第82話 六枚の花びら

 先に動いたのは朧軍ろうぐんだった。

『徐』の旗を掲げた軍が景庸関前の砦から出て来たのだ。その数およそ5千。砦の中にはまだ幾らか兵が控えているだろう。

 外に出て来た数百騎の騎兵と4千近い歩兵はときの声を上げかなり士気は高そうだ。

 朧軍は砦の前に展開すると6つの方陣と1つの円陣を作り始めた。


 一方の閻軍えんぐんは、当初の予定通り楽衛がくえいの3千の軍を出陣させ、大きな円陣を作らせて待機させている。

 その背後には張雄ちょうゆうの5千が、こちらは方陣を5つ作って布陣している。

 そして楽衛の円陣の左右両翼には、陳軫ちんしん馬寧ばねいの軍それぞれ1万ずつが布陣し鉄壁の守りを築いている。


 軍師・瀬崎宵せざきよいは馬に跨り、副官・鄧平とうへいと5百の兵をを引き連れ、張雄の軍の北8里 (3.2km)の小高い丘の上に布陣し戦場の様子を自らの目で確認していた。

 この位置からなら朧軍の動きも閻軍の動きも同時に確認出来る。

 ここ最近の曇り空が嘘のように晴れ渡り、兵士達へ日差しが燦々と降り注ぐ。


「軍師殿。敵は我々が廖班りょうはん将軍の喪に服していた期間が過ぎても中々攻撃して来ませんでしたね。だいぶ慎重な動きをしています」


「そうですね。鄧平殿。朧軍は冷静な指揮官が多いのでしょう。向こうにも軍師が居るようですしね。でもその冷静さが仇となり、敵は唯一の好機を逃しました」


「如何にも。お陰で我々は万全の態勢を整えられました」


 宵の隣で冷静に自己分析を話す鄧平という男。

 冷静でありながら、その手には重そうな方天戟ほうてんげきが握られていて文武両道の武人といった雰囲気を放っている。宵の護衛としての安心感は、細くて小さな姜美きょうめいとは比べ物にならない。

 しかし、そんな有能そうな副官・鄧平にも他とは変わった所……というか、宵が苦手とする所がある。


「軍師殿の当初の想定では、砦の朧軍を誘き出して撃つ、というものでしたが、その手間が省けましたな。敵が砦から出て来ても出て来なくても、全ての状況に対応出来る策を練られるとは、流石は軍師殿」


「ありがとうございま──」


「そしてその聡明な頭脳とついを成すその美貌。天は二物を与えずと言いますがそんな事はなかった。本当に美しい」


 これである。

 宵は笑顔を作ってぺこりと鄧平へお辞儀をすると、すぐに戦場へと視線を戻す。

 鄧平が副官になってからというもの、側近のようにいつも行動を共にし、身の回りの世話まで焼いてくれるようになった。

 初めは凄く良い人だと思ったが、事ある毎に宵の容姿を褒めたり、身体に触れてくるので下心で近付いているのだと分かった。

 身体に触れると言っても、手や肩に触れるくらいなので宵は何も言わないが、流石に少し警戒をするようになった。

 ただ、それ以外は軍人としても人としても完璧で姜美が居ない軍でも宵は不自由なくやって来れていたので文句は言わない。文句は言わないが減り張りは付けねばならない。


「鄧平殿。ここは戦場です。私への褒め言葉は策が成った時だけにしてください。容姿について褒める必要はありません」


「はっ! 失礼致しました!」


「それに、あらゆる状況を想定して策を練るのは当然の事です。『算多きは勝ち、算少なきは敗る』」


「はっ! 肝に銘じます!」


 注意すれば素直に従う。そういう所を見るとやはり悪い人ではないのだと思う。


「ところで軍師殿。砦から出て来た軍の指揮官は徐畢じょひつのようですが、6つは方陣なのに、1つだけ円陣なのはどういう意味があるのでしょう?」


 鄧平が訊ねたが、宵は敵の陣形を注視していて聴こえていない。

 6つの方陣と1つの円陣。その陣形には思い当たる所がある。今はまだ方陣6つが前方にあり、円陣が後方にあるが、それはまだ変形の途中の筈。


 と、その時──


「動いた! ……やっぱり」


 宵の予想通り円陣は前進し、方陣は円陣を囲むように移動。

 6つの方陣が1つの円陣を中央に囲んだ状態で止まった。


「軍師殿? おーい、軍師殿?」


「え? あ、はい、何でしょう?」


 ようやく鄧平に呼ばれていた事に気付き宵は小首を傾げる。


「集中されてるお顔も可愛らしい」


「んん?」


 宵はムッとして羽扇で鄧平の頭を叩いた。鳥の羽根なので兜を被った鄧平にはダメージはない。ただ鄧平は嬉しそうにニヤリと微笑んだ。


「すみません。つい本音が……えーと、あの陣形は何なのでしょう?」


「あれは『六花ろっかの陣』。6つの方陣が円陣を中心に6枚の花びらに見える事からそう呼ばれています」


「綺麗な名前ですね。まるで軍師殿の──」


張雄ちょうゆう殿に伝令を!」


 鄧平の話を遮り宵は伝令の兵を呼ぶ。

 駆け付けた兵士に宵は指示を伝えるとすぐに馬で駆けさせた。

 その後ろ姿を見送りながら宵は羽扇で顔を扇ぐ。

 日が高くなっていた。徐々に気温も上がっている。今のところ、風はまるで吹いていない。



 ***


 朧軍~前線・砦~



春華しゅんかちゃん、貴女はこの砦まで来なくて良かったのに」


 景庸関けいようかんの前の最前線である砦の防壁の上で、厳島光世いつくしまみつよは無理やりついて来た下女の清春華せいしゅんかに言った。


「いえ。光世様のお世話をする事がわたくしの仕事ですので。それに、光世様がずっと離れるなと仰ったのですよ?」


「ああ、それはさ、私が春華ちゃんをえんの間諜かもしれないって疑ってたから……でも、今はもう疑ってないからその命令は取り消し。今からでも景庸関へ戻りな? ここは危ないからさ」


「光世様が戻られるなら戻りますが、ここにいらっしゃる限りわたくしも戻りません。光世様のお世話は誰がするのですか? 砦にいる兵士に身の回りのお世話をさせるおつもりですか?」


 近くにいた兵士達や砦の守備を任されている校尉の夏候譲かこうじょうが気まずそうな顔で光世から顔を逸らす。

 何を言っても譲らない清春華に光世は溜息をついて歩み寄る。


「まったくもう。頑固な娘だなぁ。身の回りの事くらい自分で何とかするよ。でも、そこまで気遣ってくれるなら、ここに居る事を許可してあげよう」


「ありがとうございます! 光世様!」


 元気で純粋無垢な清春華。その存在が、いつの間にか心の折れかけた光世の支えになっている事を光世自身気付き始めていた。


「それにしても見事な陣形ですな。軍師殿。前回の八門金鎖はちもんきんさといい、此度の六花ろっかの陣といい、我々が見た事もない陣形をこうも容易く戦闘に取り入れるとは」


 光世と清春華の話が終わったのを見計らって、夏候譲が言った。

 光世は目を閉じ静かに唇に人差し指を当てる。


「『ほうに生じ、えんに生ず。方はその歩をする所以ゆえん、円はそのせんつづ所以ゆえんなり。ここをもっ歩数地ほすうちに定まり、行綴天こうていてんに応ずる。歩定まりてい等しければ、すなわち変化乱れず』……だったかな?」


 目を開いた光世はニコリと笑い首を傾げる。

 何を言っているのか理解出来ない夏候譲は目を丸くし口を開けたまま固まっている。

 それに対し、何故か清春華だけは言葉の意味を理解したのか、それとも他の理由なのか光世には分からないが、口を押え戦々恐々としていた。


「どういう意味でしょうか? 軍師殿。恐れながら、私にも分かるようご説明頂けると助かります」


 フサフサとした黒い顎髭を撫でながら夏候譲が言った。


「まあ要するに、6つの方陣は歩行を正し、真ん中の円陣は循環を連続させる。これによって敵のどんな攻撃にも臨機応変な対応が出来るんです……」


 最後だけ自身なさげに「理論上は」と付け加える光世。しかし、夏候譲は嬉しそうに防壁の手すりを叩いた。


「素晴らしい! そのような陣形、負ける筈がない!」


「素晴らしい……のは、六花の陣を考案した私の故郷の方の名将・李靖りせいさんと、ちょっと教えただけで形にしちゃった徐畢将軍ですけどね……でもまあ、八門金鎖みたいな理論とか無いまやかしの陣形よりは格段に使える筈ですから、今度こそ負けない筈です!」


 光世は胸の前で拳を握り締めて答えた。

 すると、視界の端に浮かない顔をする清春華の姿が移った。


「どしたの? 春華ちゃん?」


「い、いえ、何でも……」


「ふーん……」


 明らかに様子がおかしい清春華に光世の中の消えかけていた疑念が再び芽生える。


「む! 軍師殿! 閻軍が出て来ました! ……あれは、張雄の部隊です!」


 夏候譲の指差す方を光世は慌てて見る。

 確かに閻軍の楽衛の円陣の横を通って、後衛の張雄の騎兵が勢い良く飛び出して来ていた。

 そして徐畢じょひつの六花の陣の周りをクルクルと回り始めたかと思うと、今度は方陣の1つに突撃を仕掛けた。

 ──が、張雄の部隊は二三度突撃を仕掛けると、また六花の陣の周りを1周回った後、颯爽と楽衛の円陣の後ろに後退していった。


「アイツぅぅ!!!」


 光世は手すりを両手で叩き吼える。清春華や夏候譲、そして周りの兵士達が一斉に光世を見る。

 六花の陣にはほぼ被害はなさそうで陣形も崩れてはいない。だが、張雄の行動の意味を光世は理解していた。


「やるじゃない、閻の軍師ちゃん。でも今度は抜かせないから」


 光世は闘志を燃え上がらせてそう呟いた。

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