狐の民宿

狐荘へようこそ。

第1話 始まり

 昔、図書館で分厚い図鑑を見た。

 見たことのない動物、名前も知らない魚、想像もしていなかったようなカラフルな鳥。到底植物には見えないような色の花、まるでゲームの世界から飛び出してきたような不思議な形の微生物。この世には、まだまだ知らないことがこんなにあるんだなと思った。

 目に見える物だけが全てだと思っていた。それだけではなかったことを知った。きっとまだまだ、想像したことの無いようなものがたくさんあるのだろう。世界が広がった。

 たとえどんな不可思議なことが起こっても、納得のいかないことが起こっても、それはただ自分が知識として持っていなかっただけで、初めからそういうものだと認識してしまえば何のことはない。受け入れるにしろ、拒絶するにしろ、そのあと自分で選択すればいいことだ。

 その時から少しだけ肩の力が抜けて、少しだけ生きやすくなったような気がする。


――だがしかし。

 命にかかわるともなれば話は別だ。


 自らの身体を拘束する謎の植物、こちらを眺めて舌なめずりをする、人の姿をした得体のしれないモノたちを前に、さすがに悠長なことは言っていられない。

 助けを求めようにも、目に見えない壁がその向こうで何事も無く普通の生活を送る人々との間を隔てているのだ。

 食べられる、と思った。普通に人間生活をしていてこんな感覚を覚えることなどほとんどないのだろうけれど、比喩ではなく、本当に食べられると思った。人間にこんな本能があったなんて、と頭のどこかで感心しながら、しかし声に出すことも出来ず、身動きも取れずに、ただただ途方に暮れていた。


 ことの始まりは、二月の始めにさかのぼる。


 ◇


「うわあ、真っ暗だ! 星がいっぱい見える!」

「明かりが全然ないね……さっすが田舎」

 車から降りたところで、小さな弟が満天の星空を指差し、それよりも少し上の妹はげんなりとした声を上げた。きょうだい達に続いてワゴン車の後部座席を降りた麗奈は、一度夜空を見上げはしたものの、さして興味もわかずに自らの荷物を抱え、唯一この視界の中で灯りを点している大きな民家に向かってさっさと歩き出した。


 ここ萩山村は、その名の通り萩山という山にある小さな村で、建物が民家くらいしかないから夜になると辺りは闇に包まれる。街のほうに比べると星が一段と多く、『超』が付くくらいの田舎だった。

 周りには水田が広がり、夏になれば虫や蛙の鳴き声で喧しくなる。ただ、春とは名ばかりで寒さの厳しい今の時期、さらに町よりも気温の下がるこの山奥は、生き物の気配も無く静まり返っていた。

 夜に冷やされた風が、肩まである髪を揺らす。車での長旅に疲れた麗奈には心地よい冷たさでもある。

「お姉ちゃんお姉ちゃん、上見て! 星がすごいよ」

 春には小学校二年生に進級する弟、勇太が追ってきて、背後から麗奈の服の裾をぐいと引っ張った。歩みを止められた麗奈は眉間に皺をよせ、小さな弟を振り返る。

「毎年見てるでしょ。自分の荷物くらい自分で持ちなさい」

「はぁい……」

 叱られた勇太はしゅんと項垂れて、荷物を取りにすごすごと車へと引き返していった。

 萩山村は、麗奈の母の故郷である。盆と正月には毎年母の帰省にくっついて訪れていたけれど、今回のこれは里帰りではない。高沢家は、この村に住むことになったのだ。

 麗奈は荷物を運びながら、数日前のことを思い返した。


 その日麗奈は、いつものように学校から帰宅した。受験シーズンに入り、クラスの雰囲気もだんだん本気ムードになってきた頃。麗奈も、家に帰ってからは毎日机に向かい、受験勉強に取り組んでいた、そんな矢先の出来事。

 いつもなら仕事で帰宅が遅いはずの母親の靴が玄関にあったことに気付き、珍しいなと思いながらリビングへ顔を出すと、帰宅の挨拶もそこそこに、ダイニングテーブルについていた母から「とりあえず座って」と促された。

「お帰り。今日はずいぶん早いんだね」

「ちょっとお話があってね」

 手招きされて、言われるままにダイニングテーブルの向かい側につく。

「おばあちゃん家が神社なのは麗奈も知ってるよね?」

「うん。萩山神社のこと?」

「今月中に、あっちに行くことになったから」

「…………はぁ?」

 長い沈黙の後、やっとのことでそれだけ言った麗奈に、母はまるで世間話でもするかのような気楽さで言った。

「おばあちゃんが前に、麗奈を神社の跡継ぎにどうかって言っててね。ちょうど今回、お父さんがあっち方面に転勤することになったから、この際一緒に行っちゃえって事で。巫女さん、やってみたいって前に言ってたでしょう?」

「あ、跡継ぎ……? 転勤!?」

 混乱した麗奈の頭の中を、いろいろなものがめまぐるしく駆け巡った。突っ込みどころが多すぎて突っ込めない。まだ母はなにか喋っているようだが、頭に入って来なかった。

 やがて、ある事実に思い当たる。

「――そしたらきっと、麗奈も……」

「ちょっと待った、受験は!? それにもうすぐ卒業なのに」

「萩山にも高校はあるわよ?」

「そうじゃなくて! こないだ願書出した志望校は……」

「あっちで受け直せばいいじゃない」

「…………」

 あまりにもあっさりした母である。

 どうやら子供たちの知らない間に、両親や祖母の間で話がまとまっていたらしい。

 こうして、跡継ぎだか転勤だかよく訳の分からないまま、麗奈の中学卒業を目前にして転校が決まったのだ。

 といっても出席日数は十分に足りていたから受験に支障は無く、正確には卒業式まで欠席扱いということになる。中学一年生の妹と小学一年生の弟も、終業式を迎えずに転校となった。麗奈は今の中学に未練も何もなかったから割とすんなり受け入れたが、新しい学校にようやく馴染んでようやく友達が増えたばかりの二人は、しばらく嫌がって抵抗したものだ。

 最終的に、「時々は友人に会いに帰ってくる」という約束の元、渋々転校を受け入れたのだった。


 ◇


 祖母の家は、麗奈たち家族五人がひとつずつ部屋を使っても余るほど広い。里帰りのたびに各自使っている部屋があったから、荷物を広げなくとも必要なものは揃っていた。

 麗奈は自分の荷物を運び入れると、昼間に祖母が干しておいてくれた布団をベッドに敷き、横になった。

 父も母も、勝手だ。せめて長女にくらい、先に相談してくれてもいいのに。まあ昔から言い出したら周りが見えないのは解っていたことだが、そもそも跡継ぎだの何だの、麗奈には未だにさっぱり解らない。

 ほんの数日前まで、ごくごく普通の中学生活を送っていたのだ。普通に受験して、普通に高校生になるのだと思っていた。父の転勤ならまだよくある話だが、跡継ぎとは。そもそも祖母の跡を継ぐならば父か母ではないのだろうか。考えるほどにわけが分からない。

 色々と思考を巡らせていると、ドアを叩く音が聞こえた。続いてドアが開き、細い隙間から弟がそっと顔を覗かせる。

「お姉ちゃん……おばあちゃんが、ご飯もうできてるって」

 声にいつもの覇気がない。さっき冷たくしすぎてしまっただろうか。

(弟にあたっても仕方ないか)

 別に、田舎暮らしが嫌なわけではないのだ。

 普通ならもっと反抗したりするのだろうが、気紛れな母の我が儘に振り回されるのにはもう慣れてしまっていた。志望校にどうしても行きたい熱意はなかったし、通っていた中学校にも特に思い入れはない。突然のことに戸惑っただけで、正直なところ、「どうでもいい」というのが彼女の本音だった。まあだいだいなるようになる。

 麗奈は身体を起こしてベッドから足を下ろした。八つも歳の離れた兄弟はやはり可愛い。麗奈の表情が柔らかいのを見て、弟がほっと肩から力を抜いたのがわかる。

「分かった、行くよ。ご飯何だろうね?」

「あのね、今日は肉じゃがとかぼちゃコロッケがあるよ。お姉ちゃんが好きだからって」

「おばあちゃんのかぼちゃコロッケ美味しいもんね。楽しみだね」

 麗奈は弟の手を握って、共に居間へ向かった。


 祖母は、娘夫婦と孫たちと共に暮らせるようになることを心底喜んでいるようであった。麗奈が小学生のころは夏休みや冬休みをたっぷり使って萩山に滞在することも多かったが、麗奈が中学に上がって部活をするようになってからは休みが少なくなり、盆と正月のみ、それもほんの数日しか訪れることも無くなっていたため、この大きな屋敷に一人暮らしをしている祖母としてはやはり、口にはしなくとも寂しさを感じていたのかもしれない。

 夕食後、自室で一人荷物を片付けていると、祖母が部屋を訪ねてきた。中学生の一人部屋にしては若干広すぎる洋室に、勉強机と木製のベッドを置いただけの質素な部屋。椅子の代わりにベッドに並んで腰掛け、久しぶりに祖母と二人きりで顔を合わせた。

「麗奈ちゃん、長旅で疲れているのにごめんなさい。少しだけお話したくて」

「うん、いいよ」

「跡継ぎの話なんだけど」

 なんだか言いにくそうに、祖母が顔を曇らせる。静かに続きを待つと、祖母は深く溜め息を吐いて、申し訳なさそうな顔をした。

「なんだか急に知ったみたいで、ごめんなさいね。別に、今すぐどうこうしろってわけではなくて、いずれはこういう道もいいんじゃないかと思って、あくまで選択肢の一つとして話したつもりだったのだけど。たまたまお父さんがこちらに転勤になるってことだったから、貴方のお母さんがこれ幸いと引っ越しを決めてしまったみたいで」

「あー……なるほど」

「まったくあの子は……昔っからああいう性格で。お父さんの転勤も、本当はもう少し前から決まっていた筈なのよ。もっと早くに教えてあげれば、麗奈ちゃんだって覚悟できていたのにね……ごめんね」

 頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた祖母を見て、祖母の数十年の苦悩が目に浮かぶ。そそっかしい困った母だ。

「ところで神社の跡継ぎって何するの? なんであたしなの?」

 麗奈はとりあえず今一番知りたかったことを尋ねてみた。本当は一番にこれを知っていないとおかしいのだが、母の性格を考えると知っていながら話していない可能性もある。

「簡単に言うと、神主さん――最初は巫女さんからかしら。あの神社は小さいしそんなに手が掛からないから、することはそれほど多くないのよ。うちの血筋は女系でね、代々女の子があの神社を継いできたの。だから麗奈のお父さんも婿入りだったでしょう? まあ今の時代、長女だからと言って強制する気はないわ。今は私が一人で神社を管理しているけれど、ただ、私ももうこんな年だから、ねぇ?」

 穏やかに笑う祖母は、七十代も後半に差し掛かった頃だ。しかし本人が言うほど年老いてはおらず足腰も強靭だし、なにより見た目も若々しかった。きつい団子に結んだ白髪混じりの髪が、きりりとした女性らしい印象を与える。

「おばあちゃんはまだ若いでしょ」

 麗奈が素直に思ったことを言うと、祖母はふふとくすぐったそうに笑った。

「ありがとう。そう、私も今はまだ元気だし、跡継ぎの話は『いずれ』って言っていたのだけど。麗奈ちゃんの希望もまだ聞いていないしね。興味があれば、学校に行きながら巫女さんのアルバイトとして体験してみても大丈夫よ。やっぱり高校には通いたいでしょう? 萩山にも高校はあるから、よかったら今度見に行って御覧なさい」

「行ったことなら、あるよ」

「そうなの。どうだった?」

 ぼろいし小さいし田舎だし生徒少ないし。それに麗奈が受験するには偏差値が低すぎて、なんだか嫌だ。

――さすがにそこまでは言えなくて、曖昧に笑ってごまかした。


 ◇


 街とは違った、朝日を浴びての目覚めは、非常に清々しいものだった。

 春がまだ訪れていないこの時期の山は、かなり冷え込む。布団から出るのにはなかなか勇気がいるが、いったん着替えて顔を洗い、温かな食事を口にすれば、しっかりと目が冴えるものだ。

 麗奈はひとり庭に出ると、深呼吸した。山の澄んだ冷たい空気が肺の奥まで染み渡る。白く染まった吐息が、ふわりと空に消えた。


 祖母の家の周りには水田が広がっていて、隣の家までは少し距離がある。昔はこの水田も祖母の所有だったらしいが、娘が独り立ちして一人暮らしをするようになった祖母が近所の農家に売ってしまったそうだ。そこで収穫した米を、買い取った農家の人が毎年祖母にも分けてくれるというのだから田舎の人々はあたたかい。

 そんな水田の間に走る畦道をしばらく歩くと、村の外れの山道に入った。舗装されていないので草などたくさん生えているが、一応軽車両が通れる程度には均されている。村の名前の由来となった、萩山という小さな山だ。

 跡継ぎの話が出ていた萩山神社は、この山の中腹にある。とはいえ小さな山なので、二十分も歩けばすぐに着く。小学生のころは、祖母の家に来るたびに山遊びに来ていたものだ。というよりは、子供が遊べる場所がここくらいしかないというほうが正しいが。

 百段弱の石の階段を上れば、ちいさな鳥居がぽつりと出迎えた。

 簡素な拝殿と小さな本殿、苔むした手水舎しかないちっぽけな神社。社務所は、盆と正月だけプレハブで建てられる。本当に静かで何もない神社だ。

 山の守り神を祀っているという。小さいけれど歴史はそこそこ長いらしく、管理しているのは麗奈の祖母だが村の人たちがまめに訪れて挨拶ついでに手入れをしてくれているらしい。久しぶりに見る神社は、何度来ても変わらない。静かで落ち着いた雰囲気が心地良く、麗奈のお気に入りの場所だった。

 それにしても自分がここの巫女になるだなんて想像もしていなかった、とぼんやり突っ立っていると、背後で不意に、かろんと下駄の鳴る音がした。

「あれ、麗奈?」

 声をかけられて、振り返る。立っていたのは、見た目麗奈とそう変わらない年頃の少年だ。

 一瞬女の子と見紛うような中性的な顔立ちに、少し長めの胡桃色の髪。白い着物と青い袴を身に着けていて、境内の掃除でもするつもりだったのか手には竹箒を持っている。

「おー、萩。久しぶり」

「久しぶり、おはよう。元気してた?」

「元気だよー」

 麗奈が手を上げて掌を向けると、軽くハイタッチを返してくれる。この山、神社と同じ名前の彼は、もうずいぶん長くこの神社でアルバイトをしていた。

 五年前、麗奈が母親の帰省にくっついて初めてこの神社を訪れたときにはすでにここで今と同じように箒を握っていたはずだ。当時、麗奈は小学生。もし彼が麗奈と同じ年頃なら彼も小学生だったということになってしまうから、年が近そうな見た目とは裏腹に実際はもう少し年上なのだろう。なんにせよ、彼は年齢不詳だ。

 萩は麗奈を見下ろすと、ことりと不思議そうに首を傾げた。

「あれ。中学の卒業式って、確かまだじゃなかったっけ?」

「うん……そうなんだけど」

「何かあったの?」

 彼に促され、境内の隅に置かれた木製のベンチに並んで腰を下ろす。卒業前に帰省していることを心配して顔色を変えた彼に、心配するほどのことではないよと一連の経緯を簡単に説明した。萩は黙って相槌を打ちながら、麗奈の話を聞いてくれている。

「――それで、ちょうど昨日の夜こっちに来たばっかりなんだけど」

「……ふーん」

 一通り話を聞いた萩はゆっくりと立ち上がり、麗奈に背を向けたまま、持っていた箒で境内をガサガサと適当に掃き始めた。無視されたのかと思いきや、何事か考え込んでいたらしい。集めたのだか集めていないのだかよく判らない落ち葉の山を足で蹴散らして、真面目な顔でくるりと振り返る。

「麗奈。君はそれで良いの?」

「え? ……あたし?」

「うん、そう。君自身は、これで良かったと思う?」

「うー……ん」

 よく分からない。家族に従っていただけで、自分の道など考えてもみなかった。萩は首を傾げる麗奈を見下ろして再び問う。

「どうして、断ろうとは思わなかったの?」

「何だろう……仕方ないっていうのかな、お母さん一度決めた事は譲らないし。跡継ぎがどうとかって話も、今はまだよく分からないし。前の家や学校には思い入れも無いから、引っ越し自体は嫌じゃないし」

 萩は暫く麗奈を見下ろして、ふむ、と顎に手を当てた後、唐突に質問を変えてきた。

「麗奈、今身長何センチ?」

「は?」

 話題の変化についていけない。

「えっと、この間測ったら、百五十八センチ……だったかな」

 とりあえず聞かれたことに答えると、萩が驚いたように「へぇ」と目を丸くする。

「そんなに感心する事じゃないよ。クラスでも真ん中あたりだし」

「大きくなったなぁ。ま、僕にはまだまだ及ばないけど?」

「いやいやもう少し頑張って伸ばす予定だから」

「頑張って伸びるものじゃないと思うんだけど。僕はこれ以上伸びないから、あとは麗奈の成長期が終わらないのを祈るだけだ」

 萩がくすくす笑う。馬鹿にされているようで悔しい。成長期などとっくに終わっているというのに。

「せめて百六十は欲しいんだよ。体重だったらいくらでも増えるのにな」

「ふうん。今は?」

「えーと、……ってこら聞くな」

 にやにやしながら余計な質問を投げ込んできた萩は、叩こうとする麗奈の右手をひょいと大股に一歩下がって避け、楽しそうに笑った。

「良かった、笑った」

「はぁ?」

「だって、なんか元気なかったんだもん、麗奈。ボケッとして案山子かかしみたいに突っ立ってるしさ」

「案山子ってねえ」

 萩は笑いながら、ふと自分の髪に手を伸ばして枯葉の破片を手櫛で取った。風で飛ばされてきたのがいつの間にか付着していたのだろう。彼の髪は、太陽に透かすと淡く光って見える。日本人にしては少し色が明るい胡桃色。しかしそれは人工的な茶髪ではなく、やわらかい自然な色だ。

「僕、思うんだけどね」

 彼は人懐こい笑みを浮かべ、踵を軸にしてくるりと体ごと麗奈のほうに向き直った。

「麗奈が自分の意思で、やりたい事をやりたいようにやったらいいんじゃないの」

「え?」

「もう高校生なんだから。行きたい学校があればそこに行けばいいし、やりたい仕事があったら働けばいいし。もちろん、この村で学校に通うのが本意なら、そうすればいいし」

「でも……おばあちゃんが」

「神社継げって言われてるんだっけ? 嫌なら断っちゃいなよ」

「……そんなことして怒られないかな?」

「当たり前だろー、あの孫大好きおばあちゃんが、可愛い孫が嫌がることを押し付けるわけないって!」

 萩が麗奈の不安を吹き飛ばすように快活に笑った。それから、秘密でも教えるかのように声を潜め、麗奈の耳に口元を寄せてくる。

「あのね。……ここだけの話なんだけど、この神社の神様はかなり自由人で我が儘で、ちやほやされるのが好きなの。お勤めだからって渋々お仕えされるのは一番嫌いなんだよ。麗奈のおばあちゃんも、そのことはよーく知ってるから、大丈夫」

 悪戯っぽい笑みで、萩がそんなことを言う。神様が自由人だなんて聞いたこともない。何それ、と麗奈が吹き出すと、萩はにっこり微笑んだ。

「……人間ってさ、時間が限られてるじゃん。だったら、やりたい事をできるうちにやっとかないと、後で後悔するよ? 君のおばあちゃんだって今はまだバリバリ現役なんだから、今すぐに継ぐ必要なんて無い」

「バリバリ現役って何それ。……でも、それもそうだよね」

「そうそう。もう少し考え直してみなよ。……あ、来た来た!」

 ふらりと鳥居の近くまで歩いて行った萩が、神社の階段を見下ろして大きく手を振る。

「おそよー、勇太」

「萩兄ー! 久しぶりー! おはよう」

 弟の勇太が、サッカーボールを小脇に抱えて階段を駆け上がってきた。走ってきた勢いのまま飛び付いた勇太を、萩が抱きとめる。

「うわ、また重くなってやんの」

「三センチ伸びたよ!」

「でかくなってんじゃーん」

「あのね、リフティングできるようになったんだ、見てて」

 萩から離れて、抱えてきたボールを蹴り上げる。ぎこちないが、数回続くだけでも成長だ。幾度目か、空に浮いたボールが風に流されてふわりと揺らいだのを、すかさず萩の足が受け止めた。落ちないように手助けしたのかと思えば、そのままひょいひょいと勇太から逃げていく。

「待って、ボール返して」

「ここから奪い取れたら、上達したと認めてあげよう」

「えーっ、ひどい!」

 麗奈は境内のベンチに腰掛けたまま、ボールを取り合う二人を眺めた。麗奈の話を聞いてくれていた先程とは打って変わって、子供のようにはしゃいでいる萩は、年下のようにさえ見えてしまう。がむしゃらにボールを追いかけ回していた勇太は、萩の巧みな足さばきに翻弄された末、スタミナ切れで座り込んだ。

「萩兄強すぎ! 全然疲れないよね、なんで」

「山暮らしだと自然に体力つくんだよ。それに君はまだ十歳にも満たないお子様なんだから、早く疲れて当たり前」

「お子様じゃないもん」

「チビっ子、ガキんちょ」

「うわー萩兄がいじめるぅー」

「事実じゃん」

「チビじゃないもん! クラスで前から四番目だもん」

「……へえ、そうか。君より小さいのが三人も」

「うん!」

 最後の萩の一言も一応嫌味だったのだが、勇太は誇らしげに大きく頷く。かわいいなあと言わんばかりに萩の顔がにやけたのを麗奈は見逃さなかった。萩は麗奈の弟にちょっかいをかけていじるのが好きらしい。

 麗奈は自分の財布を取り出して百円玉を数枚出し、弟に手招きをして握らせた。

「これでジュース三本買ってきて。下に駄菓子屋さんあるから」

「僕と麗奈と神社のお供えの分だからね?」

 麗奈の背後から肩に体重を掛けて凭れた萩が、麗奈の頭越しにニヤニヤしながら口を挟む。いちにいさん、と指折り数えた勇太が、悲壮な声を上げた。

「えーっ! なんで、萩兄ずるい、ボクのぶんは」

「えっ?」

「……萩」

 肩越しに窘めると、萩がごめんごめんとまるでそうは思っていないような声で謝った。

「仕方ないなぁ、じゃあ五分で戻って来られたら君の分もあるという事にしよう。よーいドン!」

「えっ、うわあ、いってきます!」

「いってらっしゃーい」

 階段を駆け下りる勇太に向かって、萩がにこやかに手を振る。麗奈は小さくため息を吐いた。

「可愛いのは解るけど、あんまりからかわないであげてよ……」

「いいじゃん、傷ついてるようでもないし。きっと今頃、無謀にも五分で戻るなんていうインポッシブルなミッションにチャレンジしていることでしょう。いやー、ピュアだよね」

「これで勇太がぶっ倒れたらあんたの責任だからね」

「なに言ってんだよ。サッカー小僧がこれくらいで倒れてちゃ、試合なんか出られないよ」

 萩が麗奈の前に来たので、麗奈は少しずれてベンチを空けてやる。空いたスペースに腰を下ろして、萩は唐突に尋ねてきた。

「麗奈は将来、何になりたいの?」

「将来? ……将来かぁ」

 敷かれたレールの上を走るだけの人生だった。流れるように義務教育を終え、その先までは考えていなかった。だから突然の環境の変化に戸惑っているのだ。もしかしたら、突然すぎて戸惑うところまで行きついていないかもしれない。

 自分は何がしたいのか。何のために進学するのか。これからどうするのか。自分で考えなければいけないのだ。

「難しいなぁ……」

 思わず零れた本音に、萩がゆるりと目を細める。

「やりたいようにやったらいいよ。君の道を妨げる人間なんて、この村にはいないから」

「やりたいことって言われても……正直まだよく分かんない。高校に上がれば決まるかなとは思ってたけど、行きたい高校はキャンセルしちゃったし、べつに近くに行きたいところないし。働くかなぁ」

「あー、そっか。萩山高校は偏差値低いしね」

「え? そういうわけじゃ……少しは、ある、けど」

 咄嗟に否定しようとしたものの、萩の「ほんとに?」という視線を向けられて、尻すぼみに本音が出た。

「ご、ごめん」

「別に本当のことなんだから気にしなくていいんだよ。母校ってわけでもないし」

「そう……」

 暫く考えて、ふと思い当たる。

「母校ってことは、萩もう高校出てるの?」

「いや? 行ってないよ、高校には」

「……萩って何歳なの?」

「ヒミツー。教えない」

 きひひと悪戯っぽく笑って見せた、口元に八重歯が覗く。顔のいい人は何をしても様になるものだ。麗奈は答えの返ってくるはずがない質問は諦めて、少し考え込んだ。

「あたしにバイトとかできると思う?」

「うん。高校生でバイトする人いくらでもいるでしょ」

「別に村にいなくたって、寮とか下宿とか……あるよね」

「私立高校なら寮もあるし、山の向こうにある……そうだな、柳町とか霞原とか、そのくらいの学生街なら下宿くらいいっぱいあるよ」

「まだ願書受け付けてる高校あるかな?」

「麗奈の住んでたとことは地区が違うから、いくらでもあるんじゃない? 調べてみよう」

「そっか……」

「自分で決めて、自分で考えたらいいよ。それで決めたことならきっと、ご両親もおばあちゃんも誰も文句なんか言わないから」

 萩が麗奈の頭にぽんと手を載せる。

「……ありがと」

「まあ僕としては、麗奈と一緒にここで働くのも大歓迎なんだけど?」

「あはは、考えとく」

 冗談とも本気とも取れる発言に、思わず笑う。

 今までこんなに親身になって相談に乗ってくれた人は他にいなかった気がする。いい友人を持ったものだ。

 というより、親身になって悩みを聞いてくれそうな人がいなかったから、迂闊に相談できなかったのだ。……なんと頼りにならない家族だろうか。決して面倒見が悪いわけではないが、良くも悪くも放任主義なのだ。しかしそれは、麗奈自身の決断を無下にするようなこともしないということでもある。

「……決めた。やっぱり、お母さんたちに相談してみるよ」

 麗奈の言葉に、萩は微笑んで頷いた。


「ただいまー! ジュース買ってきたよ」

 やがて、息を切らした勇太が階段を駆け上がってきた。

「もうだめ、もう歩けない……萩兄、いま何分?」

「八分四十二秒。三分四十二秒の遅刻だね」

「あー、もう疲れたぁ。お姉ちゃん、これ」

 勇太が麗奈にコーラを差し出す。麗奈がそれを受け取って開けようとすると、すかさず萩が横から手を伸ばして奪い取った。

「ちょっと待った。これ……」

 奪った缶のプルタブを、萩は何の躊躇いもなく引き起こす。

 走ってきた勇太の手に握られて満遍なくシェイクされた炭酸は、噴水のように勢いよく吹き出した。萩は缶の飲み口を絶妙に自分から遠い方に向けていたので、被害者はもちろん。

「うわぁーなにすんだよ! 兄ちゃんの馬鹿!」

「あらーごめんあそばせ。まったく……危うく君のおねーちゃんが被害に合うとこだったんだぞ」

「だったら誰もいないほうに向けたらいいじゃんか」

 噴き出したコーラを浴びてベタベタになった勇太が文句を言いながら自分の缶を開け、口をつけようとした。

「あ、こら。五分オーバーしたんだからそれは神社のお供えの分だってば」

「萩兄のいじわるー!」

 泣きそうな顔をする勇太とは裏腹に満面の笑みである。勇太は萩の意地悪から逃れる事はできないようだと、麗奈はこっそり溜め息をついた。


 ◇


 その夜、麗奈は自分の考えを両親と祖母に打ち明けた。

 神社の跡継ぎの話は先延ばしにしてほしい事、萩山の外の高校へ行きたい事、学費と最低限の生活費だけ支援してほしい事――。

 突然の麗奈の申し出に戸惑ったのは両親だった。この村が嫌なら皆でまた引っ越そうかという提案もあったが、それは断った。そもそも父の仕事の都合でこちらに来ているのだし、妹や弟の転校の手続きも進めている。家族に余計な手間を掛けさせるわけにはいかない。

 妹や弟が寝静まった後にひっそりと開かれた家族会議。夜も更けるまで慎重に皆で話し合ったが、最終的に本人の希望を最大限尊重するということで落ち着くこととなった。

 最後まで心配していたのは、意外にも一番奔放なはずの母だった。ひとりでどうやって暮らしていくつもりなのか、母と二人で村を出るのはどうか、この村からでは通えないのか、と散々渋っていたが、それを説得してくれたのは祖母だ。

「あんたも同じくらいの年で、同じことしたじゃない」

「それとこれとは話が別でしょ?」

「同じことよ」

 祖母からの思わぬ援護に、麗奈も目を丸くした。祖母曰く、麗奈の母も村を飛び出していった経験があったらしい。祖母にとっては麗奈の意を決した相談もある程度は予想済みだったということだ。

「子は親に似るとはよく言ったものね」

 そう言って笑った祖母に、母は諦めたように苦笑いで頷いた。


――こうして、麗奈は萩山を出て行く事が決まった。

 村を出る条件として、最初はまず母の知人が営業している下宿先に入ること、生活費は祖母が毎月仕送りをすること、高校が決まったらすぐに知らせること、万が一受験に失敗したら村に帰ってきて速やかに村の小さな高校を受け直すこと、を両親と約束した。

 受験をしてから引っ越すという手もあるのだが、環境に慣れるためにも麗奈は出来るだけ早くに親元を離れることを希望したのだ。これから資料を集め、要綱を見比べてから受験校を決める位の時間はまだある。

 姉にべったりな弟は姉の一人立ちを泣いて嫌がったが、会いたくなったらいつでも会えると話して聞かせると、渋々納得して頷いた。姉と大して仲の良くない妹は素っ気なかったが、少しだけ寂しげな表情を浮かべて「頑張ってね」と言ってくれた。


 ◇


 数日後の夕暮れ時、麗奈は再び萩山神社へ足を運んだ。

 明かりのない山は薄暗く、日が暮れると何も見えなくなってしまいそうだ。日が暮れないうちに用事を済ませようと、足を急がせる。鳥居をくぐったところで、少し声を大きくして目当ての名を呼んだ。

「萩? いるんでしょ」

「うん。どうしたの、こんな時間に」

 本殿の後ろから箒を持って萩が出てくる。朝早くても夜遅くても、境内で名を呼ぶとすぐに現れるのが彼の謎のひとつでもある。

「あのね。あたし、家を出て一人暮らしすることになった」

「へぇ……お母さんと同じか」

 ぽつりと呟いた萩に、麗奈は首を傾げる。

「それ、村では有名な話なの?」

「うん、まあね。それで、どこに?」

霞原かすみはらにお母さんの知り合いで学生の下宿をやってる人がいるから、お母さんに話を付けてもらってそこに行こうかなって」

「そっか。……いつ出るの?」

「今月中には」

「そう……気をつけて」

 麗奈の報告を聞いても、彼は特に動じた様子もなかった。まるで予想通りだったとでもいうように、穏やかに微笑んで頷いた。

「うん。ただその報告に来ただけなんだ。時間取らせてごめんね。じゃあ――」

「あ、待った」

 暗くなってきたので早く帰ろうと踵を返したが、呼び止められて振り返る。

「ん?」

「あのさ……これ」

 着物の袖の中に手を突っ込んで彼が取り出したのは、小さな皮の巾着。差し出されたそれを開けて見ると、中に入っていたのはペンダントだった。二センチほどの丸い水晶のような石に、穴をあけて細い皮紐が通してある。今時の女の子が好んで身に着ける可愛いアクセサリーとは違い、どちらかといえば民芸品のようなシンプルなものだ。

「何これ? 綺麗」

 掌に乗せたそれを眺めながら問うと、萩はふふふと笑いながら手を伸ばし、麗奈の手からそれを取って両手で頭の上に掲げた。頭下げて、と促されて軽く下を向く。首飾りがそっと麗奈の首に掛けられた。

「御守りだよ。三月、誕生日でしょ? 次にこっちに来るのはだいぶ先になるだろうし、ちょっと早いけど今渡しておくよ。持って行って」

 サイズの割には予想したほどの重みもなく、肩は凝らなそうだ。しっくりと胸元に馴染むその石を右手に乗せて眺める。パワーストーンなどの類いには詳しくないが、別に効果を信じていないというわけでもないので純粋に嬉しかった。

「ありがとう。大事にする」

「いーえ、どういたしまして。……御守りだから、できるだけ着けててね」

「うん。ありがとう」

 ペンダントを受け取った麗奈は、もう一度礼を言って彼に手を振り、石段を駆け下りる。石段を下りた先で振り返ると、鳥居の下には既に萩の姿は無かった。

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