2
新宿御苑の北側にその入り口は有った。とは言うものの、御苑の名残を留めるのは行政区分上の町内名だけだ。かつては鬱蒼と茂る広大な緑に覆われ、都民の憩いの場として親しまれていたココも、今となっては交差点脇にポツンと佇む排ガスに煤けた石碑しか残っていない。その石碑も人々から顧みられることは無く、誰の視界においてもその存在を主張しない風景の一部と化していた。大都会東京の一等地にそのような緑のエリアが有ったことなど、もう人々の記憶からは消え去って久しく、人々は人間の身体を侵食するがん細胞のように徐々にその活動域を拡大していった。いや、拡大したと言うよりも、限られたエリア内に残る
このエリアに降り注いだ雨が浸み込む為の地面などは何処にも存在せず、雨水は効率的に集約され、計画的に整備された排水口と吸い込まれてゆく。土壌への浸透という自然の摂理は、この街が必要とする処理速度の下限スペックにすら追従し切れず、「生産性」の御旗の下に絶滅したわけだ。一方で、そうして集められる雨水・廃水がこの街の下水処理能力の拡充を余儀なくさせたのは必然で、東京の地下には途方もない規模の下水道ネットが構築されていた。ビルの地階や地下商店街、地下鉄が構築されている層の更に下にその地下世界は存在し、特に新宿や渋谷、池袋といった主要な町の地中では、それが三次元的な広がりを見せていた。その
「詳しいんですね、主任」
「別に詳しくなんてないさ。若い頃、捜査でこの辺をうろついていた時期が有ってね。それで知ってるだけだよ」
「私もこの辺りは知らないわけじゃないんですけどねぇ・・・ まさかこんな所に奈落への入口が有るとは知りませんでしたよ。多分、視界に入っていてもそれと認識しないから記憶にも残らなかったんでしょうけど」
街の一角に立つそれは小さな公衆トイレの様な直方体で、コンクリートで固められた壁には窓の一つも無い。無機的な街並みに溶け込んでいると言えば言えなくもないが、その武骨な佇まいは、ある種の異様さを発散している。二人は区役所の下水道管理局から借り受けている鍵を用いて、その入り口を封鎖している鉄扉を開いた。普段から頻繁に使われているわけではないそれは、ギシギシと不快な音と共に、しぶしぶの体で僅かに中を覗かせるのだった。
「この中の事に関しても、主任はご存じなんですか?」
松尾の質問に対し、須藤は気乗りのしない様子で応えた。
「少しね。昔、下水道の中に麻薬やら拳銃やらを隠してた
直射日光により容赦なく炙られたコンクリートの箱の中に足を踏み入れると、その内部は湿度の高さと相まってサウナの様な状態だ。須藤は肌に纏わり付く不快で淀んだ空気を振り払うように「んんっ」と唸りながら、ドアの脇にあるスイッチを押した。パチパチと瞬いた蛍光灯は気怠そうに点灯し、この箱の中にある更に下へと続く階段を照らし出した。コンクリート打ちっ放しの床に穿かれた四角い穴は、剥げかかったクリーム色の塗装がなされた錆びた手摺を伴い、別世界へ続くトンネルのように無言で口を開いていた。須藤がふと隣を見ると、おぼつかない照明に浮かび上がる松尾の横顔に、噴き出る汗と共に緊張が張り付いているのが判った。
「じゃぁ、行くか」
「はい」
須藤が先に立って、二人は階段を下り始めた。
「こういった
カツンカツンという金属的な音を響かせ、階段を降りながら須藤が言うと、松尾がブルリと身体を震わせて受けた。
「そんな所をねぐらにしてるなんてゾッとしませんね。変な病気とかが蔓延したりはしないんでしょうか? ドブネズミとか居そうだし・・・」
松尾が身体を震わせたのは、そういった不衛生な環境に対する嫌悪感によるものではなく、地下へと進むに従い劇的に低下する気温のせいであった。地上の酷暑が嘘かと思えるほど地下は冷涼で、肌にベットリと張り付いたブラウスから失われる気化熱によって、彼女の体温が必要以上に奪われたのだ。須藤もやっと引いた汗に安堵するかのような表情で応えた。
「場所によってはそういう衛生面の問題も有るかもな。でも連中だって馬鹿じゃない。そういう所には近づかないように、賢く振舞ってるんじゃないのかな。でなきゃあいつらは、とっくに絶滅してるだろ?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます