2-6.広がる噂話

 ──王女様がアインハルト様を気に入って、ずっと傍に置いている。──


 その話はあっという間に広まっていった。

 広まらないわけがないのだ。どこに行くにも、ノアが傍に居て、それが護衛というには随分と近い距離だというのだから。



「アリシア、一週間くらい仕事を休んだらどうだい?」

「え?」


 食事を終えて、自宅の居間でお茶を楽しんでいた時だった。

 心配そうな兄の声に顔を上げると、父も母も同じような眼差しをわたしに向けている。それが何を心配しているかなんてすぐに分かってしまって、わたしは眉を下げてしまった。


「お祖父様に会いに行くのはどうかしら。もちろん、私と一緒に」


 隣に座っていた母がポットを手にして、わたしのカップに紅茶を注いでくれる。カンパニュラの絵が描かれたガラスのポットに、お揃いのティーセット。

 紅茶を飲み干していた事にも気付かなかった。随分ぼんやりとしていたみたいで苦笑が漏れる。


「……大丈夫よ、あと数日だもの」


 そう、あと五日。

 もうすぐで外遊の日程も終わるから、ノアが護衛任務につく事もなくなるもの。だから……このもやもやとした嫉妬に付き合うのも、あと少し。


「兄さん達の耳にも届いていたのね」

「うん……まぁ、ね」

「どんな話を聞いているの?」


 ふと浮かんだ問いを口にすると、皆の顔が更に曇った。……わたしが知らないだけで、もしかしたら物凄い噂が広まっているのかもしれない。真偽は、ともかくとして。


「昨日は王家主催の夜会が開かれたが、王女殿下をエスコートしたのはアインハルト殿だそうだ」

「あなた!」


 低い声で父が言葉を紡ぐ。咎めるような母の声に、父は首を横に振って大きな溜息をついた。


「隠しても仕方がないだろう。いつかは耳に入る事だ」

「でも……」


 夜会でのエスコート。それは……護衛の仕事なの?

 何だか泣けてしまいそうで、紅茶のカップに視線を逃がした。綺麗な琥珀色で満ちたカップを両手に包み、ふぅふぅと吹き冷ます。もうそんなに熱くないのは分かっているけれど。

 

「……王女様は思い出が欲しいと泣かれたって。だから、この外遊さえ終わればきっと大丈夫よ」


 そう、思い出作りだ。

 だから大丈夫。ノアが王女様のところに行ってしまうなんて、ない。大丈夫。……大丈夫。


 そんな事を思いながら口にした言葉は、自分に言い聞かせているようで滑稽だった。


「何が思い出作りだか。大体、あの王女様は我儘なんだよ」

「クラウス」

「だって本当の事だろう。うちがそれでどれだけ迷惑を受けたか」


 苦々し気に兄が溜息をつく。そんな兄を咎めた父も、同意するかのように深く息を吐いた。

 そういえば使節団を迎えるにあたって、うちの商会からも色々納品したはずだけど……注文が多かったと言っていただろうか。


「こっちは注文通りに納品してるのにさ、王女様の気分次第で別のものを要求されて。そんな事の繰り返しで……出来れば僕はもう関わりたくないね!」

「他所で言うなよ」

「そんなバカな真似はしないよ。王女の我儘を許している周りもおかしいと思うけどね」


 王女様がそんな人だというなら、傍に居るノアは大変な思いをしているんじゃないかしら。

 もやもやする気持ちは消えないけれど、朝早くから夜遅くまでお仕事をしている彼の事を心配に思う。


「アリシア、あなたの言う通りあと数日よ。それを耐えたらいつもの日常が戻ってくるけれど……その数日も辛いものになるかもしれない。だからね、騒がしい王都を離れるのもひとつの選択肢なの。考えておいて頂戴ね」


 優雅な手付きでカップをソーサーに戻した母が、優しく微笑みかけてくれる。その声にまた何か込み上げてきてしまいそうで、紅茶を飲んで誤魔化した。



 仕事に行けばウェンディも気遣ってくれる。

 わたしの心に寄り添ってくれる。でも零したってどうにもならないこの気持ちは、わたしの中に抱えておく以外にないのだ。

 言っても解決する事ではないし、待っていたら過ぎ去るものなのだから。大丈夫、とわたしが言う度にウェンディの瞳が曇ってしまうのを分かっていたけれど。でもそれ以外に言葉が見つからなかった。


「アリシアちゃん」


 そんなもやもやとした気持ちに飲み込まれそうになっていた時、明るい声がわたしの名前を呼ぶ。

 返却された本を元の場所に戻す作業をしていたわたしは、掛けられた声に振り返った。そこにいたのは、にこにこと朗らかな笑みを浮かべるエマさんだった。


「エマさん。本を借りにきたの?」

「ええ、前にアリシアちゃんに勧めて貰った本の続きが気になっちゃって」

「あの恋愛小説ね。同じ作者さんの別シリーズもあるのよ」

「だめよ、今のお話を読み切ってからにしないと。時間がいくらあっても足りないわ」


 両手を挙げて肩を竦める様子に笑みが漏れた。

 お店の外で会ったって、エマさんはいつだって明るい。わたしの好きな笑顔で応じてくれて、彼女が居るだけでその場が華やぐようだった。


 でも、今は少し悲しい。

 エマさんを見ると、やっぱりあまりりす亭でノアと過ごした時間を思い出してしまうから。


 目の奥が熱くなるのを瞬きで逃がしていたら、エマさんが眉を下げた。

 わたしの肩をぽんぽんと叩いてから、腕時計を確認する。


「ね、今日のお昼休みって予定はある?」

「え? 特には……」

「じゃあ一緒にお昼ご飯を食べましょうよ。外に出られる?」

「ええ、それは大丈夫だけど」

「良かった。じゃあお昼に門の前で待ち合わせしましょ。じゃあ後でね~」


 エマさんは本を片手に、逆手で大きく手を振るとその場を去っていく。

 その賑やかさに救われて、また笑みが浮かんだ。


 お昼に外に出るのは久し振りだ。

 食堂に行くと耳にしたくない事も聞こえてしまうから、ちょうど良かったのかもしれない。

 目尻を指先で拭ってから、わたしはまた本を戻す作業へ戻った。ワゴンに積まれた本はまだまだ沢山あるのだもの。これを片付けて、その次は……。


 窓近くにある本棚に向かってワゴンを押していると、賑やかな声が聞こえてくる。何だろうと思って外を見ると、華やかな一団が図書館前の道を歩いているのが見えた。


 陽に透ける金髪が美しい、王女殿下。微笑みが向けられているのは、そのすぐ隣を歩む──ノア。

 絵画のように美しいその二人を見てしまって、胸の奥が苦しくなった。

 もう、見ている事なんて出来なかった。

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