第5話 二人の慰めの報酬
「殿下――ヘンリー殿下」
御者に呼ばれ、ヘンリーは我に返った。馬車はいつの間にか停まっていた。窓の外から御者と護衛が気遣わしげにヘンリーを待っていた。ヘンリーが緩めていた襟を正して降りると、彼らはほっとしたように息をした。
今日も呪われた婚約者殿の様子を見にヘンリーがオーキッド侯爵邸を訪ねたのは夕刻になってからだった。中庭に居ると屋敷の者に告げられ、足を運ぶ。春の陽射しに暖められた風は、仕事上がりの体にとても優しい。
「こんばんは」
イザベルが跳ねるようにベンチから立ち上がった。ふわりと淑女の礼をとり、やわらかに髪を揺らしながら駆け寄ってきた婚約者殿に、ヘンリーは目を細めた。蜂蜜色の髪が陽光を淡く弾いている。
「こんばんは、レディ・タイニー・ベル。今日はなんだかご機嫌斜めだね」
苦いものを飲み込んだように寄った眉間を人差し指で撫でてやると、イザベルは顔を真っ赤にしながら口元をあわあわさせた。
「斜めにもなりますとも! ならずにいられますか!」
イザベルがこんなにも強い口調で何かを言うのは珍しい。
「ネギが耳から生えたから登校自粛だなんて!」
呪い休暇とでもいうのか、この年下の婚約者殿は今週いっぱい登校自粛を女学院から宣告されているのであった。曰く、授業中クラスメイトの大半が両耳に生えた呪いの長ネギへと意識を傾けてしまい、クラスメイト及び注目を浴びるイザベル自身の学習意欲低下を懸念した学院側の配慮らしい。
「ロー様もご覧ください」
チョコレート色の皮表紙の生徒手帳を掲げ、きりりと眉に力を入れてイザベルが言い募った。
「校則にもないのですよ」
愛称の「タイニー・ベル」の通り、小柄で華奢なこの少女は、自分と話す時には身長差で自然と上目遣いになる。艶々とした長ネギが耳からぴょこんと生えた他は至っていつものありふれた光景ではあるのだが、今日は興奮からか頬がほのりと薔薇色に染まり、アメジストと似た色の瞳は潤んでいる。いりょくはばつぐんだ。つまり、可愛い。
緩む口元を手で覆い、ヘンリー・ロー・サージェント王子は咳を一つ落とした。婚約者殿の手を取り、ベンチへと誘う。
ヘンリーが通った魔術学院は共学ではあったが自身も同窓も研究に忙しく華やかさとは無縁だったし、兄たちが通っていたのは男子学校だった。おまけに男四人兄弟で姉妹はおらず令嬢の通う女学院の校則はなかなか興味深いものがある。なんとなく、きらきらしていそうである。
先に座らせたイザベルの隣に腰掛けて手元の生徒手帳に視線を落とす。
「どれどれ。ええと、『ものは言い様、朝はおはよう、夜の挨拶こんばんは』」
「殿下もご存じの通り、挨拶を制す者は世界を制すということです」
「……そうだね。挨拶は大事だね」
一昨日の食事会でも――事前にヘンリーが事情を説明していたといえ――祖母はおろか母も義姉も婚約者の耳から伸びたネギを目の当たりにしても特にどうということもなく、普段通り優雅に挨拶を交わしていた。淑女教育、強い。
「それにしても『学院内外を問わず立会人なしの決闘を禁ずる』『学院内外を問わず商売・賭け事を一切禁ずる』というのは」
女学院にしてはなんだか不穏な響きである。よくぞ聞いてくれましたとでも言うように、イザベルは人差し指をぴんと立てた。薄紫色の瞳がきらきらしている。
「むかしむかし、お慕いしている方の婚約破棄を賭けて果たし合いをした先輩方がいらしたそうです。めくるめく恋の鞘当てとでも言うのでしょうか。立会人なしで淑女の本分も忘れて拳と拳による言語で語り合うタイヘンな戦いであったとか……。どちらに勝利の女神が微笑むのかを学院中の生徒が注目し、鑑賞チケットを販売したり模擬店でレモネードやわたあめを販売したりとお祭り騒ぎで見守ったことがあったので校則に加わったそうです」
「なるほど」
あまり深くは知りたくなかった女学院の真相である。
そういえば、この婚約者殿が夏休みの課題で犬小屋作りに挑戦していたのは一昨年だったなと思い出す。女学生たるものは清く正しく美しく逞しい生き物だと感心したものだ。もっとも、その華奢で白い指が金槌を振うのはなんとも危なっかしく、自分や屋敷の大人がいないところでは絶対に使ってはいけないと約束させたことも記憶に新しい。
「この『制服を正しく羽織ることは淑女としての在り方を身に付けることと同義である』だなんて、魔術学院にはない規則だからなんだか新鮮だ」
ベンチで二人寄り添って一通りの校則に目を通す作業はなかなか楽しかった。イザベルの解説も学院での話も朗らかで耳に心地よい。学内外問わず清く正しく美しく日々を過ごす大切さや制服を正しく着こなすことは自ずと立ち居振舞いも洗練することに繋がるとか、爪の先まで淑女であり学生であることを忘れるな云々は魔術学院にはないものばかりで新鮮だ。
それに、こうして二人で過ごすと、オーキッド邸の陽だまりに満ちたサロンでピアノを仲良く連弾したり、長椅子で海洋冒険譚をイザベルに読み聞かせたり、ヘンリーの叔父ご自慢の猫たちと仲良くなるための作戦会議に二人で熱中した幼い頃を思い出す。
「タイニーベルの言うとおり、規則にはネギが生えたことを理由に登校自粛を促すものはないね」
「そうでしょう」
こくこくと首を動かすのに合わせ、ネギがぴょこぴょこ揺れている。
「……その、不可抗力でやむを得ないとはいえ、淑女基準で言えば、クラスメイトが君のその呪いのネギに視線を送り続けるのも君が注目させ続けるのもマナー違反ではあるのかもだ」
「学生の本分からすると授業に身が入らないのもよろしくないということでもありますよね。すると、今回の登校自粛は『流行性感冒など流行病罹患時の登校は医師の診察後に学院に報告・相談を』というところに当てはまるからやむにやまれぬ、ということでしょうか」
素直なのは彼女のとてもよいところである。
「そうだよ。君は面白くないかもしれないけれど、君のそれは身体に負担がかかるものではないとはいえ、目に見える呪いってやっぱり他者からすれば怖いだろうし好ましくないものだからね。気にする人もいるだろう。それに」
「それに」
「僕だって君が好奇の視線にさらされるのは面白くないし嬉しくないよ」
イザベルの頬と耳が一気に染め上がった。ネギの白と碧とのコントラストでやけに朱く色づいて見える。
「あの……、ありがとうございます」
「……うん」
言うつもりはないことを言ってしまった。イザベルが不思議そうに復唱したのにつられたのだ。つい。
頬を撫でる風がほんのり冷たくて心地よい。
「情けない話をしてもいいかな」
イザベルは三度瞬いて頷いた。
「君のこの呪いの様子を確認しに来るたびに、君に毎日会える理由ができたことと君が無事だったことを実感できることが嬉しい反面、君を呪いから守れなかったことと『慰めの報酬』について考えてしまうんだ」
「……」
あの同僚と劇作家の三人は自分たちからすればなんとも歪で特殊な関係にはあった。ただ、考えさせられたのだ。ヘンリーとイザベルとの政治的策略から始まったこの関係も『慰めの報酬』がゼロになる可能性はゼロではないのではないかと――
ぼんやりともたげた不安をうまく言葉にできず、少女を見つめていたら、下に引っ張られた。
たいした力ではないはずなのに、引っ張られるまま、ヘンリーは少女の方へと顔をうつむかせる。
ヘンリーの袖をきゅうと引き、イザベルがこちらをじっと見上げた。丸く大きく開かれたイザベルの淡い紫色の瞳に、「自分だけ」がいっぱいに映っている。喉と胸、背骨が熱くなったように錯覚する。
「ロー様。大丈夫です」
傾ければ口付けられそうな程の距離で、彼女は冷静に、しかしとびきり情熱たっぷりと宣言した。
「だって、ヘンリーおにいさまとサロンでピアノの連弾をしたり、並んでおしゃべりをしたりするのがいつもいつだってわたしにとって一番の楽しみなのですから。だから、ちょっとやそっとのことなんかでは――それこそ不幸な玉突き事故の見本市ぐらいでは、今までご一緒して積み重ねてきた『慰めの報酬』は崩れませんよ」
そして、ヘンリーの袖を思い切り引き、耳元に囁いてきた。
「それに――このネギの呪いを理由にロー様と毎日お会いできるのがわたしも嬉しいのです。だから、マイナスどころか天井知らずで積み上がっていますよ」
それからイザベルは照れくさそうに頬をやわらかに緩めて笑った。ヘンリーのいっとう好きな笑みだった。
胸の中にあたたかいものが穏やかに広がり満ちていく。
「あの、ロー様」
イザベルが上目遣いにヘンリーを見上げた。太陽が零す夕明かりを一身に浴びて微笑む少女を、ヘンリーはじっと待つ。
空はすっかり夕焼け色に染まっている。今日最後の太陽の輝きが二人を淡く、やわらかく包み込む。
「久しぶりに連弾がしたくなりました。殿下、わたしと一曲お相手いただけませんか?」
「喜んで」
差し出されたイザベルの細く華奢な手のひらを取る。そのまま頬が緩んでいくのにまかせて、ヘンリーも笑みを返した。
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