4.食事処あまりりす亭
フェリクス・トストマンに書いてもらった書状──わたしを蔑ろにしている事実──を持ってブルーム商会本社に飛び込むと、父も兄も何事かと眉を寄せた。
しかしわたしの手にしている書状を確認するや否や、「でかした!」と大騒ぎになったのである。既に準備がされていた婚約解消の手続きを、迅速に進めてくれるという力強い言葉まで貰ったわたしは、安心して家に帰ったのだった。
帰宅して、お昼寝して、夕飯は外で食べると言って出掛けた夕方。
わたしの目的地は、飲食街の外れにある小路を進んだ先の一軒。
小さな灯りに照らされた『食事処あまりりす亭』の看板。暖かな灯火にどこかほっとしながら、わたしは横開きの扉を開けて中に入った。
「いらっしゃい。あら、アリシアちゃん」
「こんばんは」
カウンターの中から声を掛けてくれるのは、あまりりす亭の女将さんであるエマさんである。深い青髪を高い場所でひとつにまとめていて、髪に載せられた大輪花の髪飾りがよく似合っている。
あまりりす亭は小さなお店で、二人掛けのテーブル席が二つ。カウンター席が四つ。最大でも八人しか入れないが、半分ほど埋まるとエマさんが空いた席を片付けてしまう。エマさん曰く「忙しいのは好きじゃない」そうだ。
今日もテーブル席は空いていて、カウンター席には一人だけ。その一人はわたしの姿を見ると、自分の隣の椅子を遠ざけてくれる。エマさんが慣れた様子で端の椅子を片付けて……わたしは遠ざけられた椅子に座った。空いた距離はちょうど椅子ひとつ分。
「久しぶりね、ノア。忙しかったの?」
「それなりにな。お前は随分と機嫌が良いみてぇだけど」
彼はわたしの飲み友達のノア。
このお店で知り合って、このお店でしか会わない。ノアという名前が本当なのかも、何をしているのかもしれないけれど、それでいいのだと思っている。
ノアは鼻先まで隠れるくらいに前髪を伸ばしていて、その表情はよく見えない。緩くウェーブのかかった黒髪は全体的にもっさりとして見える。
それに加えて黒縁の大きな眼鏡をしているから、それで余計に顔が分からない。
いつもゆるっとしたセーターにズボンと、清潔だけれど見た目に頓着はしないようだ。
「そうなの、すっごくいい事があったのよ」
コートを脱いで椅子の背に掛けながら、わたしの顔は喜色に満ちていたことだろう。
「へぇ?」
「婚約が解消になったの」
「……は?」
わたしの言葉に驚いているのは、ノアだけではないようだった。わたしの前にエールで満たされたジョッキを置くエマさんも、その奥で調理に励むいつもは無表情のマスターも驚いたように目を丸くしている。
「……待て待て、婚約解消がすっごくいい事? お前、正気か? 婚約解消されて気が触れたか?」
「ひどい言い種ね。婚約解消はわたしも望んでいた事だから、すっごくいい事で間違いないでしょ。手続きをしたばかりだけど、すぐに認められるはずよ」
「いや、だってお前……婚約したのってつい半年くらい前の事だろうが」
「よく覚えていたわね。あと半年で挙式だったから間に合ってよかったわ」
ノアは怪訝そうに首を傾げながらジョッキをわたしに向けて掲げてくる。わたしもジョッキを手に持つと、ノアと同じように掲げてから一気に呷った。
あー! 美味しい!
半分程を一気に飲むと、カウンターの向こうでエマさんがにっこりと笑っている。
「アリシアちゃんが喜んでいるならいいんだけど。今日は何にする?」
「おすすめで!」
「はい、かしこまりました」
エマさんがマスターを振り返ると、マスターが小さく頷いている。寡黙だけれどエマさんを溺愛しているマスターの瞳は今日も優しい。
「で、なんだって婚約解消になったんだ?」
「相手が浮気してたのよ」
「……そりゃ大変だったな」
気まずそうにノアが言葉に詰まるものだから、わたしは思わず笑ってしまった。
「いいのよ。そのお陰で婚約解消出来るんだから。まぁ、浮気をした相手の方が『婚約を破棄する!』なんて偉そうに言ったのは腹立たしかったけど? なにが破棄する、よ。どっちに原因があるかなんて考えなくても分かるでしょうに、破棄を突きつけたいのはわたしの方だってのよ」
「お前めちゃくちゃ怒ってんじゃねぇか」
苦笑いするノアに、確かにとばかりにわたしは大きく頷いた。
そうだ、婚約解消出来る喜びばかりが先走っていたけれど、正直なところ滅茶苦茶腹が立っている。裏切られた悲しみ……とは違って、どうして向こうが破棄が何だと偉そうなのか。貴族の身分を鼻にかけて平民を馬鹿にして。捨てられた女みたいにわたしを見るのが許せなかった。
「本当だったら婚約を解消するってうちの方から話を持っていきたかったくらいなのよ。まぁ今日はその話をうちから持っていっているから、相手方の家としては婚約解消を突きつけられた形になるんだろうけど? でも当事者は自分が悪いなんて微塵も思っていないんだからもうふざけんなって話よ」
「落ち着け」
一気に捲し立てたわたしは半分程残っているエールを一気に呷った。空になったジョッキをカウンターに置くと、笑いながらエマさんがおかわりを用意してくれる。
エールで満たされたジョッキと一緒にわたしの前に置かれたのは、トマトソースで煮込まれたロールキャベツだった。綺麗な赤色にパセリの緑、生クリームの白が色鮮やかで食欲をそそる。
小皿には空豆を炒めたおつまみ、パプリカのマリネ。
手を組んで感謝の祈りを捧げたわたしは早速とばかりにフォークを手にした。
「うまそう。エマさん、俺にもロールキャベツちょうだい」
「はーい」
ノアが注文するのを耳にしながら、わたしはフォークでロールキャベツを切り分けた。溢れる肉汁がトマトソースに吸い込まれていく。柔らかなキャベツは崩れやすいけれど、なんとかお肉と一緒にフォークに乗せると、トマトソースをたっぷりと添えて口に運んだ。
「んんんんん! 美味しい!」
あまりの美味しさに体が震えてしまう。キャベツの甘みとお肉のジューシーさをトマトソースが包み込んでいる。これはエールに合うわ。
もう一口、と切り分けているとノアが低く笑ったのが聞こえた。どうかしたのかとそちらを見ると、薄い唇が弧を描いている。
「……まぁ食えるのはいいことだ」
「婚約解消のショックで食べられなくなると思ってた?」
「婚約解消っつーか、蔑ろにされていた苛立ちかな」
「それはあるけれど、そのせいで美味しいものを食べ損ねるのは馬鹿らしいわ」
「お前ってやつは……。いやお前らしいっていうか、いいや。今日は俺が奢ってやる。好きなだけ飲み食いしていいぜ」
「やった。エマさん、高いものばんばん持ってきて」
「お前なぁ」
可笑しそうに笑うノアの様子に、わたしも笑った。
楽しいのに、腹立たしいのと少し苦しいのは胸の奥に残っているようで、それをエールで流し込んだ。
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