第54話 影からの脱却
幕舎の中には
「軍師・宵、ただいま参上致しました」
宵が拱手して入口で頭を下げると、武将達の視線が集まった。
そんな中、小柄な武将だけは宵を見るやいなや、目を見開いて硬直した。
「軍師……女??」
宵が顔を上げると、美しい顔立ちの若い武将が困惑して宵の姿を凝視していた。
「あなたが
「如何にも。私が
「まさか姜美殿がじ──」
「話は全て廖班将軍から聞きました。貴女が
宵の話を強引に遮る姜美の質問に、宵は上座に座る廖班の顔色を窺った。廖班は魂が抜けたかのように俯いたまま宵に目を合わせる事はなかった。
張雄も許瞻も、廖班同様何も喋らずただ俯いているだけだ。
どうやら隠していた宵の手柄を全て姜美に話したようだ。
「はい……間違いありません」
「そうですか。ならば、費叡将軍の命により、貴女を
「え!? ちょっと、待ってください! 胡翻? 胡翻て、費叡将軍の本拠地ですよね? どうして急にそんな事に??」
「貴女が兵法を使える者である事、且つ、これまで軍に関わって来た事を鑑み、この戦の為に
理路整然とした姜美の答えに、宵は反論出来ず口をもごもごさせる。
随分と大事になってしまった。流れに身を任せ、いつの間にか廖班の軍でこっそりと軍師として策を練る事になったが、今度は葛州刺史のもとで軍師をやらされる。
きっとそうなれば、李聞や鍾桂とも離れ離れになってしまう。軍が違えばもう会う事も難しくなるだろう。宵の素性を知る者達と離れ、見ず知らずの人達の中で、この過酷な戦乱の中を生きていかねばならない。胡翻で李聞や鍾桂のように信頼出来る人に出会えるとは限らない。
その一方で、廖班のような狡猾で私欲の塊の駄目な指揮官の下から離れる事が出来る。さらには、葛州の各郡の兵を動かす権力が得られ、今よりは遥かに戦況が好転しそうではある。
果たして、どちらが宵にとって都合がいいのか。
「いや、その、私……」
安易に決断など出来ない。今後の策を考えるだけでも精一杯だというのに、今度は環境も変わってしまう。そんな中で果たしてやっていけるのか。
「貴女には官職がないと聞きました。軍に仕え、軍師として働かされているのに、官職なし。それはあまりにも不遇というもの」
姜美は首を振り、溜息をついた。
確かに官職、つまり将軍位等の話は廖班から聞いた事がなかった。軍師として正式に登用するという言葉のみで、実は軍には正式に所属していなかった事に姜美の言葉で今更気付いた。言われてみれば、軍師として働いた対価も貰っていない。
「辛かったでしょう。あのような私利私欲の為にだけ動く将軍のもと働くのは。費叡将軍のもとに来れば、貴女に“
姜美は優しく微笑む。
傍から見れば、単なる宵の出世。断る理由はない。
宵は李聞に子犬のような眼差しを向け助言を求めた。
すると李聞は小さく頷き口を開く。
「軍師よ。費叡将軍の命令とあらば、理由なくして拒む事は出来まい」
「あ……はい……」
李聞の言葉は尤もだ。これは軍令。甘んじて受け入れる以外選択肢はない。
そう思ったが、李聞が“理由なくして”と言った事に引っ掛かった。そして宵は羽扇を持った手で姜美に拱手し、李聞の言葉の意を汲んで閃くままに言葉を紡ぐ。
「姜美殿。恐れながら申し上げます。軍師中郎将の地位、承ります。しかしながら、私は胡翻へは行けません」
「どういう事ですか?」
形の整った姜美の大きな目が宵を睨む。
「私は今まで
姜美は表情を変えず宵の次の言葉を待っている。
「姜美殿。戦場はここ麒麟浦と景庸関です。私はまだ未熟者故、ここで実際に戦場と軍の状況を見なければ有効な献策は出来ません。つまり、私が胡翻へ行ってしまえば、私の策は役に立たないという事です。どうか、この地に留まり、朧国と戦わせてください」
宵は拱手したまま頭を下げた。
すると、姜美は声を出し笑った。
「軍師というのは弁も立つのですね。成程、確かに軍師殿の仰る通り。良いでしょう。軍師殿が軍師中郎将の位を受け、費叡将軍の配下となる事を認めるならば、この軍に残る事を許可して頂けるように私から費叡将軍に話します。ですが、必ず成果は挙げるのですよ?」
「感謝致します。必ずや閻帝国の勝利に貢献出来るよう、尽力致します」
「気に入りました。少し軍師殿と2人で話がしたい。廖班将軍。少しお借りしても宜しいでしょうか?」
表情は差程変わらないが、姜美は嬉しそうな声色で廖班に許可を求める。
「好きにしろ」
生気のない廖班は俯いたまま手で追い払うような仕草をした。
「然らば、参りましょう、軍師殿」
心做しか明るい雰囲気になっている姜美に先導され、宵は幕舎を出た。
去り際に、李聞へ無言の拱手を送る。
李聞は柔らかな笑みと共に拱手を返した。
♢
「ご苦労でしたね。今まであんな親の七光りの俗物将軍の下で扱き使われて。夜這いさせられたりはしませんでした?」
歩きながら、姜美は宵に話し掛けた。
「す、凄い毒吐きますね……私は……ご覧の通り胸もないし、魅力のない身体なので大丈夫でした……はは」
姜美は宵の絶壁の胸をチラリと見ると、また前を向いた。
「胸なんて……ない方がいいです」
急に声のトーンが落ちた姜美。その言葉の意味が分からず、宵は小首を傾げる。
「それより、これで貴女は“影の軍師”から脱却しましたね。これからは、正当に評価される“真の軍師”となり、閻帝国の歴史に名を残せますよ。一緒に頑張りましょう」
差し出された手に宵は目を落とした。
その手は、宵と同じくらいの大きさで、指は細長くあまりにも綺麗だった。
深呼吸し、覚悟を決めた宵はその手を握り、姜美の美しい顔を見た。
「はい」
返事を返すと、姜美はにこりと微笑んだ。
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