第80話 私の軍と私の副官

 カチャカチャという音が気になり、瀬崎宵せざきよいは目を覚ました。

 寝台から身体を起こし目を擦ると、自ら鎧を纏う姜美きょうめいの姿が。


「おはようございます。軍師殿。昨晩は楽しかったです」


「おはようございます。私も楽しかったですよぉ」


「……私の劣情は解消されていませんが」


「え〜……まだ言ってる」


「ふふ。その表情、からかい甲斐がありますね」


 姜美は宵の嫌そうな表情を見てクスクスと笑った。

 結局昨晩は姜美には宵が異世界から来た人間である事を打ち明けた。宵の世界に興味を持った姜美は、一晩中宵の話を聴いていた。まるで未来の世界の話を聴いているかのように、姜美は目を輝かせて楽しそうにしていた。確かにこの世界からすれば宵の世界の文明はどう考えても未来なので当然の反応である。

 祖父の形見である不思議な竹簡の話もしたが、姜美はそれら全てを信じてくれた。

 これでまた1人、宵の秘密を知る者がこの世界に増えた事になる。


「軍師殿。私は本日の夜半にここを発ちます。本営の守備に残す4千5百の兵の指揮はお願いしますよ」


 髪を結いながら姜美はまだ寝起きでポケ〜っとしている宵に言った。

 姜美はこの陣営にいる5千の兵の指揮官。その姜美が5百の兵と共に琳山りんざんへ赴くのだから、残りの兵を統率するのは階級的に軍師中郎将ぐんしちゅうろうしょうである宵の仕事になる。それは昨日の個別軍議で話し合って決定した事だった。

 だが、もちろん兵の指揮など、一介の女子大生である宵に経験がある筈がない。軍師の素質とはまた違う指揮官の素質が必要な仕事である。


「大丈夫ですよ。私の部下の校尉こうい部曲将ぶきょくしょうも皆優秀です。軍師殿は軍の頭としてどっしりと構えていればいいのです」


「はい。頑張ります」


 そう答えたが、やはり初めての経験故にすこぶる不安だった。


「さあ、軍師殿も着替えを済ませてください」


 いつの間にか着替えを済ませていた姜美は、まだ半分寝ぼけている宵にいつも通りの凛々しさで指示を出す。姜美は鎧を着るとまるで別人のようになる。寝台の上の女の子な姜美はそこにはいない。


 宵は姜美に借りた寝衣を脱ぐとその下はすぐに裸だ。幕舎の中で全裸となった宵に視線を向けてくる姜美に宵は背を向ける。


「今の姜美殿は男性ですよね? そんなまじまじと見ないでください」


「男だからこそ見るのでは?」


「でも、本当は女性なんですから興味無いでしょ?」


「その可愛らしい尻は男女問わず魅入ってしまいますよ」


「もぉ! セクハラ発言は軍法により斬りますよ!」


「そんな法はありませんけどね」


 急いで閻服を纏い身体を隠す宵を見て姜美はまたケラケラとせせら笑う。

 宵はテキパキと閻服を来て帯に祖父の竹簡の入った巾着を吊るすと綸巾かんきんを被り羽扇うせんを持った。


「さて、これより暫くは軍師殿をからかって遊ぶ事も出来ません」


 準備の整った軍師・宵を確認した姜美はそう言って幕舎の出入口の幕を掴んだ。


「いいですか、この幕を開けたらもう貴女に指揮権を渡します」


「え……あ、はい」


 宵は唾を飲み込む。

 そして、姜美が幕を開くと外の明かりが幕舎の中へと注ぎ込み、宵は目を細め羽扇で顔を覆う。

 姜美に左手を引かれ幕舎の外へと出た。

 光に目が慣れていくと、ようやく宵は目の前に整然と並ぶ兵達を目の当たりにした。


「「「軍師殿!!!」」」


 一斉に兵達が宵を呼び拱手した。

 その迫力に一瞬宵は気圧されて身体をビクッと震わせる。


「ほら、軍師殿。堂々としてください。貴女の兵です」


 姜美はそう言って宵の手を引いたまま更に前へと連れ出した。


「これより私は朧軍討伐の為、琳山りんざんへと兵5百のみを連れてこの陣を離れる! ここに残る4千5百は今この時より、軍師・宵殿に従うこと!」


「「「軍師殿に従います!!!」」」


 姜美の命令に兵達が一斉に応える。


「では、軍師殿の補佐と役として副官を任命する! 校尉・鄧平とうへい! 前へ!」


「ここに!!」


 鄧平と呼ばれた隊列の先頭にいた男が姜美のもとへ小走りでやって来た。


「軍師殿。この者は校尉の鄧平。若くして校尉になった有能な男です。この者を軍師殿の副官として付けますので分からない事はこの鄧平に聞いてください」


「鄧平殿、宜しくお願いします」


 宵は羽扇を持った手で恭しく拱手した。


「この鄧平、身命を賭けてお仕え致します」


 鄧平も力強く拱手した。

 勇ましい顔立ち、太い眉毛が力強さを示しているようだ。身体付きも頑健で、鍾桂しょうけいよりも逞しい。


「それでは、後の事は頼みましたよ。軍師殿、鄧平」


「御意!」


 同時に拱手する宵と鄧平。

 ついに一軍の実権を握る事になった宵は目の前の兵達と副官の鄧平を見て思った。

 どんどん軍にその身を落としていくこの状況。本当に戦が終わったら自由になれるのか。このまま閻帝国えんていこくの軍師として一生尽くす事になりはしないか。

 そこまで考えて宵はかぶりを振った。

 今はそんな事を考えても仕方がない。

 今は戦を終わらせる事が先決だ。朧軍ろうぐんを倒す事。閻帝国を守る事。そして、出陣する仲間達がが無事に戻って来てくれる事。それだけを考えよう。


 宵は姜美を見た。


「姜美殿。ご武運を」


 宵の言葉に姜美は微笑んだ。


「ありがとうございます。しばしのお別れです、軍師殿」


 宵は頷き、再び拱手して頭を下げた。



 ***


 朧軍ろうぐん景庸関けいようかん


 真夜中の景庸関の上で、厳島光世いつくしまみつよは遠くに微かに見える閻軍の陣営の灯りを眺めていた。

 その頬には一筋の涙が月明かりに反射してキラリと光る。

 閻軍に瀬崎宵は居るのか。

 それは光世がこの世界に来てからずっと思い続けた疑問。閻軍に若い女軍師がいるという情報を得た今、その正体が宵だと思えてならない。もしそうであれば宵はもう目と鼻の先に居る事になるが、それと同時に宵が敵だという事になってしまう。

 そうだった場合、一体どうやって助けてあげればいいのか。その答えは、いくら考えても思い付かない。昼間は閻軍を倒そうと意気込むのだが、夜になると何故か気分が落ち込んでしまう。


 光世は景庸関の防壁の手すりに肘を付き、時折吹く夜風に茶色い髪を靡かせた。

 肌に感じる風は紛れもなく現実で、悪い夢などではない。その事実は光世を益々不安にさせる。


貴船きふね君……今頃何してるかな……」


 手すりに頬を付いてポツリと呟いた。

 哨戒の兵士があちこちにいるが、光世の小さな呟きは誰にも聞かれてはいない。


「……お父さんとお母さん……私が居なくなってずっと探し回ってるかな……」


 突然離れ離れになった貴船桜史きふねおうし。そして何も言わず別れる事になった両親。大切な人達の事を考えると更に涙は溢れてくる。


「こんな夜中に何をしているのだ。光世嬢」


 突然背後から声を掛けられ、光世は背筋を伸ばし気をつけの姿勢を取った。

 振り向くと、そこには大きな身体の徐畢じょひつが立っていた。普段着ている鎧ではなく、平服を着ていていつもの厳ついイメージとは違う。


「いえ、何でもありません。少し寝苦しかったので夜風を浴びに……」


「ほう。何でもなくて涙を流すのか」


 徐畢の指摘に光世は慌てて袖で涙を拭く。


「これは……」


「友を探す為に来たのに、こんな戦などに巻き込まれて災難だな。光世嬢」


 徐畢は言いながら光世の隣に来て同じく手すりに肘をついた。


「俺はガサツだからな。其方が何故泣いているのかは分からん。友か、桜史か、はたまた故郷に残してきた両親の事か。一体どれで涙を流していた?」


「……全部ですよ。分かってるじゃないですか、徐畢将軍」


 光世はクスリと笑った。


「そうか、たまたま当たったようだ」


「たまたま……ですか」


「そうだ。なあ、光世嬢。そう悲観するな。必ず友は見つかるさ。閻帝国を降せば朧国でも閻でも自由に捜索が出来る。しかも其方の友人の捜索に軍の力を使える。周大都督しゅうだいととくはそう約束されたのだろ? ならばもう泣く事はない。朧が閻のような平和ボケした国に負ける筈がないのだ。それに我々は、其方と桜史という2人の有能な軍師も得た。これでどうして負けようか」


「ありがとうございます、徐畢将軍。元気出ました」


 光世は笑顔で応えた。


「……でも、万が一、私の友達が閻帝国の軍に入っていたら……その友達はどうなりますか?」


 光世の不穏な質問に徐畢はすぐに答えを返さず遠くに見える閻軍の陣営の灯りへと目をやった。

 そして僅かな沈黙を破り、徐畢は口を開く。


「閻軍が降伏すれば、我々は閻の兵士を殺す事はない」


「本当ですか?」


「ああ。だが、降伏せず、最後まで抵抗するのであれば命の保証は出来ないな。後は天命に任せるのみよ」


「そうですか……そうですよね」


 光世はまた手すりにぐったりと頬を付ける。


「何故落ち込む? 其方の友が閻の兵士になる理由でもあるのか? 友ならば他国の兵士になどなる筈がないだろう! 大丈夫だ! 俺と陸秀りくしゅう将軍、そして光世嬢がいればもう麒麟浦きりんほの閻軍は倒したも同じ! さすれば、其方の友もすぐに見つけ出し、故郷に帰れる。そうであろう? 」


 徐畢なりの励まし。年の離れた子供のような女をわざわざ夜中に励ましに来てくれる優しさ。それは素直に嬉しかった。

 朧軍に入ってから嫌な将校に出会った事はない。皆軍人と言えど、幕賓ばくひんである光世には優しく接してくれる。最高の職場環境と言っていいだろう。

 きっと逃げたければ逃げていいと言ってくれるだろう。光世の上司は皆そういう優しい人達だ。

 いざとなったら逃げればいい。でも、きっとそんな時は来ない。軍自体が脆弱な閻軍。例え閻軍に1人兵法を知る軍師が居たとしても、戦に長けた朧軍が負ける筈ない。


「『良将の軍をぶるや、己をはかりて人を治む』……ですね」


 不意に零した“三略さんりゃく”の引用。聴こえたのか聴こえてないのか徐畢は首を傾げた。


「徐畢将軍! 次の戦いまでには私が教えた新しい陣形、しっかりと使いこなしてくださいね!」


「はは! もちろんだ。俺は戦の才能はある方でな」


「自分で言います?」


「ん? 可笑しいか?」


「可笑しいです」



 景庸関の防壁の上に笑い声。

 夜空には満天の星。

 その空は閻帝国の空にも繋がっている。

 きっと宵も同じ空を見ているに違いない。

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