第190話光風
「今の俺は、お前の角や牙に憎悪も怖れも無い。俺はお前を助けたい!だからこの薬を飲め。そして、俺はこれからこの薬をお前の為に作り続ける。だから、俺を、俺をこれからずっとお前の側に置け」
春陽は、地面に足を崩したまま座り続け、定吉のその言葉に戸惑い、もう一度その言葉を自分の頭の中で整理するように繰り返した。
「春陽!」
春陽の真向いで地面に片膝で跪く定吉は、焦れるように呼んだ。
春陽は、まだ混乱しつつ返した。
「でも、でも……仮に父上に申し上げ、定吉、お前を私の側に置けたとしても、我等観月家はただ小さな社(やしろ)と小さな村を治めている辺境の一族に過ぎない。とても真清丸(ませいがん)とお前に見合うだけの報酬は出せはしない」
だが定吉は右口角だけ上げて、まるでそんな事か……と言わんばかりに微笑むと言った。
「春陽。俺は金はいらない。ただ、お前の側でお前を助けたい。お前の側にいさせてくれ」
しかし、春陽は定吉の顔を凝視した後、やはり首を横に振って呟いた。
「定吉、お前の言ってる事が分からない……私に懐かしい匂いがしたから私の側にいたいなんて、やはり曖昧過ぎる……しかも報酬はいらないなんて。報酬も貰わず、どうしてこんな危険な私にお前自ら関わる?」
春陽は眉間を寄せ、納得していない表情。
しかし、定吉がさっき言った「春陽に懐かしい匂いがしたから……」は嘘では無い。
そして、ただ続きの言葉があり、それを言ってないだけ。
定吉は、今ここで続きの言葉、そして、定吉が春陽に関わりたい本当の理由「懐かし匂いがしたから、春陽……お前が好きだ」「男同士だが、春陽を妻にしたいくらいに本当に愛しいと思っている」と本心を言ってしまいたかった。
しかし…
それを言えば春陽は、真清丸を飲まない上に定吉を遠ざけるだろう予感が定吉にはした。
何故なら…
あの朝霧の存在があるから。
だが、定吉には分かっていた。
春陽と朝霧にはまだ体の関係もないだろうし、互いの気持ちすらも交わしていないと。
そして春陽はまだ、春陽にとって朝霧が一体どんな立場なのかを決めかねていると。
しかし、春陽にとって朝霧は、今も特別な存在なのは間違い無かった。
そしてまずは、今度は定吉が春陽の特別な存在にならなければ春陽の恋情を得られないのだ。
定吉は、春陽の心と体を手に入れるには時間がかかる事を覚悟した。
定吉は、今は春陽への恋情を隠し「懐かしい匂い」の正体と春陽の側にいたい理由について話し出さなければならなかった。
定吉ならいくらでも適当な言葉を並べ、春陽を誤魔化し側にいる事を許可させる位出来たはずだが、定吉はそれをしなかった。
「春陽。俺は、這蛇(はいだ)の里にいた時も、這蛇の里を出てからもどう生きたらいいか……分からなかった。本当に分からなかった。散々暴れたり他の者を傷つけて、そうやって自暴自棄に生きてる内に、俺はどんどん大事なものを無くしていった。でも、春陽の顔を初めて見た時俺にはすぐ分かった。春陽には、俺がとうの昔に無くした大事なもの全てがあると。だから懐かしい匂いがするし、俺はお前には俺のようになって欲しくない」
定吉は跪いたまま、座り込み定吉を見詰める春陽の左頬に一度優しく触れた後話し続けた。
「俺は、春陽を守る事で俺の失った大切なものを取り返せると思っている。俺は真清丸(ませいがん)をお前の為に作り、ずっと曖昧に誤魔化してきた這蛇一族ともキッチリケリをつけてお前を守る事で人生をやり直したい。頼む、俺に、やり直す機会をくれ、春陽!」
定吉の声は力強かった。
春陽は、その言葉を確かめるように定吉をじっと見た。
「春陽……真清丸を飲め!俺を信じろ!そして、登城の話しを潰し銀髪の使者を追い返せ!」
定吉も、そんな春陽を見詰めながら再び強く言った。
春陽は単純に、定吉が今までの自分を悔い、春陽を救う事を定吉の生き直しのまず最初の小さなきっかけにしたいのだと取った。まさか、定吉が春陽に恋情を抱いているとは思いもしてない。
そして…
定吉の、閉じていた真清丸を二粒乗せた右手が再び開いた。
春陽はゆっくり上げた春陽の右手で二粒の真清丸を取ると、定吉の目を見ながら春陽の口に入れた。
定吉は、袴の腰紐で携帯していた竹筒を春陽に手渡した。
春陽がその中の水を飲むとゴクリと喉が鳴り、真清丸も同時に春陽の体の奥に入り込んだ。
「春陽…」
定吉は、片足で跪いたまま春陽をそっと抱き締め、よく飲んだなと褒めるように春陽の髪を何度も撫でてやった。
春陽は、両腕を下したまま定吉の胸に抱かれ目を閉じていた。
そしてそこに、定吉が春陽の耳元で囁いた。
「真清丸が効き、お前の角と牙が無くなるまでほんの少し時間がかかる。もう少し、もう少しの辛抱だからな。春陽…」
春陽は、久々に安堵の気持ちを抱いた。こんなに落ち着くのはどれ位ぶりか?
だがすぐに、こうしていられない現実を思い出し瞼を上げて言った。
「銀髪の使者が!早く屋敷に帰らないと!」
春陽は定吉の抱擁を解き、立ち上がろうとした。
すると…
定吉は、小柄で細身とは言え男の春陽を軽々抱き上げ、凄い速さで野山を走り出した。
「さっ!定吉!」
驚く春陽だったが、そんな春陽の口元に定吉の唇が近づき優しく言った。
「しっ……観月屋敷に向かってる。舌を噛むから喋るな」
春陽は定吉を信頼する事にし、大人しく定吉の逞しい腕の中に体を預けた。
巨体の定吉が男の春陽を抱きかかえ、野山の急な登り下りの斜面も、川すらも所々水面から出ている大きな岩を何個も踏んでは身軽に飛び越えて行く。
春陽は、定吉が本当に忍者で、それもかなりの能力者だと認識して圧倒された。
だが、その頃…
少し遠くに観月屋敷が見える小高い丘に「銀髪の使者」藍は馬に跨り、人に化けて本当に来ていた。
晴た日に吹く光風が、藍の長く美しい銀髪をサラサラと軽やかになびかせる。
連れていたのは、別の馬に乗る従者の若い武者一人。しかし、この若い男も普通の人間に見えるが、やはり藍と同じく淫魔だった。
藍達が予定よりかなり早くここまで辿りついたのは、勿論、藍の人ならざる力を使ったから。 藍と従者は淫魔の姿になり、藍の呼んだ巨大な魔獣の黒狼にそれぞれまたがり、人が踏み込むのが危険な険しい山々を軽く越え、ついさっき人間の姿に戻り馬に乗り替えたばかりだった。
「観月春陽……やっとお前に会えるぞ。散々登城を拒んで、この私に……ここまでお前を迎えに来させた大罪は、必ずやその体で受けてもらうからな…」
藍は、観月屋敷を眺めながら呟くと、ニッと嗤った。
同じ頃朝霧は、ほとんど飲み食いせずひたすら馬を駆り、時に危険な近道を通りながら幾つも山を越え春陽の元に急ぎ帰っていた。
(ハル!もうすぐ会える、もうすぐだ!)
朝霧も体力を擦り減らしボロボロだった。でも、どんなに返り血に塗れても、どんなに自分の犠牲を払っても、ただ春陽に会える事だけが、もうただそれのみが前へ進む原動力だった。
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