妖怪で人間じゃないのが怖くて気持ち悪い?」

「いや、さすがにソレはないけど」

「びっくりはしたよ、初めて見たから」

 麗奈はそう言って、少し考え込んだ。非現実的だとは思う。不思議だとも思う。あり得ない、とも思ったかもしれない。けれどそれよりもっと別の感情。うまい言葉が見つからない。

「なんていうか……草が巻き付いてきたり、血をくれって言われたりしたことより……知らない人に連れていかれそうになったってことの方が怖かった。裕と宏さんもそう。二人が人間じゃないってことよりも、助けて貰ったってことの方が大きいから、……怖くはなかった。だから、さ」

 麗奈は裕の金茶の瞳を見る。

「裕は、……裕だよ」

「……そんな事言う人間、初めて見た」

 裕は半ば呆然としたように呟く。

「そう? じゃああたし、裕が初めて見るタイプの人間第一号だね」

「変な奴……」

 笑ってそう言うと、裕は麗奈を見慣れない生物でも観察するようにじっと見つめた。

 と、その時。

「キャン!」

 突然甲高い獣の悲鳴が上がった。狐の鳴き声だ。

 敵の攻撃に弾き飛ばされた宏が地面を滑り、数回バウンドして裕の足下に転がる。

「宏! 何やってる」

「痛た……すみませんっ」

 慌てて立ち上がろうとする宏の前に出て、裕が右の掌を二人組に向けた。

「要領悪いな。一人ずつ相手にするからもう一方の攻撃喰らうんだろが。よく見てろ」

 油断していた二人組は、裕が一歩前に出たのに気付くのがワンテンポ遅れた。

「いいか宏、もっと豪快にだな、こう」

 突き出した右手を、ひゅっと上に向ける。するとその手の動きに従うように、二人組の足下から突然巨大な水柱が勢い良く吹き上げ、二人は数メートル弾き飛ばされて地面に叩きつけられた。追い討ちをかけるように、吹き上がった数百リットルの大量の水が降り注ぐ。

「ぶわっ」

「ぎゃあ!」

「これで済むと思うなよ。この間の仕返しだからな」

 再び裕が手を上げると、慌てて逃げようとする二人組に今度は見えない空気の塊がぶち当たり、弾き飛ばされて転がった。

「他人の土地に侵入して許可無くうろついた挙げ句、ちょっと声掛けただけで暴力たぁ、ただのチンピラじゃねぇか」

 もう一発。またもや吹き飛ばされて、二人が地面に転がる。相手にはもはやこちらに構う余裕はなさそうだ。麗奈はその隙に、足下に座り込む宏に声を掛けた。

「……怪我は、大丈夫ですか?」

「……傷はありません」

 麗奈と目を合わせず、淡々とした口調で答える。無表情なのは、狐の顔だからというだけではなさそうだ。

 しかしよくよく見ると、手――というか前足が、細かく震えているのが見えた。三角形の耳が、低く伏せられている。宏の素っ気ない態度は、怯えている動物のそれだった。

「別に何もしませんよ……怖がらなくても。それにあたし、狐大好きですから」

「怖がるだなんて、別にそんなこと」

「ちょっと……手? 触らせてください」

「……はぁ?」

 突然の頼みに不思議そうな声を出し、宏は前足をそろりと差し出した。断られるだろうと思っていた麗奈は、素直に宏が前足を差し出したことに驚く。握られるのは嫌だろうと思って、人間で言う手首の辺りを人差し指で軽く撫でた。

「やっぱりふわふわなんですねー。……いや、違うな、さらさら?」

「……怖くないんですか?」

 宏が裕と全く同じ事を訊いてきた。

「宏さんは宏さんですから」

 麗奈は苦笑して、裕に言ったのと同じように答えてやる。

 宏は態度を変えたりはしなかったが、それでも少し空気が和らいだ気がした。


 ふと裕の方を見やると、彼は足に巻きつく蔓から逃げようともがく二人組を冷たく見下ろして(というよりは見下して)いるところだった。

「わあぁ、もう勘弁して!」

「悪かったって、出て行きゃあいいんだろ!」

「はあ? なーに訳の分からん事を」

 なんだか別人の様だ。かなり頭に来ているらしい。

 再び裕が右手を高く上げて振り下ろすと、どこからか現れた大量の水が再び二人組に直撃した。


「まぁ、こんなもんか」

 やがて、やけにすっきりした顔で裕が呟く。水が引くと、そこにはあの二人組の姿はなく、二枚の黒いコートだけが残されていた。

――否、コートの中で何かが動いていた。

「麗奈! ちょっと来い」

 手招きされて麗奈と宏が近づくと、裕はそのコートを拾って脇に投げた。

 そこには、ずぶ濡れになって気を失った真っ黒な犬が二頭。

「い……犬だったんだ」

「見覚えは?」

 訊かれて、麗奈は首を傾げた。

「さあ……犬なんて飼ってないし……犬の知り合いもいないけど?」

「本当に?」

「えー? 見覚えなんて……、いや……あるかも……?」

 よくよく思い返すと、彼等を何処かで見たような気がする。この町に来て最初、下宿先を探して道に迷っていた時――。

「あ……、あぁー! 道端で喧嘩してた……パン食って逃げた恩知らず!」

「ご名答。おいコラ、起きろバカ犬ども」

 裕が爪先で二頭を突付くと、片方がハッと目を開けて自分を見下ろす二人と一頭に気が付き、ヒッと小さく声を上げて隣の片割れをぐいぐい押した。

「りょっ……リョウ! おい起きろ! 起きろ寝ぼすけ、遅刻するぞ、起きろ早く起きろー!」

「リュウ……? ……あ、うゎ」

リョウと呼ばれた方がガバッと身を起こし、しかし二頭は銅の位置で縛られていたためバランスを崩してぺしゃりと地面に倒れこむ。

「ざまあみやがれ。お前等が俺に挑んで勝てるわけがなかったんだよ」

 勝ち誇ったように見下ろす裕を、半眼で見上げる二頭の犬。

「……ふーん? じゃあその、左手の傷は?」

「……お前等が妖術でもって俺に勝てるわけがなかったんだよ!」

 言い直した。

「お前等、パンくれた恩人に対して何ちゅー仕打ちだ? 恩知らずにも程があるだろ。それに大体、霊力の強い人間食えば霊力が手に入るなんて古い迷信、まだ信じてる奴がいたのか?」

裕の言葉に、二頭は目を見開く。

「め……迷信!?」

 尋ね返した二頭に、裕は呆れかえった視線を向けた。

「そ、迷信。だってよく考えてみろ、植物食って光合成出来るようになるわけでも、魚食ってエラ呼吸できるようになるわけでもないだろ?」

「嘘だ……」

「迷信……」

「可哀そうになあ、一体誰にそんなこと吹き込まれたんだか」

 二頭はポカンとして裕の目を見つめ続けていたが、突然ハッと我に返って同時に麗奈のほうを向き、声を揃えた。

「申し訳ありません!!」

「え?」

 深々と頭を下げられて、麗奈は戸惑う。

「何……」

「貴女は我々にパンをくださったというのに、欲に目がくらんで何という無礼な事を……」

「迷信を信じ込んで危うく大変な過ちを犯すところでしたっ」

「お詫びは致します!」

「どうぞ何なりとお申し付けください!」

 頭を下げる二頭を見つめ、麗奈は少し迷った後に両手で頭をポンポンと軽く叩いた。

「たかがパン一個で、そんな大袈裟な。……ていうかもういいよ、反省してるなら」

「え ……いえ、ですがそんな訳にも」

「お詫びとかいいよ、いらない。……じゃ、その代わり、もうこんな事しないって約束してよ」

「……本当にいいのか? 金でも物でも欲しいもん手に入れるなら今だぞ」

 裕が不満気に口を挟む。麗奈は苦笑を浮かべた。

「それじゃ、あたしが悪者みたいじゃん。ね、この縄……蔓? もう取ってあげて」

 麗奈がそう言うと、裕は渋々と手を上げ、それに従って二頭に絡み付いていた植物の蔓は地面に吸い込まれるように消え失せた。

「ねぇ。ところでどうしてあたしの血が欲しかったの?」

 麗奈が尋ねると、二頭は顔を見合わせて少し考える素振りを見せ、リョウがぽつりと口を開いた。

「……根城の山が、人間に伐り拓かれてしまいまして。新しい住処を手に入れるには、他の妖と戦う必要があるでしょう」

「俺等じゃ勝てねーもん……」

「……だからドーピングして勝とうってか? 自分が弱いと思うなら、他の妖が少ない土地を探せばいいんだ。それが嫌なら、努力して鍛えろ」

「……はい」

 裕の言葉に、二頭はシュンと耳を萎れさせた。

「……もういいから。ごめんね、助けになれなくて」

 気の毒に思った麗奈が何となく謝ると、二頭はぶんぶんと首を振った。

「とんでもない! 自分達の力不足なんですから、自分達で何とかします。……それから、我々をお許しいただいた、この御恩は絶対に忘れません」

 二頭の犬は再び深く頭を下げた。


 ブルブルと体を振って水を飛ばすと、リョウの方だけが人間の姿に変化した。

 コートを拾って着直すと、ポケットから財布を取り出し、麗奈に小銭を渡す。


「あの……これを」

「お金? 何で……150円?」

「私達が頂いたあのパン、駅前のカスミベーカリーで150円で売ってる“霞アンパン”でしょう? 一日30個限定の」

「え、何で判ったの?」

「我々、あれが大好物なんです。いつも買っているんですが、最近はお金が無いので買えなくて……我々は人間ではないから、まぁそれが当たり前なのですが。……だからとても有り難く頂きました。お金だけでもお返しします」

 麗奈の手に150円を押し付け、ぺこりと頭を下げると再び犬の姿に戻る。そして、自分のコートをくわえて先に行っていたリュウと合流し、何度も振り返って会釈しながら二頭で駆け去っていった。

「なんかいい人だったかもね」

 麗奈が言うと、裕はぎょっとして振り返った。

「あれがいい人!? 命を狙われておいて?」

「なんか律儀だったし。150円返してくれたし」

「あ、そ……でもホント彼奴等馬鹿で良かったな、あんな嘘簡単に信じてくれて」

「は? 嘘って?」

 今度は麗奈が驚いて聞き返す。

「そう、嘘。迷信だとか言ったのは嘘。確かにお前の血を飲めば妖力は強くなる」

「騙したの!?」

「だってそうでも言わなきゃ、痛めつけて逃がしたってすぐにまた執念深く追われるだろ? ま、彼奴等あそこまで言ったんだから、嘘だとバレてももうお前を襲ったりはしないだろうけどな。……第一」

 裕が屈んで、足下に落ちていた麗奈のペンダントの欠片を拾った。

「“妖力の強い人間を食えば妖力が手に入る”ってのが迷信なら、誰だか知らないけどこんなモノ持たせないだろ。これ、弱い妖なら寄せ付けない結界を作るまじないが掛けてある。俺には通用しないけどな」

「それ、そんな凄い物だったの……ってまさか裕、あんたまで!」

「まさか、俺には人間を食う勇気は無いから安心しろ。第一そこまで妖力を欲するほど弱くねえし。それに人を襲うのはよっぽどでかい獣か野生の猛獣だけだ」

「そう? ならいいけど」

 その時、いつの間にか人間の姿に変化した宏が、汚れた服の砂を叩きながら二人のもとに歩いてきた。

「そろそろ帰りませんか」

「そうだな。そういやお前、夕飯の準備するんじゃなかったか?」

「はい。ですから」

 宏が麗奈のほうに向き直る。

「お手伝いして頂けますか?」

「あたしがですか?」

「バイト初仕事です」

「バイト……そっか、はい! じゃあお手伝いします」

 その時、裕が少し驚いたように宏を見つめているのに気が付いたが、麗奈は何も言わなかった。


 歩き出した二人の後について歩き、公園の出口まで来たところで麗奈は足を止めた。

「裕、あの……助けてくれて有難う!」

「何が?」

 思い切って言ったのに尋ね返されて、麗奈は一瞬自分が日本語を間違えたのではないかと焦る。

「え?」

「そんなとこ止まってないでさっさと来い」

 裕は振り返らずに行ってしまう。

 宏が歩くペースを緩め、麗奈の隣に来て耳打ちした。

「照れ屋なんです」

「そうなんですか……。あ、宏さんも、有難うございました」

「いいえ」

 照れくさそうに微笑む。

 麗奈はやっと宏にも認められた気がして、少し嬉しくなった。


 三人は民宿へ帰りつき、玄関のドアを開けた。

「……ん?」

 裕と宏が、ふと足を止める。

「……宏」

「……はい」

「何か嫌な臭いがするんだけど」

「ええ……私もです」

「あのさ、お前」

「……すみません」

 宏が言うと同時に、裕は靴を脱ぎ捨ててダイニングへ駆け込んだ。

「宏――っ!! 何べん言ったら解るんだっ、ヤカンを空焚きすんな!!」

「すみませんでした!」

「火事になったらどうすんだよ! あーヤカン真っ黒じゃねーか」

「すみません、緊急だと仰ったので慌てて出て……火を消し忘れてました」

「緊急時でも消火するのは基本だろ! 地震のときはどうしろって教えた!?」

「最初に火を消します!」

「そうだよ!」

 裕にガミガミ怒鳴られて意気消沈しながら、宏は台所に入る。

 麗奈もその手伝いのために台所に入ったが、裕はブツブツいいながら部屋に帰ってしまった。


「宏さん」

 指示されたとおりに野菜を洗いながら麗奈が呼ぶと、包丁を持ったまま宏がこちらを向いた。

「はい」

「気になってたことがあるんですが……ずっと裕と二人暮らしだったんですか?」

「ええ。ここには五年ほど住んでいますが、それよりずっと前からです。……私は、物心付いた時から裕といました」

「へぇー……って、え!? 物心!?」

 驚愕のあまり手に持った野菜を落としそうになった。

 外見から裕は16歳位、麗奈と同じ位だろう。しかし、宏は少なくとも二十は過ぎているように見える。

 物心付いた時と言えば裕はまだ生まれていないか、赤ん坊なのではないだろうか。

 目を白黒させる麗奈に、宏は笑って付け足した。

「あぁ、すみません。私たち妖は、人間とは成長速度が違うんですよ。それに個体ごとにも違うし、一定でもないんです。私が子供の頃から、裕はあんな外見でしたよ」

「え……じゃ、宏さん本当はいくつなんですか? 実は凄く若かったり……?」

 まさか年下ではと思って恐る恐る訊くと、宏は少し首を捻った。

「いえ、私は親がいなかったので実年齢は知りませんが……逆でしょうね。人間の成長は私よりも速いので」

「え? じゃあ裕は」

「裕は私なんかより、ずっと長生きしているんだと思います」

「はぁ……そう……なんですか」

 麗奈はぼんやりと呟いた。なんだかもう、突拍子も無いことを言われても驚かない気がする。

「なんか不思議……てことは裕は、あたしよりも年上ってことかぁ……。じゃ、宏さんにはお兄さんみたいな感じってことですか?」

 尋ねると、宏は野菜を切りながら難しい顔をした。

「お兄さんというか……何て言うんでしょう、裕は裕です。……家族みたいなものでしょうか」

「じゃあ、今朝の質問の答えは“イエス”でいいんですね?」

「質問?」

「『お二人はご家族ですか?』って訊きました」

 宏はきょとんとして、それから少し嬉しそうに答えた。

「そうでしたね。じゃあ、『はい、そうです』」

「ところで今日のメニューは何ですか?」

「カレーですよ」

「あたしカレー大好きです!」

「良かったです! じゃあ頑張って作りましょうか」

「はーい」

 裕のカレーだけに唐辛子を大量投入してみようとか、隠し味にワサビを入れてみようとかいう“裕のカレー激辛作戦”は話し合いだけで終わり、実践には移さないまま、夕飯の時間。

 その頃には裕の機嫌は直っていて、文句は言わずに3人一緒に会話もしながらの夕飯となった。


 食事を終えて入浴も済ませた後、宏が片づけをしている時に麗奈は裕がいないのに気が付いて二階に上がった。

「裕ー? いる?」

 部屋をノックして呼びかけると、部屋の中ではなく後ろの方から返事があった。

「何か用か?」

「へっ?」

 驚いて振り返ると、一階の屋根の上に、裕が寝転がっているのが見えた。二階の廊下の窓から簡単に出ることが出来るのだ。

「いや、何か暇だから話でもしようかなーと……そっち、行ってみてもいい?」

「来れるなら」

 裕が起き上がって少し奥にずれたので、麗奈は慎重に窓枠を乗り越えて屋根の上に出た。

「わ、結構角度急なんだね」

「落ちるなよ?」

「多分大丈夫」

 慎重に歩いて裕の隣に腰を下ろす。

「今日天気いいんだね。星がよく見える……しかも満月!」

「夏はここ、すげー涼しいぞ」

「へー」

 雑談するとは言ってみたものの、特に話したいことがあったわけでもなかったので会話が途切れてしまう。

 何を話そうかと迷っていると、裕の方から切り出した。

「……なぁ、麗奈」

「何? ……って、え、呼び捨て!?」

 驚いて振り返ると、裕は首を傾げた。

「は? さっきからこう呼んでるけど」

「い、いつから」

「忘れた」

「……躊躇いとかないわけ?」

「じゃあ何て呼べばいいんだよ。下働き? 下僕? 下女?」

「……あんたそんなふうにあたしのこと見てたの?」

「冗談。宏が名前で呼ぶから名字が何だったか忘れただけだ」

「高沢、だけど……別に名前でもいいよ。どうせあたしも呼び捨てにしてるし」

 というより、敬称を付けたら気持ち悪いからやめろと言われたのだ。

「で? 用あったんじゃないの?」

「あ、うん。……これ」

 そう言って裕は、何かを麗奈に差し出す。よく見ると、それは麗奈のハンカチだった。

「これが何?」

「……は? いや、何じゃなくて、これ、お前のだろ」

「ん? 貸したっけ。落ちてたとか?」

 疑問に思いながら受け取ると、裕は呆れたような顔をしていた。

「……鈍いな」

「え? 何よ、教えてよ」

 相変わらず首を傾げる麗奈の前に、裕は左手の袖を捲くって包帯を巻いた腕を突きつけた。

「これ見ても分からんか」

「これ? あ、喧嘩したときに怪我したってとこ」

「鈍い、鈍すぎる。……あーもう見せたほうが早い」

 言うや否や、裕が姿勢を変えた。

 かと思うとその直後、彼の姿が一瞬のうちに消え失せる。

 そして、たった今まで彼が座っていたところに、金毛の獣が――何処かで見たような、狐が座っていた。

「あ、あれ……あの、そーいえば……もしかして、まさか?」

「そうだよそのまさかだよ! いちいち面倒臭いことさせんなアホ!」

 確かにソレは、麗奈がこの街に来て最初に見かけたあの狐だ――間違いない。そしてこのハンカチは、傷ついた左の前足に巻いてやったものだった。その狐が、裕の声で喋っている。

「うっそー! もっと早く言ってよー!」

「言えるかぁ!」

「じゃあその怪我って、あの犬に噛まれたとこ?」

「分かりきったこといちいち訊くんじゃねーよ馬鹿!」

 麗奈は何故か急に機嫌を損ねた狐姿の裕を見下ろして、感嘆の息を吐いた。

 ようやくすべてがつながったのだ。町で出会った狐、喧嘩をしていた黒い犬。片腕に怪我をした裕と、襲ってきた黒い二人組。

「あー……そっか、なるほどー、へぇー、すごーい」

「……そんな感心されても」

「いや、やっぱ現実そうなんだなぁと……でも良かった、あたし狐大好きなんだぁ! 抱き心地良さそうじゃない?」

「良さそうじゃない? とか言われても困るけど」

「あ、そっか」

「うん。……それで、」

 急に裕の声が小さくなった。

「お前を助けたのも別に、礼を言われるようなことじゃないから。当然のことをしただけだ」

「……恩返しとか」

「まあそんな感じ」

 裕は確かに口は悪いしぶっきらぼうだが、結構律儀な男だった。

「けどまさか、お前がうちに来るとは思わなかったな」

「あたしだって行く予定なかったもん。彷徨ってたらたまたま……そうだっ、下宿!」

 裕は麗奈が急に大声を出したのに驚いたのか、耳をピンと立てて顔を上げた。

「何?」

「だってあたし、ここでは暫くバイトするだけってことになってるし……ちゃんとした下宿、探さないと」

「それならいいよ、別に」

 あっさりと言われ、麗奈は目をぱちくりさせた。

「何が?」

「お前さえ良かったら、ここにずっと泊まれば」

「へ?」

「客なんて月に数人来ればいいほうだし。……嫌じゃなかったら」

 暫く裕の言葉を反芻して、麗奈は目を輝かせた。

「本当!? いいの!? それは助かる、やったー……っきゃあ!?」

 喜んで立ち上がり、両手を突き上げその勢いで足が滑った。

 尻餅を突き、滑り台のように滑って危うく屋根から落ちそうになったが、間一髪のところで手首を掴んで引っ張られる。瞬間的に人の姿に戻った裕が、麗奈を引き上げてくれたのだ。

「忙しい奴だな。だから気を付けろって言ったろ」

「ご、ごめ……びっくりした……でも本当嬉しい、ありがとう! だってタダってことでしょ!?」

「どういたしまして。ただしその代わり、じゃんじゃん働いてもらうからな」

「お安い御用! まっかせとい……ぎゃあぁ」

「何回言わせんだよ! そして掴まるな離せ」

 再び滑った麗奈を引き上げた裕は、彼の袖を掴んで離さなくなった麗奈を軽く小突いた。

「こ、怖……だってここ滑るんだもん!」

「そんなこと、最初から……っ、ふ……」

「裕?」

 麗奈が顔を覗き込むと、裕はふいと顔を背けて俯いた。肩が細かく震えている。

「裕……? 何?」

「く、だって、お前……」

「何よ」

「ふ、はは、お前馬鹿……っ」

 何かと思えば、裕は笑っていたのだ。

 麗奈は急に顔が熱くなるのを感じた――照れなどではなく、頭に血が上ったのだ。

「何よっ、人の顔見て!!」

 と、叫ぶと同時に3度目。

「ぎゃぁ! ……危なー……」

「あっはは、お約束! お前芸人目指せよ」

「失礼な!」

 麗奈は口を尖らせたが、裕の方は笑いが止まらない。笑い続けている。そんな彼を見て、麗奈はふと気が付いた。

「……なんだ、ちゃんと笑えるじゃない」

「あっはは……えぇ?」

 笑いすぎて滲んだ涙を拭きながら、裕が尋ね返す。

「あたしが来てから一回も笑わないから、無愛想な奴だと思ってたけど。ちゃんと笑えるんじゃないの」

 裕は、一瞬不思議そうな顔をしたが、それから思い出したように頷いた。

「あぁ、まぁ、そりゃそうだろ」

「もしかして人見知り? そんなナリして」

「そんなナリって何だ」

 初めて裕の笑顔を見て、気が付けば怒りはおさまっていた。

「じゃあ、改めてこれからよろしくお願いします」

「こっちこそ。……お前、親に早めに連絡しとかないとまた心配かけるぞ?」

「うん、もちろんちゃんと連絡するよ。じゃあおやすみ」

「おう」

 滑らないよう慎重に屋根を伝い、二階に戻る。その時宏とばったり鉢合わせた。

「あれ、麗奈さん? 裕は……」

「裕ならそこにいますよ。おやすみなさい」

「あ、おやすみなさい……」


 麗奈の部屋のドアが閉まった後、宏は麗奈が指差した方を振り返って、ふと動きを止めた。

「裕?」

「ん?」

 屋根の上に仰向けに寝そべった裕が、宏に視線を向ける。

「……麗奈さんと何をお話ししていたのですか?」

「何で?」

「何でって……」

 ふ、と笑いが漏れたのは、果たしてどちらか。

「とても嬉しそうな顔をしていらっしゃいますから」

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