第7話 切手のない手紙

 ひとしきり笑い合った後で、グレイスとマーガレットは朗らかに暇を告げた。イザベルはもう少しゆっくりしていくようにお願いしたが、二人とも肩をすくめた。

「不幸にも呪われた婚約者殿の元へお見舞いに通う王子殿下の邪魔なんてしたら馬に蹴られそうじゃない?」

「ええ。不敬罪になるのではなくて? それはそうとイザベル、殿下がいらっしゃる前にちゃんとノートを写して小テスト対策を始めなさいね。殿下にうつつを抜かして追試になったら殿下とベルジーネ妃殿下とご両親に言いつけますよ」

「もう! お帰りください!」

 イザベルが頬をぷうと膨らませると、二人はつんつん指でつついて笑った。

「それじゃあイザベル。またね」

「また週明けに」

 いつもの挨拶を向けられ、イザベルは両手を握った。いつも通りのその挨拶には、また次に会う願いと相手が元気でいられるようにとの祈りが込められているのだ。 ごくありふれた、いつもの挨拶で、何度も交わしたものなのに、それはイザベルの頬と胸とをじんわりとあたためた。

「はい! グレイス! メグ! また教室で!」

 イザベルもまた思い切り笑い返した。

 二人を乗せた馬車が遠く道の向こうに見えなくなってもイザベルは手を振り続けた。



「フィリップⅡ世とフィリップ公爵、スペルがややこしすぎます……」

 聖都ファティマにセレスト大聖堂を建築したフィリップⅡ世と、アリオン川に精巧な堤防を築き、街の整備に貢献したフィリップ公爵。どちらも聖都の歴史に大きく関わる人物だが、スペルのLが片方は一本多かったり、片方は一本少なかったりと学生泣かせの二人である。

「フィリップⅡ世はⅡ世だけにLも二本必要だと覚えるのはどうかな?」

 なるほど、確かにフィリップ公爵は「Philip」だが、フィリップⅡ世のスペルは「Phillip」でLが一本多い。

「それは名案です」

 深く頷きかけ、イザベルは長椅子から飛び上がった。

「でででで殿下!?」

「やあ、こんばんは。タイニー・ベル。昨日ぶりだね」

 正面でヘンリーが穏和な笑みを浮かべていた。


「こんばんは。来ていらしたのならば、声をかけてください……」

 どきどきと早鐘を打つ心臓を宥めるべく、イザベルは胸元の勿忘草色のリボンを指で揺らした。

「うん。君の女学院の制服姿があまりにも可愛くてね。声をかける時間さえ惜しかったんだ」

 さらりとお答えになるヘンリー第四王子殿下の無敵のスマイルに、イザベルは心の中で悲鳴を上げた。

 制服を着ると家でも気持ちがしゃんとするのだ。校則の「制服を正しく羽織ることは淑女としての在り方を身に付けることと同義である」がすっかり身についているともいう。 それで登校自粛期間中でも始業から終業時刻まで制服を着て過ごしていたのだ。ヘンリーを出迎える前には授業時間が終わるので着替えていたのだが、今日は小テストに向けて意気込みながらノートを写していてうっかり忘れていた。

 顔は朱く染まったままだが立ち上がり、つむじから足の指先までの全神経を淑女の礼に集中させた。

 ヘンリーは澄んだ青い瞳を思い切り和ませた。

「うん。やっぱり可愛い。その髪型も良いね。君によく似合っている」

 カーテシーの動きに従い、うなじのあたりでぴょんと跳ねたポニーテールの毛先がその名の通り小馬の尾のようで愛らしいとヘンリーはご満悦だ。

「調子はどうかな?」

「……心臓がどきどきします」

 イザベルが恨めしげにヘンリーをじっと見つめると、

「おや、それは大変。すぐに座った方が良い」

 ヘンリーは恭しくイザベルの右手を取り、長椅子へイザベルを誘った。ふわりと座らせ、ヘンリーも隣に腰掛ける。二人の間には猫一匹分の距離が空いている。いつものこのサロンでの定位置である。

 まだ頬の熱は冷めず、ノートで首元から扇ぐ。

 ヘンリーが青い瞳を、まっすぐと向ける。そのまま彼はイザベルの全身を静かに観察した。彼の魔術師としての顔は今週何度も一番近くで見ているはずなのに、胸がやっぱり高鳴った。

 ヘンリーは骨張った指で、イザベルの耳から生えた呪いの長ネギに慎重に触れた。今週六度目の困ったことはないかという質問に、イザベルはやっぱり六度目の同じ返答をした。

「寝返りがしづらい他は特にありません」

 実は、朝起きたらネギが耳ごとごっそり外れていた――

 という夢も二回見た。兄に正直に話したら、書庫から自室に持ち込んでいたホラー小説を根こそぎ取り上げられてしまった。

「……不便かもしれないけれど、今日も君の元気そうな顔を見られて良かった」

 心からほっとしたように息を出すヘンリーにはやはり夢の話は内緒にしようとこっそり固く誓う。

「おかまいもせずごめんなさい。ロー様。退屈ですよね?」

 ヘンリーは緩く首を振った。白銀の髪がふわりと揺れた。机に広げていた歴史の教科書とノート、それからイザベルの顔を順に見て、笑う。

「僕のことは気にせず続けて」

 お言葉に甘えてイザベルは聖都ファティマの歴史に目線を落とした。


 教科書と借りたノートを熟読しながら自分のノートに書き取る。そんな単純作業を待つのはやはり退屈だろう。イザベルは鉛筆を握ったまま、そっと顔を上げる。

「君の学院での授業風景を見ているようで新鮮だから楽しいよ。僕も君と同じ教室で一緒に授業を受けてみたかったって思ったことは何回もあるし」

 ばきりと鉛筆の芯が折れた。


 聖都ファティマのセレスト大聖堂へと続くカルム橋の補強を手がけたのがフィリップⅣ世で、LのスペルはⅡ世同様一本多いことを胸に刻む。

 ふう、とイザベルは息をついた。

 ようやく今日の授業分に追いついたのだ。あとは小テストに向けて復習を続けるだけだ。

「お疲れ様」

「ありがとうございます」

 ヘンリーのやわらかい笑みに頬を緩めかけ、イザベルは飛び上がった。

「殿下!」

「はい」

「なにを、何を、読んでいらっしゃるんです……?」

 声が思い切りひっくり返った。

「ラブレターかな。君からの」

 さらりと返され、イザベルは長椅子の肘置きまで後ずさり、仰け反った。

 ヘンリーが手にしていたのは、イザベルが渡すのをやめたヘンリー宛ての手紙であった。


 ヘンリーとイザベルの二人は、ここ二ヶ月ほど会えない期間が続いていた。

 イザベルにとって、何か素敵なものを見聞きした瞬間に湧き上がったわくわくした気持ちを、出合った素敵なものを真っ先に伝えたいのはいつだってヘンリーである。 それは次に彼と会うときまで大事に胸にしまっているつもりだが、会えない期間が続くと伝えたいことがたくさんであふれそうだな、と手紙に書き留めておくことにしたのだ。

 ヘンリーと同じ研究所に勤める父と兄から、「殿下の研究室は学会まで大詰めだから、くれぐれも決してご負担をおかけしないように」と何度も釘を刺されていた。 学会直前の父と兄のぐったりした様子を幼い頃からよく見ていたので、イザベルがその手紙を送ることはなかった。 ただ、次に会えたときに、わくわくした気持ちをすぐに引き出せるよう、ヘンリー宛てに手紙を書き留める習慣は続いていた。

 そして、先ほどのグレイスとマーガレットの演劇の話には、劇作家ハートリッチが翻案の題材にした古典作品がいくつも登場していた。悲劇は喜劇に、悪役は主役に。元の作品との異なる要素は聞くだけでも楽しかった。 忘れないように歴史のノートを写す前に手紙にも書いておこう、と自室からこのサロンに持ち込んでいたことをイザベルはすっかり失念していた。


「そんなに驚かなくても」

 ヘンリーがやや困ったように笑い、イザベルを起こそうと手を伸ばした。

 そっと手を取ろうとした瞬間――

「手元に届かなかったのも、直接聞けなかったのも惜しいから、このあと君に朗読してほしいな」

 頭から湯気が立ち上った。イザベルは肘置きから座面、そのまま床に仰向けのままずり落ちた。顔を覆った両手にじわじわと熱が伝わる。

「……今日のロー様はいじわるです」

 頭を座面に預け、指の隙間からじっとヘンリーを見上げる。

「君の方こそ」

 君からの手紙はすぐに読みたかったのにな、とヘンリーは唇を尖らせた。

 イザベルは三度大きく瞬いた。

 そして、完全に硬直した。

 じわりと染み入るような声に乗せられた言葉の意味をゆっくりと砕いて、飲み込んで、彼の声音と表情を足して、もう一度砕いて、ゆっくりと飲み込む。

「……!?」

 瞬間、一気に頬が熱くなった。

 脳内でぐるぐると言葉が回るのに喉には届かなくて、口をぱくぱく開閉させる姿はひどく間抜けだろう。

 ヘンリーはそんなイザベルを見て、眉を下げて微笑んだ。透き通る青い瞳を惜しげもなく和ませている。このひとは、いつもイザベルを待ってくれるのだ。

「……ロー様」

 やっとのことで「手紙にはお返事がほしいです」と紡げば、彼はくつくつと笑った。

 上機嫌に笑うヘンリーに、胸の奥から色々な感情がまぜこぜになって熱を帯びて込み上げてくる。

 けれども、何よりも早く湧き上がったのは羞恥心。熱くなった頬を両手でもう一度隠す。

 ヘンリーはそんなイザベルを青空と同じ色の瞳に捉えて笑っている。

「ごめん。痛くなかった?」

 ひらりと差し出された大きな手のひら。注がれる、深く澄んだ、遮るもののない青い双眸。

「いえ、あの……いいえ! 許しません!」

 咳払いを一つ落とし、息を吸う。

「わたし、とっても怒っています! 殿下には相応の罰を受けていただきます!」

 睨むようにヘンリーを見上げると、イザベルは全身の力でもってその手のひらを下に引っ張った。

 ぐらり、と大きく傾いだヘンリーの両頬を包み――

「えい!」

 婚約者であるそのひとの額に口付けた。

「名付けて不意打ちの刑、です!」

 参りましたか、とにっこり笑いかければ、ヘンリーは何故か両手で顔を覆っている。朱く染まった首と両耳が彼の白銀の髪を一層淡く見せていた。


 そのひとは、三拍置いてから大きな咳払いを一つだけ落とした。イザベルの前髪をふわりと撫で、それから頬に骨ばった長い指を滑らせる。

「レディ、続きをお願いしても?」

 指先から頬にじわじわと伝わる熱と、甘く煌めく青い瞳に自分だけが閉じ込められているのがたまらない。イザベルは咄嗟にノートを盾にして、朱く染まった頬を隠した。そっとヘンリーを見上げて返す。


「……待て、次号です」

「それは残念」


 ヘンリーはちっとも残念そうではない口調で軽く笑う。彼の袖をきゅうと掴んでイザベルは口を尖らせた。

「やっぱり今日のロー様はいじわるです」

「……君のお父様ほどではないけどね」

 ヘンリーの急に低くなった声に首を傾げ――イザベルは目と口をまあるく開いた。

 大きな猫のぬいぐるみが上から降り、イザベルに伸し掛かってきたのだ。それは、ヘンリーとイザベルが婚約を正式に交わした頃に父から贈られた白銀の毛皮に澄んだ青目のぬいぐるみである。


 ヘンリー殿下とお会いするときには必ずこれを連れて、お前たちの間に座らせなさい――


 父にはそのように繰り返し厳命されていた。

 幼かったイザベルは父の言いつけの本質「年頃の男女はエブリデイエブリタイムエブリワン節度ある距離を保って相手と接しなければならない。しかし猫一匹分の距離までならばその接近を許す」を理解するよりも早く、このぬいぐるみを連れ歩いた。 ふわふわでつやつや、ふかふかの立派な毛並みの立派な猫は、何度もイザベルを助けてくれたものだ。

 ヘンリーを「ヘンリーおにいさま」と呼んでいた頃の話である。今と変わらず、当時も二人でピアノの連弾や長椅子に並んでおしゃべりをして過ごすことが大半であったが、そのおにいさまとは目が合うと胸がとてもどきどきして上手に振る舞えなかった。

 けれども、ヘンリーおにいさまはそんなイザベルをいつもゆっくりと待ってくれた。

 静かで冷たい冬を越えた先の、ささやかな温もりをもたらす雪解けの季節を思い出す白銀の眉を少しだけ下げ、陽だまりとどこか似ているヘンリーおにいさまのやわらかい笑顔。それは、イザベルの気持ちが迷子になったときにしか見られない特別なものだ。 ヘンリーおにいさまを困らせないようにしたいのに、そこでしか会えない笑顔を独り占めできるのは嬉しかった。

 胸のあたりがきゅうっとして、言葉が迷子になり、いつもよりも上手におしゃべりすることができなかったヘンリーおにいさまとの二人の時間も、この大きな猫のぬいぐるみがそばにいてくれると心強かったのだ。 それに、この猫の大層立派なふかふかの背中は、イザベルを待つヘンリーおにいさまをふわふわとおもてなししてくれたのだ。この広いふかふかの背中を撫でながら、ヘンリーおにいさまはイザベルのことをいつだって穏やかに待ってくれた。

 そして、ヘンリーを思わせる白銀と青の色彩を持つこのぬいぐるみはイザベルの大好きな相棒だった。

 ヘンリーおにいさまと会うときにはいつも連れ歩き、彼との間に座らせて二人で背中を撫でながら同じ時間を過ごした。おにいさまの困ったように眉を下げて微笑むいっとう好きな顔も、白銀の睫毛が蒼穹を閉じ込めた瞳に落とす影の美しさも、その瞳に見つめられるときゅうっとなる胸のときめきも、ぬいぐるみはいつもイザベルと一緒に分かち合い、とびきり素敵な秘密にしてくれた。

 女学院に上がって以降は連れ歩くことはなくなったが、今でも毎日自室の大きな椅子でイザベルの登校と下校を見守ってくれている。


 第四王子殿下は長いため息を吐き、それから白銀の眉を下げてイザベルの後ろに青い瞳を向けた。

「召喚術は専門ではないはずなのに、さすがはオーキッド先生だ」

 つられてそちらを振り返る。ヘンリーと二人で会うときにはいつも少しだけ開けてあるはずの扉が、何故だか今は閉まっていた。

「ねこちゃんならば仕方ない――」

 もう一度深々とヘンリーはため息をついて、かぶりを振った。白銀の髪が光を散らすように揺れる。

 そして、彼はこちらに視線を合わせ、優雅な所作でかがんでみせた。イザベルが大きく三度瞬く間に、猫のぬいぐるみの背中を骨張った大きな手のひらで撫でる。

 不意に王子様の顔が近づき――イザベルが息を止めた瞬間、そのひとは、彼女のうなじで尾を丸めたポニーテールの毛先を取り、形の良い唇に押し当ててみせた。再び最接近したスカイブルーの瞳は、蕩けそうなほどやわく滲んでいる。

 たまらなくなったイザベルは両手で白銀の相棒を抱きしめ、ふかふかのお腹に顔を隠した。ヘンリーのくつくつと笑う声が、耳の近くで甘くやわく響いた。

 家令が父を呼ぶ声と父のいらえ、それから二つの咳払いが聞こえてきた。二人は黙したまま視線を交わし、長椅子に静かに座り直した――猫一匹分の距離をきっちりと空けて。

 けれども、イザベルの頬の火照りはまだ当分冷めそうになかった。

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