番外編 春宵に、はじめての②

 悪戯に笑うノアの肩越しに、星が瞬いているのが見える。昇り始めた月は細く朧気だ。


「親友なのは分かってるが、そんなに熱視線を向けられると嫉妬するな」

「ふふ、なぁにそれ」


 肩を竦めたノアはわたしの手を取り、指を絡めるように手を繋ぐ。わたしよりも大きくて、わたしとは違う温度。それが重なっていく瞬間が好きだ。


「婚約者がここにいるのに、クレンベラー嬢しか見てねぇんだもんな」

「それで嫉妬? ウェンディが幸せそうで、何だか目が離せなくなっただけよ」

「幸せそうなのは同意。団長もとろけた顔してたしな」

「二人が幸せなら嬉しいわ。……あんたが嫉妬なんて口にするのは、予想外だったけれど」

「俺も自分が嫉妬深いとは知らなかった」


 茶化すような物言いに、思わず笑ってしまう。その言葉に鼓動が跳ねた事は心に隠して。

 肩を揺らしたノアと共に、星が輝く空の下を歩き始めた。風が温かく、春の訪れを感じさせる夜だった。



 歩調を合わせてくれるノアと、のんびりと歩く。見慣れた景色が楽しげに弾んで見えるのは、並んで歩く事に慣れた今も変わらない。


「そうだ、屋敷の改築は大体終わったぞ。今度の休みにでも見に行くか」

「図書室も完成した?」

「ああ。お前の希望通り、でっかい本棚も用意した」

「ありがとう。わたしとノアの好きな本でいっぱいになるのね。何だか素敵だわ」

「まずは『迷宮』だろ。あの作者の本を全て揃えて……」

「恋愛小説に冒険小説、お伽噺もね」


 バッグを肩に掛け直し、その手で揃えたい本を指折り数えるとノアが笑うのが分かった。


「お前は図書室に入り浸りになりそうだな。座り心地のいいソファーやテーブルも必要だな」

「ノアもでしょ? 二人で並んで座れるソファーがいいわ」


 ノアと二人で、並んで好きな本を読む。

 それを想像するだけで楽しくて、繋いでいる手をぎゅっと握った。

 

「本棚が足りるか怪しいな。先に追加しておいた方が良さそうだ」

「厳選しろって言わないの?」

「言わねぇよ。それだけ部屋も広く取ってあるからな」

「わたしに甘いんだから」

「俺の特権だろ」


 口端に笑みを浮かべたまま、長い指がわたしの耳を擽っていく。その指がイヤリングに触れると、雫型の宝石が揺れて金細工に触れる音がした。

 触れられた耳が熱い。その熱が顔に広がっていくのが自分でも分かる。


「赤いぞ。可愛い顔してんな」

「……そんなわたしを見られるのも、あんたの特権でしょ」


 ノアが不意に足を止めて、つられるようにわたしも立ち止まった。どうかしたかと問うよりも早く、身を屈めたノアの唇がわたしの唇に重なった。

 触れる唇が熱い。目を閉じる事も出来なくて、前髪の隙間から少しだけ見える紫色を見つめていた。


 ゆっくりと唇が離れていく。吐息が触れる。

 短い時間で、もしかしたらほんの刹那の事だったのかもしれない。だけどわたしの唇に熱を残していくには充分過ぎた。


 心臓が早鐘を打っている。まるで耳の横に心臓があるかのように騒がしい。胸の奥が苦しくて、切なくて、こんな疼きを感じるのは初めてで。

 何も言えずにいると、眼鏡を外したノアは掻き上げた前髪をそれでおさえた。


「……可愛い事言うお前が悪い。あー……婚前だがこれくらいは許してくれ。これでも結構、我慢はしてる」


 夕星の瞳が色を濃くしてわたしを見つめている。宵に輝く金星がわたしだけを映している。

 まだ体が熱くて、指先が震えているけれど……それは、決して嫌だったからではなくて。


「……バカね。ダメだなんて、言うわけないでしょ」


 小さく答えて笑うと、ノアがほっとしたように力を抜くのが分かった。緊張をしていたのはきっと、わたしだけではなくて。

 わたしは深呼吸をすると、繋いだままの手をそっと揺らした。


「でも、時と場所だけ選んで頂戴。人がいなかったからいいけれど、こんな往来で──」

「俺がそんな見誤りをすると思うか?」

「……随分と余裕ね」


 余裕めいた言葉に眉を寄せ、睨んで見せてもノアには効いていないようだ。機嫌良さげに口元を笑み綻ばせると、髪を下ろして眼鏡を掛け直す。


「そんな可愛い顔を見るのは、俺だけでいいからな」


 何を言っても、わたしが煽られるばかりだ。そう思ったわたしは大きく肩を竦めると、ノアの手を引いてまた歩き始めた。もう既に唇の熱を恋しく思いながら。



 繁華街が近付くと人通りも増える。

 賑やかな人の声が響く中でも耳に届くのは、川の音。それに気付いたわたしはノアへと顔を向けた。


「ねぇ、川の音が聞こえる」

「雪解けで水量が増えてるからな。危ないから近付くなよ」

「子どもじゃないんだから大丈夫よ。何だかこの音を聞くと、春が来たなって実感するのよね」


 道端にまだ残っている雪から生まれた水が、石畳を濡らしている。水溜まりになっている場所を避けながら、轟くような音に耳を澄ませた。

 

「分かる。この時期特有の音ではあるな」

「雨の後とはまた違うんだから不思議よね。やっと暖かくなって気持ちがいいわ」

「ホットワインはまた寒くなるまでお預けか」

「それはそれで寂しいんだけど」

「冷えたエールが旨い季節でもあるぞ」

「それは歓迎」


 顔を見合わせて、二人で可笑しそうに笑った。

 お酒で季節を感じるのも、わたし達らしいのかもしれない。


 今日はどんな美味しいものに出会えるのか。

 浮き足立つ心を移してか、わたしの足取りも軽い。そんなわたしに気付いてか、ノアがぎゅっと手を握ってくる。応えるようにわたしからも力を込めた。


「お腹空いちゃった」

「俺も。今度また、珍しい酒でも頼むか」

「ウーゾみたいな?」

「そう。飲んだ事のない珍しいやつ」

「いいわね。お気に入りが見つかるかもしれないもの」


 そんな話をしながら小路を進む。

 すれ違う人は既に酔っているようで赤ら顔だ。肩を組みながら歩く様子は何とも楽しそうだった。


 雪解け水に濡れたみちに、映る灯りは今日も優しい。

 ノアがあまりりす亭のドアを大きく開くと、美味しい匂いが溢れてくるようだった。

 

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