トーキョー・チルドレン

大谷寺 光

20ⅩⅩ年 夏

 何処かから蝉の声が聞こえた。このコンクリートとアスファルトで埋め尽くされた都会に、ほんの申し訳程度に植えられた名前も知らない樹木のどれかに、そいつは張り付いているのだろうか? ゆらゆらと揺らめく蜃気楼のように、焼け付いたアスファルトから立ち昇る熱気が空気を歪め、目の前を行き交う人々があやふやな形となって彷徨う亡霊の様だ。大気中に潜む湿気が飽和点を越え、ジワジワと自分の肌の上で凝集している様な気がして、なんだか無性に腹が立つ。渋滞に苛立つドライバーがおよそ生産的とは思えぬクラクションを鳴らし続け、霞む意識に頭痛を引き起こす。

 見上げた先の巨大スクリーンでは、軽薄な笑顔で己の本性を覆い隠せると信じて疑わない類の女性アナウンサーが、頭の薄くなった男相手に話をしている。男の額から噴き出る汗が、観ている者を不快の淵に引き摺り込もうとしているかのようだ。

 『・・・という事は、太平洋川沿岸部への津波の襲来は無いという事なんでしょうか?』

 『おっしゃる通りです。この令和海底新山は ──正式にはデ・ブール海底火山と言いますが── 小笠原諸島の南三〇〇キロメートル。マリアナ海溝の太平洋プレート側の淵、つまり約四八〇〇メートルの深海に噴火口を持っていることが判っています。元来その辺りは火山活動の活発な領域で、今回の活動が取り立てて危険だという要素は、全く無いと言っても差し支えないのです・・・』

 そんな人や車や街が絶え間なく垂れ流すノイズに紛れて、確かに蝉の鳴き声が聞こえたような気がした。須藤はハンカチを取り出し、額から滝のように噴き出す汗を拭った。


 たった一匹で?


 こんな街でそいつはパートナーに巡り合えるのだろうか? 鳴き声が届かなければ、雄と雌が出会うことすら難しいだろうに。誰にも届かない声を上げるって、どんな気分だ? 命の限り鳴き続けることで、お前が得る物っていったい何なんだ? 子供の頃に読んだ本によれば蝉は十数年もの間、土の中で幼虫として過ごし、その後に地上に出て成虫になるという。そして、たかだか一週間ほどの地上生活を謳歌して命尽きると。おそらく、これはあくまでもおそらくだが、あの蝉がこの世に生を受けた十年以上前にはこの街にも蝉が沢山いて、きっと雄と雌が出会うことも容易たやすかったに違いない。ところが、奴が地中で平和な眠りを貪っている間に、時代はかつて無い速度で変貌を遂げた。だが、そんな事などあずかり知らぬミスター蝉くんが ──おっと失礼。ひょっとしたらミス蝉ちゃんかもしれないな── やっとの思いで地上に這い出してみればどうだ? 地面という地面は、昆虫の如き非力な生物には打ち破ることも叶わぬ人工物で塗り固められ、自分以外の仲間達は地上の光を浴びることも無く窒息死だ。

 彼方では売女と禿げオヤジの乳繰り合いが続いている。

 『・・・ただ、これまでの海底火山とは大きく異なる特徴が一つあります。それは、その噴火口近くから大量の熱水を放出し続けているという点なのです』

 『熱水ですか? それはつまり、どういう事なのでしょうか?』

 『火山の多くは、マグマ溜まりの周辺に熱せられた水タンクの様なものを持っています。イエローストン国立公園の間欠泉などをご覧になったことが有る方も多いのではないでしょうか。それは海底火山においても全く同様で、今回発見された火山は、海底で大量の熱水を噴出していることが確認されたのです。おそらく、周辺の海水温度を上昇させるほどの威力を持ち、その影響が地球規模で現れるのではないかと懸念されています』

 『つまり海洋生物など生態系への影響が懸念される、ということですね。それは心配です』

 『それだけではありません。海水温の上昇が異常気象などの引き金になる可能性も指摘されています』


 ケッ、下らない。


 このくそ暑い時期の真っ昼間に、誰がすき好んで火山の心配なんかするか。異常気象が叫ばれて久しいが、この東京の夏だけは桁違いに灼熱化している様に感じるのは、その海底火山のせいだとでも言うのか? 確かに自分が子供の頃は、少なくとも朝夕はひんやりとした空気が街を覆っていた様な気がする。だが今では、文字通り朝からうだるような暑さだ。それもこれも二十四時間フル稼働するエアコンの室外機が放出する熱気で、街中が蒸し風呂の様な状態なのだから、ひんやりとした空気などという物の入り込む余地など何処にも有るはずが無いじゃないか。それが海底火山のせいだと? バカバカしいにも程が有る。

 須藤は絞れば汗が滴りそうなハンカチを、今度は首筋に走らせた。もう殆ど、汗を拭うという機能は失われているようだ。額から流れ落ちた汗が目に入り、彼は顔をしかめる。


 また蝉の声が・・・


 いつしか周りの風景はドロンと溶け出し、水中で目を開けた時のように色味を失ったモノトーンの世界に移行した。ポコポコという気泡の奏でる音が、やたら大きく響く。時間の流れすらも、ゆっくりに変わったようだ。巨大スクリーンからはくぐもった会話が聞こえ、子供の頃に友達とプールに潜って遊んだ頃のことが思い起こされた。そのぼやけたスクリーンの中では、年増のクソババァがエロオヤジの股間に腕を伸ばした様に見えた。

 『・・・元々このデ・ブール海底火山は、1960年代にハワイ大学の海洋生物調査隊が発見したものだそうですね?』

 それを受けたエロオヤジは、遂に年増の襟首に腕を突っ込み、胸を揉みだした。

 『その通りです。発見当初はこれといった活動もしていない上に周辺火山との連動も観察されず、海底火山の痕跡、つまり死火山だと思われていましたが、今世紀に入って西側斜面からの噴火によって大きく盛り上がり、高さで言うと倍くらいに成長し・・・』

 二人ともカメラから目を逸らさず平気な顔をしているのに、やっていることは動物のようだ。遂に臙脂色のスーツを着た年増は自らその胸元をはだけ、エロオヤジの禿げ頭を自分の胸に抱え込んだ。豊満で歳に似合わぬ張りのある乳房のお陰でオヤジは窒息寸前だ。

 『発見した当人達は、百年後にそれが太平洋の海水温を上げる程の活動を再開するとは思ってもみなかったのでしょうね』

 カメラ目線のまま冷静なコメントで話を繋ぐ年増に、エロオヤジの反撃が始まった。彼は年増のスカートをたくし上げると、姿を現した淫猥な下着をむしり取る。そして自分のスラックスも脱ぎ捨てて女を大股開きにし、いきり立った貧相なペニスをその股間に突き立てた。

 『全くです。今の時代に生きている我々は、この海底火山の影響を注意深く観察し続ける責任が有りますね』

 苦悶にも似た表情で年増が声を上げた・・・ かに見えたが、女の表情は全く動じていない。ただ、エロオヤジの腰の動きに併せ、その内なる興奮は次第にトーンを上げて激しくなっていくのが判る。彼女が昇り詰めようとしているのは明らかだ。

 『本日は東京大学、地震科学研究所の大橋教授にお越し頂き、詳しくお話を伺いました。大橋先生、本日は有難うございました』

 オヤジはカメラを見据えたまま卑猥に腰を振り続け、荒くなった鼻息の合間に女の呻き声が聞こえてきそうだ。オヤジが身体を動かす度に、額に浮き出た汗が年増の胸元に滴り落ちる。彼ももう果てそうだ。

 『こちらこそ、有難うございました』

 そして最後に二人が同時にイッた。年増は大きく身体をのけ反らせ、最後は痙攣するように身体を震わせた。エロオヤジは地獄の生き物が断末魔の咆哮を上げるかのような姿勢で動きを止めたかと思うと、糸を切られた操り人形のように年増の胸の中へと落ちて行った。ただし、それでもカメラから目を逸らすことは無かった。年増はオヤジの薄くなった頭を抱えながら、能面の様な顔のままテレビカメラに向かった。

 『この海底火山が我々に与える影響は計り知れません。この地球という星が、これまでとは違った表情を見せ始めるかもしれないのです。皆さんも仕事の合間に、チョッとだけ太平洋の底に思いを馳せてみては如何でしょうか』

 その瞬間、自分を取り巻く雑踏の奏でる騒音が一気に溢れ出した。須藤は今まで自分が水中の静寂に身を置いていたことを、この時初めて知った。風景が再び動き出し、歩みを遅らせていた時間が再び正確な時を刻み始めたかのようだ。足を止めていたゾンビ達は、何事も無かったかのようにフラフラと歩き始めた。尾を引く長い、そして無意味なクラクションは、まだ鳴り響いているようだ。

 気が付くと、女性アナウンサーと教授とやらが、デスクの向こうからカメラに向かってにこやかに微笑んでいた。


 クソッ・・・ 何が海底火山だ。


 目に入った汗を絞り出すと、須藤は軽く頭を振った。暑さのあまり頭がぼうっとして、白昼夢でも見ていたのだろうか? 「しっかりしろ。事件はまだ解決していないんだぞ」と自分自身を叱咤すると、青に変わった信号に併せて横断歩道を渡ろうと足を踏み出した。捜査は足でするもの。そう先輩から教わった。刑事としてのいろはの「い」である。今時、そんな捜査は無かろうと思っていた須藤であったが、刑事課に配属されてその泥臭い仕事に忙殺されるうち、そのいろはは彼の体に染みついていった。踵の擦り減った靴がポクリと間抜けな音を出した。「そろそろ、この靴もお払い箱か」そう思った時、またしても蝉の声が聞こえた気がした。

 立ち止まって振り返る須藤。その視界に映るものは、相変わらず四角いコンクリートの箱の狭間をぬって彷徨う亡霊達であり、その耳に届くものは、雑多な音が重なり合って出来る騒音の壁でしかなかった。その事実を突き付けられて、再び腹立たしい気持ちがぶり返した。

 須藤は思った。大人しく土の中に隠れていれば良いものを。お前らが地上に出ても、何もいいことなど無いんだぞ。哀れみにも似た感情を飲み込むと、踵を返して歩き出す。点滅を始めた信号に背中を押されるように、須藤は小走りに横断歩道を渡った。渡り切って再び歩き始めたその後姿は、揺らめく亡霊達の雑踏に飲み込まれ、歌舞伎町の街並みに溶け込んで見えなくなった。

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