第82話 六枚の花びら
先に動いたのは
『徐』の旗を掲げた軍が景庸関前の砦から出て来たのだ。その数およそ5千。砦の中にはまだ幾らか兵が控えているだろう。
外に出て来た数百騎の騎兵と4千近い歩兵は
朧軍は砦の前に展開すると6つの方陣と1つの円陣を作り始めた。
一方の
その背後には
そして楽衛の円陣の左右両翼には、
軍師・
この位置からなら朧軍の動きも閻軍の動きも同時に確認出来る。
ここ最近の曇り空が嘘のように晴れ渡り、兵士達へ日差しが燦々と降り注ぐ。
「軍師殿。敵は我々が
「そうですね。鄧平殿。朧軍は冷静な指揮官が多いのでしょう。向こうにも軍師が居るようですしね。でもその冷静さが仇となり、敵は唯一の好機を逃しました」
「如何にも。お陰で我々は万全の態勢を整えられました」
宵の隣で冷静に自己分析を話す鄧平という男。
冷静でありながら、その手には重そうな
しかし、そんな有能そうな副官・鄧平にも他とは変わった所……というか、宵が苦手とする所がある。
「軍師殿の当初の想定では、砦の朧軍を誘き出して撃つ、というものでしたが、その手間が省けましたな。敵が砦から出て来ても出て来なくても、全ての状況に対応出来る策を練られるとは、流石は軍師殿」
「ありがとうございま──」
「そしてその聡明な頭脳と
これである。
宵は笑顔を作ってぺこりと鄧平へお辞儀をすると、すぐに戦場へと視線を戻す。
鄧平が副官になってからというもの、側近のようにいつも行動を共にし、身の回りの世話まで焼いてくれるようになった。
初めは凄く良い人だと思ったが、事ある毎に宵の容姿を褒めたり、身体に触れてくるので下心で近付いているのだと分かった。
身体に触れると言っても、手や肩に触れるくらいなので宵は何も言わないが、流石に少し警戒をするようになった。
ただ、それ以外は軍人としても人としても完璧で姜美が居ない軍でも宵は不自由なくやって来れていたので文句は言わない。文句は言わないが減り張りは付けねばならない。
「鄧平殿。ここは戦場です。私への褒め言葉は策が成った時だけにしてください。容姿について褒める必要はありません」
「はっ! 失礼致しました!」
「それに、あらゆる状況を想定して策を練るのは当然の事です。『算多きは勝ち、算少なきは敗る』」
「はっ! 肝に銘じます!」
注意すれば素直に従う。そういう所を見るとやはり悪い人ではないのだと思う。
「ところで軍師殿。砦から出て来た軍の指揮官は
鄧平が訊ねたが、宵は敵の陣形を注視していて聴こえていない。
6つの方陣と1つの円陣。その陣形には思い当たる所がある。今はまだ方陣6つが前方にあり、円陣が後方にあるが、それはまだ変形の途中の筈。
と、その時──
「動いた! ……やっぱり」
宵の予想通り円陣は前進し、方陣は円陣を囲むように移動。
6つの方陣が1つの円陣を中央に囲んだ状態で止まった。
「軍師殿? おーい、軍師殿?」
「え? あ、はい、何でしょう?」
ようやく鄧平に呼ばれていた事に気付き宵は小首を傾げる。
「集中されてるお顔も可愛らしい」
「んん?」
宵はムッとして羽扇で鄧平の頭を叩いた。鳥の羽根なので兜を被った鄧平にはダメージはない。ただ鄧平は嬉しそうにニヤリと微笑んだ。
「すみません。つい本音が……えーと、あの陣形は何なのでしょう?」
「あれは『
「綺麗な名前ですね。まるで軍師殿の──」
「
鄧平の話を遮り宵は伝令の兵を呼ぶ。
駆け付けた兵士に宵は指示を伝えるとすぐに馬で駆けさせた。
その後ろ姿を見送りながら宵は羽扇で顔を扇ぐ。
日が高くなっていた。徐々に気温も上がっている。今のところ、風はまるで吹いていない。
***
朧軍~前線・砦~
「
「いえ。光世様のお世話をする事がわたくしの仕事ですので。それに、光世様がずっと離れるなと仰ったのですよ?」
「ああ、それはさ、私が春華ちゃんを
「光世様が戻られるなら戻りますが、ここにいらっしゃる限りわたくしも戻りません。光世様のお世話は誰がするのですか? 砦にいる兵士に身の回りのお世話をさせるおつもりですか?」
近くにいた兵士達や砦の守備を任されている校尉の
何を言っても譲らない清春華に光世は溜息をついて歩み寄る。
「まったくもう。頑固な娘だなぁ。身の回りの事くらい自分で何とかするよ。でも、そこまで気遣ってくれるなら、ここに居る事を許可してあげよう」
「ありがとうございます! 光世様!」
元気で純粋無垢な清春華。その存在が、いつの間にか心の折れかけた光世の支えになっている事を光世自身気付き始めていた。
「それにしても見事な陣形ですな。軍師殿。前回の
光世と清春華の話が終わったのを見計らって、夏候譲が言った。
光世は目を閉じ静かに唇に人差し指を当てる。
「『
目を開いた光世はニコリと笑い首を傾げる。
何を言っているのか理解出来ない夏候譲は目を丸くし口を開けたまま固まっている。
それに対し、何故か清春華だけは言葉の意味を理解したのか、それとも他の理由なのか光世には分からないが、口を押え戦々恐々としていた。
「どういう意味でしょうか? 軍師殿。恐れながら、私にも分かるようご説明頂けると助かります」
フサフサとした黒い顎髭を撫でながら夏候譲が言った。
「まあ要するに、6つの方陣は歩行を正し、真ん中の円陣は循環を連続させる。これによって敵のどんな攻撃にも臨機応変な対応が出来るんです……」
最後だけ自身なさげに「理論上は」と付け加える光世。しかし、夏候譲は嬉しそうに防壁の手すりを叩いた。
「素晴らしい! そのような陣形、負ける筈がない!」
「素晴らしい……のは、六花の陣を考案した私の故郷の方の名将・
光世は胸の前で拳を握り締めて答えた。
すると、視界の端に浮かない顔をする清春華の姿が移った。
「どしたの? 春華ちゃん?」
「い、いえ、何でも……」
「ふーん……」
明らかに様子がおかしい清春華に光世の中の消えかけていた疑念が再び芽生える。
「む! 軍師殿! 閻軍が出て来ました! ……あれは、張雄の部隊です!」
夏候譲の指差す方を光世は慌てて見る。
確かに閻軍の楽衛の円陣の横を通って、後衛の張雄の騎兵が勢い良く飛び出して来ていた。
そして
──が、張雄の部隊は二三度突撃を仕掛けると、また六花の陣の周りを1周回った後、颯爽と楽衛の円陣の後ろに後退していった。
「アイツぅぅ!!!」
光世は手すりを両手で叩き吼える。清春華や夏候譲、そして周りの兵士達が一斉に光世を見る。
六花の陣にはほぼ被害はなさそうで陣形も崩れてはいない。だが、張雄の行動の意味を光世は理解していた。
「やるじゃない、閻の軍師ちゃん。でも今度は抜かせないから」
光世は闘志を燃え上がらせてそう呟いた。
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