第6話 腐女子、幼女と決闘する

≪お前・バカ・あいつ・とても・怒る・変える・落ち着く・できない・時・お前・死ぬ≫

 レティさん(仮)が俺に背を向けた途端、リアムから怒涛のように手話が送られてきた。リアムはここに来る前、剣士の館で戦闘訓練を受けていたことがあり、そこでは手信号を習ったらしい。リアムが元太鼓持ちの二人、クルスやギュスターとたまに手振り身振りだけで意思の疎通をしているのに気づき、俺が尋ねたらいろいろと教えてくれた。

 もっとも、リアムたちが使っていたのは戦闘用に特化したものだったので、日常生活ではあまり使い道がないのも多かった。そこで俺が腐女子時代に独学で覚えた手話を記憶の限り教え、簡単な動詞や喜怒哀楽など、日常で汎用性の高いサインを手信号に追加した。その後みんなで適当にアレンジしたり、新しいのを考えたりもして、お遊び感覚で使っていたのが今回は役に立ったようだ。現在、この手話が使えるのはリアムたち三人と俺、そしてカノンだけだ。

 実は先程も食堂で、まだ俺が自分の状況を正確に把握していないうちから、リアムが少し離れたところにいたクルスとギュスターにある指示を出し、二人が素早く移動したことにも気づいてはいた。が、食堂にいた他の見習い候補たちも青ざめるほど深刻な状況に立たされているということが、何故か当人である俺だけが理解できていない。そしてそのことが余計にレティさん(仮)のお怒りを増幅させている、ということはさすがに想像に難くないので、俺はすぐさまリアムに手話で返した。

≪あの子・怒る・理由・わからない・答え・知る・欲しい≫

≪目・緑・髪・赤≫

≪わかる・光・炎・混ぜる・人≫

 レティさん(仮)が光の民と炎の民の混血、いわゆる混じり者であることは気づいていたので、俺は素早く頷いた。

 ……とはいえ、実は気づいたのはレティさん(仮)の後ろについて歩き出しながら、ふと食堂を見回したときだ。血の気の引いた面持ちで一斉にこちらを見ている、他の赤い髪の見習い候補たちの瞳が灰色であることに気づき、俺はようやく思い出した。赤い髪を持つ炎の民の瞳は灰色であり、レティさん(仮)のように緑の瞳を持つのは、本来カノンと同じ光の民であるはずだということを。

 言い訳をすると、俺がすぐに気づけなかった理由はいくつかある。そもそも俺がかつていた世界では、人種ごとにそこまで厳格な見た目の決まりはなかった。それどころか虹色に髪を染めたり、カラコンでオッドアイにしたりと装飾の自由度も高かった。例え瞳の色が多少奇抜だったとしても、気にならない下地が最初からあったわけだ。

 それに加え、俺の個人的な理由としては、レティさん(公式)の2.5次元だ!!! と例によって瞬間湯沸かし器のように興奮したせいでもある。

 第一、俺が日常的に摂取していた二次元では、現実にはあり得ない蛍光ピンク髪の赤ん坊が黒髪の母と茶髪の父から誕生し、純然たる地毛の日本人として成長していたが、何一つ違和感を覚えなかった。もしかしたらどこかの超能力者に洗脳されていたのかもしれないと思えるほど、本当に自然に受け入れていた。

 しかしこの世界では、例え幼児が描いた絵でも蛍光ピンク髪の人間は化け物扱いである。フィクションですら許容範囲が極めて狭いのだ。当然、染髪剤もないし、カラコンもない。役者の小道具としての化粧やカツラは存在するが、庶民がお洒落の一つとして日常的に使用することは俺が知る限りないし、残念ながらクオリティも低い。役者が扮装するのも、基本的にこの世界の神話(あくまでも歴史であって、フィクションではない)に登場する幽鬼や混じり者を演じるためだ。

 そして実在はしていても、圧倒的少数である混血の民に対する風当たりも、実は強い。大多数から見て自分と異なるものや理解できないもの、さらにマイノリティというだけで立場が弱くなるのは、どこの世界でも変わらないらしい。

 しかも混じり者は殊更強い能力を持つ者が多いと聞く。神話ではこの世界の民が通常持ち得ない、時を操ったり、触らずに物体を動かしたりといった特殊な力を使う者もいたそうだ。そして能力が優れていれば恐れられ、あるいは妬まれ、より不遇な扱いを受けることもある。理不尽で矛盾しているようだが、それが現実というものだ。

 もちろん死んでしまえば別である。それこそ神話がいい例だ。仮に存命中は迫害を受けていたとしても、有事の際に人知を超えた活躍をすれば、死後に人々の英雄として祭り上げられる可能性はある。実際は生贄扱いだったとしても、だ。全てがそうだとは限らないし、あくまでも俺の妄想でしかない。が、神話で語られる混じり者の英雄は多いのに、現実に生きている混じり者が厄介扱いされている理由はこれで説明できてしまう。

 それ故、リアムが送ってきた手話の内容も一応は想定内だったので、俺は冷静に受け止めた。

≪あいつ・力・とても・強い・光・炎・大きい・戦う・過去・あいつ・怒る・時・炎・戦う・人・死ぬ・俺・聞く≫

 俺が頷くと、リアムは素早く手話を続けた。

≪あいつ・生まれる・時・母・死ぬ・父・あいつ・捨てる≫

 俺が少し目を見開いたのに気づくと、リアムは淡々とそれを俺に伝えた。

≪母・炎・人・父・炎・人・俺・聞く≫

 ……ふむ。つまりレティさん(仮)は炎の民の母親がどこかの光の民と不義を働いた結果生まれた、ということか。少なくとも噂では。

 俺が理解したのを見届けるとすぐ、リアムは手を動かした。

≪あいつ・いつも・怒る・みんな・とても・怖い≫

 なるほど。レティさん(仮)はただの可愛い幼女ではなく、すでに人死にまで出している爆弾のような存在なのか。年齢的には俺の三つ年下の妹とそう変わらないはず。伝導の館では最年少の可能性すらある。どう見てもまだ一桁しか人生を過ごしてないのに、そんなハードモードでプレイしてきたとか、むしろ称賛に値するのでは?

 まあ、最初からみんなに恐れられていたなら、カノンとトラブルになった時点で食堂があれほどざわついていたのも納得だ。おまけに何も知らない俺が呑気に可愛いとか口にするし、周囲が静まり返ったのも頷ける話ではある。

 ……けどなぁ……、と俺は心密かに首を傾げた。そんなに怖がらなければならないほどレティさん(仮)が怒っていたとは、俺には思えないのだ。少なくともカノンとのトラブルの時点では、そこまでひっ迫した空気は感じなかった。自分で言うのもナンだが、俺が余計なことさえ言わなければ、カノンは少しきつい言葉で注意される程度で放免されていた気がする。

 そして現在、確かにレティさん(仮)は俺に対し、とても怒っているようだ。不義の疑惑があるにせよ、自分のせいで母が死に、父に捨てられ、周囲から怖がられてきたという境遇から察するに、あまりにも普通に接してきた俺の言葉や態度は、逆に不信感の塊でしかないのは理解できる。可愛いという褒め言葉も、馬鹿にされたと受け取られても仕方がない。

 が、それにしては妙に冷静なところが、俺としては違和感がある。一見、子供の癇癪のような振る舞いだったが、どこか違う。中庭に出ろと言ったのは周りに被害が出ないようにという配慮からだろうし、こうして先に立って歩いている後姿も静かだ。まあ、ミニマムで可愛いことは可愛いんだが。

 と、もうすぐ中庭に着いてしまうこともあってか、リアムが再び怒涛のように手話を開始した。だが最後まで伝えきる前にレティさん(仮)が振り向き、リアムはパッと中止すると、誤魔化すように微笑んだ。

「……えっと……その、何とか考え直してもらえませんか? こいつはまだここに来たばかりで……その、いろいろと、ちゃんと説明してなかったのは、そばにいた俺の落ち度です! だから……!」

 冷や汗をかきながらも懸命に弁護してくれたリアムに、レティさん(仮)はふんと軽く鼻を鳴らした。

「確かにそれはお前の落ち度なの。でも、あんな大勢の前で恥をかかされたら、こちらも簡単に引き下がれないの。せっかくできたお前の友達とやらが早速一人減らないよう、遠くからせいぜい応援するの。それと」

 ふと言葉を切ったレティさん(仮)の仕草に、俺とリアムは思わず目を見開いた。

「わかってるだろうけど、お前は私に勝てないの。痛い目を見て懲りたら、さっきの言葉を取り消して全力で謝るの。気が向いたら許してあげるかもしれないの」

 ……なるほど! 俺はにっこり微笑んだ。どうやら彼女は可愛いだけでなく、頭もかなりいいようだ。そして何より優しい。

「わかりました。でも、可愛いと言ったのは取り消しません」

 俺の返答を耳にすると、リアムは今にも喚きだしかねない顔をし、彼女はちょっと驚いた顔をしてから凶悪そうに微笑んだ。

「私の厚意を無碍にするとは、本当にいい度胸なの。やっぱり気が変わったの。私に生意気な口をきいたこと、心の底から後悔させてやるの。死なない程度に痛めつけてあげるから、覚悟するの!」

 ……おお。本当かどうかは知らないが、人死にの実績が噂される者の脅しはさすがに迫力が違うな。怖い。そのくせ今度こそかなり本気でお怒りなのに、死なない程度って……やっぱ優しいぃい!!!

 ほわほわと俺が感動していると、リアムがげんなりした面持ちになった。

「……お前のそういうとこ、しばらく一緒にいるけど、いまだに理解できねーんだけど。つーか、理解したくない。そんな嬉しそうになる言葉、一つもなかっただろ?」

「本当に不本意だけど、お前のその意見だけは同意なの」

 リアムと同じくドン引きになった彼女の前で、俺は礼儀正しく右手を胸に当てると頭を深く垂れた。

「申し遅れました。俺の名前はシルヴァです。あなたの名前を聞いてもいいですか?」

 彼女は物言いたげに眉を吊り上げたけれど、結局ツンとしながらも答えてくれた。

「……トリー。私の名前はトリーなの」

「わかりました、トリー。全力で立ち向かいますよ。大丈夫。あなたに俺を殺させたりしません。だから館に被害が出ない程度に、あなたも全力で来てください。そうしないと意味がないですから。でしょう?」

 俺の宣戦布告にリアムは頭を抱え、トリーは今度こそ正真正銘、険悪な顔つきになった。

「……お前、本当に生意気なの! 私を甘く見るとどうなるか、骨の髄まで教えてあげるの! 本気で泣かせてあげるから、後悔しても知らないの!」

 そして怒り心頭といった面持ちで、トリーは渡り廊下から中庭に出て行った。

「おまっ、お前なぁ! 本当に……っ」

「慌てるな。大丈夫。お前たちがいてくれたおかげで、俺も口にできた言葉だ」

 中庭の湿度を瞬時に計測しながら、俺は息を切らして駆け寄ってきたクルスとギュスターに微笑んだ。

「さすが、俺の友達は有能だな」

 心配そうだったクルスとギュスターの顔がパッと明るくなったのを見届け、俺は言った。

「悪いが、礼は後でゆっくりな」

「っす!」

「はい!」

「リアム、お前にはもう一つ頼みがある」

「ハイハイ、シルヴァ様の仰せのままに」

 呆れた顔で肩を竦めたリアムに、俺は食堂で念のため入手しておいた例のブツを渡した。そしてお願い事を素早く囁きながら、中庭に出る。

「……じゃ、遠くからの応援、よろしく頼む」

 チッと舌打ちしたリアムにウインク付きの投げキッスで返すと、赤くなったリアムが喚いた。

「おまっ、ホントそういうこと軽々しくすんのやめろ!!!」

 う~む、やはり思春期の男子はナイーヴだな。ちょっとしたお茶目なやり取りの一つではないか。それともワンチャンあると思っていいのか? 男同士だけど、この世界では同性婚も割と普通にあるみたいだし、リアムはお貴族様だが優秀な兄という跡取りもいるから、そういう意味でも問題なさそうだ。取り敢えず死亡フラグにならない程度に、俺のモチベーションを維持する役には立ってもらおう。

 ……そう、実際のところ俺はこの争いには全く乗り気ではない。あれだけトリーを煽っておいてナンだが、結局ケンカは未経験のままだし、何より大勢のギャラリーの前に出るのが心底嫌だ。合同授業で歌を披露するときでさえ、緊張で声の出力が当社比27%も低下してしまうのに、明らかにそれより多い観衆の前で命懸けの鬼ごっこをしなければならないとか、地獄か! ……まあ、全部自分のせいなんだけど。

 だが、こういうのは本気でやらなければ意味がない。人の目とは侮れないものだ。それに自分で蒔いた種は、やはり自分の手で摘み取らねばならんしな。

 俺は瑞々しい芝生の感触を靴の裏に感じながら、竜の息吹を軽く見上げた。今日も雲一つないいい天気だ。さすが光の精霊に祝福された繋ぎ手の島である。これなら俺も全力を尽くせるだろう。秘策も一応、ないことはない。リアムに遠くからの応援もお願いしてあるし、多少は持ちこたえられるはず。

 そうこうしているうちに渡り廊下は野次馬で埋まり、伝えの塔の窓からも中庭の様子を見ようと顔を出す者が現れた。あまりぐずぐずしてはいられない。最終的に騒ぎを見とがめられ、お叱りを受けるにしても、できるだけ短時間で全てを終わらせる必要がある。

 俺は少し距離を開けてトリーの前に立つと、礼儀正しく右手を胸に当てた。

「お待たせしてすみません、トリー。もう始めても大丈夫です」

 トリーはミニマムな身の丈ながらも、その美しい緑の瞳を傲岸不遜に煌めかせ、俺を睨みつけた。

「本当に私に謝る気はないの? 今なら少しは手加減してあげないこともないの」

 俺はにこやかに微笑んだ。

「何度でも言いますが、俺はさっきの言葉を取り消すつもりはありません。あなたはとても可愛いと思います。あくまでも俺の個人的な感想ですが、だからこそ俺は自分の気持ちを偽らないし、否定もしない。あなたこそ、俺の気持ちを勝手に否定するのはやめてください。あなたが嫌なら二度と口にはしないし、聞こえるように言ってしまったことは謝ります。でも、俺の感情は俺のものです。誰にも否定はさせない」

 野次馬たちが不穏にざわめき、トリーはその燃えるような赤い髪を振り立てた。心なしか周囲の空気までが呼応し、パチパチと爆ぜるような音が聞こえる気が……ってこれ、気のせいじゃない!!! 青白い小さな火花が空気中にたくさん飛んでいる。これは……静電気か!

 避けようもなくうっかり触れてしまうと、かつて冬場によく経験した痛みが走る。というか、その三倍は痛い! かなり離れたところにいる野次馬からも時折悲鳴が上がることから、効果範囲も想像以上に広いようだ。普通の光の民ならこういった能力の効果範囲はせいぜい己を中心とした半径一メートル内がいいところだし、痛みも通常発生時の静電気程度である。故に、この時点でトリーが相当すごいことは十分理解した。

 しかもこの静電気、辺り一帯で不規則に弾ける様は見ていてとても綺麗だが、その真っただ中にいる俺は迂闊に身動きできないし、かといって動かなくても勝手に当たるし、地味に厄介だ。このままでは何もできないままオートでダメージを受け続け、すぐにゲームオーバーになってしまう。

 ……というか! これってこの世界ではもはやチートといってもいいレベルでは? いくらレアな混じり者だからって、普通の民との能力差ありすぎでしょ! 何で転生者の俺じゃなくて、相手が持ってんの? おかしくない? 責任者を出せ!!!

 ……いやいやいや、よーしよしよしよし、ちょっと待て。一旦落ち着こうか、俺。ここは冷静、かつ早急に対策を講じる必要がある!

 俺は大きく深呼吸をし、己の体内にある水分をコントロールして瞬時に冷静さを取り戻した。母に感謝の念を送りつつ、俺はバグった脳が一度白紙と判断してしまったプランを引っくり返し、ちゃんと事前に検討しておいた己の手札を改めて確認した。

 ……よし、大丈夫。Yes we can !!!

 俺は素早く空気中の水分を周囲に集め、球体状の膜を張るイメージで外側に放った。恐らく効果の持続時間は短いが、少なくとも俺を中心とした半径一メートル程度の範囲にあった無差別放電は取り敢えず消えた。光の民の能力は水の民の俺でも防御は可能だ。そう、これはカノンとの実験ですでに実証済みである。

 俺は続けざまに水分の膜を四方に放ち、静電気のない領域を押し広げた。野次馬からどよめきが上がり、トリーが驚きに目を見開いた。この世界で最弱の水の民が、最強とうたわれる混じり者の攻撃を一瞬とはいえ退けたのだから当然だ。

 とはいえ、もちろんタネはある。繋ぎ手の島の気候はいつも乾燥しているが、今現在、この中庭は一時的に湿度がかなり高い。リアムの指示で一足先に食堂からこの中庭に来て、離れたところにある井戸の水を何桶分も撒いておいてくれたクルスとギュスターのおかげだ。

 しかしせっかくの水分が蒸発しきってしまったら、俺に勝機はない。俺の勝利条件は一見緩いが、実は結構厳しいからだ。まず誰一人大きな怪我をしないこと。そして本気のトリーを一瞬でいいから止めて、言葉で説得することだ。何より、その全てを観衆の目の前で行わなければならない。トリーを陥落させる前に管理人や伝導師に止められてしまったら、このミッションは失敗だ。つまり時間がない。

 ちなみに光の民の能力は光を操ることだが、先程からの攻撃でもわかるように、実際には光というより電気である。この世界において光の民の操る電気は、精霊の加護を受けた特別な光という定義で通っている。まあ、生き物の体には常に微量な電気が流れているので、その扱いに特化していると考えれば俺としても何となく理解はできる。

 それから炎の民は確かに、一応、炎を出すことはできる。だが恐らく、炎の民が実際に出しているのは小さな火花だ。創世の神話を信じるなら、炎の精霊は光の精霊から生まれたも同然だし、もしかしたら静電気かもしれない。しかしそれを火種に炎を作り、操ることができるのは間違いない。つまり炎の民が本当に操っているのは目に見えない可燃性のガスではないかと、俺は勝手に推測している。

 現に今、トリーが高く手を掲げ、軽く指を鳴らすと同時に火花が散り、大きな炎が巻き起こった。外野から悲鳴が上がる。はっきり言って、この世界で初めて見るファンタジー級の能力だ。龍の形になってくれれば最高だが、それが自分に向かって放たれている今、感動している暇もない。

 つーか、躊躇なしかよ! トリーさん鬼畜だな。まあ、煽ったの俺だけど。

 貴重な芝生をえぐるように焼き焦がしつつ、トリーから俺に向かって連続して炎が放たれた。走って跳んで逃げての地道な回避で辛うじて直撃は免れているが、基本インドア派なので体力はあまりない。おまけにこうも次々と炎で地面を焼かれてしまうと、せっかくクルスとギュスターが苦労して撒いておいてくれた水が瞬く間に蒸発し、もう空気中にすらほとんど残っていない。

 第一、これだけ動き回り、炎で風が巻き起こっていると、先程のような簡単な水分の膜すらうまく作れない。光の反射角度など繊細なコントロールが必要な虹や鏡を作るなど、考えるのも無駄だ。そもそもこの戦局を変えるのに、何の役にも立たない。これが実戦というものか。今やこの戦いが微妙な均衡を保っている要因は、俺の運動神経が悪くないのと、トリーが本当の本気でないことだけだ。

 とはいえ、能力を使うのも相当疲れる。トリーは攻撃を始めてから一歩も動いていないが、中庭を走り回っている俺と同じくらい息を切らしていた。あれだけの炎を自在に操っているのだから当然だ。けれど次の瞬間、俺は焼け焦げた芝生につまずき、トリーの放った炎が目前に迫った。反射的に空気中からなけなしの水分を集め、辛うじて膜を作って防御する。完全に駄目もとだったのに、何故か極薄の水分の膜に弾かれるように炎が横に流れた。

 野次馬はもちろん、トリーも驚いているようだったが、俺は理解した。トリーの炎は、やはり普通の炎の民が操るものとは違う。ただの炎ではない。電気を帯びているのだ。かつて俺がいた世界にそんなものが存在したかは知らないが、少なくともこの世界には存在する。電気を帯びた炎。この世界でも恐らくハイブリッドであるトリーだけが使える能力。だからこそ、逆にあんな薄い水分の膜でも防げた。まあ、一瞬で相殺したけど。

 トリーが光と炎の混血だと気づいたときから、もしかしたらと思っていた。攻撃が炎一辺倒に切り替わってしまったから駄目かと半ば諦めていたが、これで俺の切り札が使えることを確認できた。俺は間髪入れずリアムに手信号を送った。

≪思い切りぶちまけろ≫

 瞬間、上のほうから俺たちに向かって水が降り注いだ。……いや、正確にはただの水じゃない。塩水だ。俺が食堂で念のため手に入れ、リアムに渡したブツ、それは塩だ。リアムにはそれを桶の水に溶かし、できるだけ近くで待機しているよう頼んでおいた。どうやらリアムは渡り廊下の屋根に上り、俺の合図を待っていたらしい。さすが剣士の館で万年学年二位の成績だっただけのことはある。……ったく、これのどこが出来損ないなのか、本当に聞いて呆れる。遠くからの応援マジ感謝、だ。

 俺は素早く、そして全力でその塩水が地面に降り注ぐ前に霧状に変え、トリーに向かって放った。実のところこれで上手くいく確証は全くない。塩という不純物を含んだまま、風のある屋外で正確に操るのはかなり難しい。重いし、何より水分に意識が行き渡らない。膜状にすらできないが、恐らくこの濃密な霧状が最適解なのもわかっている。

「……っし、くらえーっ!」

 俺が初めて攻撃に転じたことに僅かな驚きを見せつつも、トリーは鼻先で笑って炎で応戦した。当然、炎はそんな霧など簡単に突き抜けるかに思えたが、実際には炎が霧に突っ込んだ瞬間、一気に三倍以上に膨らんで暴発した。

 広範囲の芝生が見るも無残にえぐり取られ、あたりに粉塵が巻き起こり、土や小石が遠くまで飛び散っている。ふと見たら近くにある伝えの塔の石造りの壁が黒く焼け焦げていた。どこも崩れていないのは想像以上に頑丈だったからか、爆発の威力が思ったより小さかったからか、距離が少し離れていたからか。とにかく不幸中の幸いだった。

 大きく咳き込みながらも、反射的に壁際に身を寄せていた俺は何とかすぐに立ち上がり、トリーが吹き飛ばされたであろう方向に歩き出した。俺はこの結果を予想していたが、トリーは完全に不意を突かれたはず。大きな怪我をしていなければいいのだが。

 風が吹き、粉塵が少しずつ薄れ、俺は倒れているトリーに駆け寄った。

「トリー! 大丈夫ですか?」

 取り敢えず見えるところに大きな出血はないようだ。安心はできないが、俺が恐る恐る覗き込むと、トリーは盛大に咳き込みながらも、自力で起き上がった。

「ゲホゲホッ……まったく、最弱の水の民が聞いて呆れるの。お前の専売特許は占いだって聞いてたの。とんだデマだったの」

 俺は曖昧に笑って誤魔化し、今度こそ真剣にトリーに尋ねた。

「怪我はありませんか? どこか痛いところは?」

 トリーは土埃とススで汚れた仏頂面で俺を見た。

「見ての通り擦り傷と切り傷だらけだし、体中いろいろぶつけてすごく痛いの」

「すっ、すみませ……」

「でも」

 あわあわと言いかけた俺を遮り、トリーは続けた。

「大丈夫なの。お前が心配しているような、大きな怪我はしてないの」

「それは……よかった! 本当によかった!」

「そういうお前もボロボロなの。さすがにちょっと無茶しすぎなの」

 俺は軽く肩を竦めてみせた。

「女性を口説くのに、無茶のしすぎなんてことはないんですよ。それも、自分より年上の素敵な女性が相手なら、尚更ね」

 トリーは呆れたように、盛大なため息をついてみせた。

「やっぱり聞いてたの。さっきここに来る途中なの?」

「はい。リアムから教えてもらいました」

 そう、中庭に着く直前、トリーが俺たちのほうに振り向くまでの短い時間で、リアムが俺に怒涛のように送った手話の内容がこうだ。

≪あいつ・年・二・十・一・本当・見た目・とても・若い・混ぜる・人・少し……≫

 これのおかげで俺の違和感の正体がわかったし、今後の対応もちゃんと考えることができた。トリーを一番怒らせていた理由が、彼女を子供扱いしてしまったことだとも理解した。以後、トリーに対し年上として礼儀正しく振舞ったことで、俺の話もきちんと聞いてもらえるようになった。今回の件に関して、あらゆる面でリアムの功績は大きい。

「今、トリーとこうして無事に話ができているのも、リアムのおかげです」

 俺がにこやかに答えると、トリーは改めて呆れたように盛大なため息をついてみせた。

「よく、そんなことをすぐ信じたの。しかも、あれの言うことを」

 まあ、確かに驚きはしたが、合法ロリは二次元では定番だからな。が、それ以上に。

 俺は少しだけ自制しつつも、すっと目を眇めた。できるだけ優しい声で言う。

「……トリー、今のは聞かなかったことにします。ですから、今度から俺の前でそういう発言をするときは気を付けてくださいね。以前はともかく、今の彼は俺の大切な友人なので。もちろん、また問題を起こしたというなら、真っ先に俺にお知らせください。真偽を確かめたうえで、きっちりと対処いたします」

 俺の微笑みを目にすると、さすがのトリーも顔を引きつらせ、それからゆるりと脱力した。

「……まったく、お前のほうこそ年齢詐称の疑いがあるの。ただの十歳児とは思えないの」

 思わずぎくりとしつつも、俺はわざとらしく過剰に無邪気を装って言った。

「そうですね、俺、十一歳なので!」

 瞬間、トリーに思い切り指で額を突かれた。

「痛ッ! いきなり何するんですか!」

「それはこっちのセリフなの! いくら何でも下手すぎなの! 私をおちょくるとはいい度胸なの!」

「ちょっとふざけただけじゃないですか!」

「少しは自分の立場をわきまえるの!」

 ぎゃあぎゃあと二人して騒いだあと、俺とトリーは顔を見合わせ、どちらともなく笑い出した。緊張感が緩んだ反動もあり、俺たちはしばらくケラケラと笑い合っていたが、ようやく発作的な衝動が収まり、息をついた。けれど俺がいよいよ本題に入ろうとしたとき、トリーは肩を落としたかと思うと、座り込んでいた地面からのろのろと立ち上がった。

「……でも、私が負けたのは誰が見ても一目瞭然なの。お前の勝ちを認めるの」

 俺は急いで立ち上がると、悄然としたトリーが渡り廊下に向かって歩き出そうとするのを引き留めた。

「待ってください。まだ何も終わってませんよ」

 むしろここからが一番大事なところだ。インドア派で人前に出るのが嫌いな俺がこの衆人観衆の中、中庭を走り回ってまで頑張ったのは、ひとえにこのためだといっても過言ではないのだから。

「何を言って……」

「俺の勝ちを認めてくれるのなら、ご褒美をおねだりしてもいいですか?」

 警戒するようにトリーの眼差しが鋭くなった。

「……内容にもよるの」

「もちろん! ただのおねだりですから、俺の提案を受け入れるかどうか決めるのはトリーです」

 ギャラリーが一番多い渡り廊下からの見え方を考慮し、俺はさりげなく立ち位置を変えた。そのうえで右手を胸に当て、頭を深く垂れると、俺は恭しくトリーの前で片膝をついた。この世界における最上位のお辞儀だ。こうすることでミニマムな身の丈のトリーが相手でも、俺との立場が視覚的にも明確になる。周囲からどよめきが沸き上がるのを聞きながら、俺は左手をトリーに差し伸べた。

「どうか、これからも俺があなたを可愛いと思うことをお許しください」

「…………もう! 本当にタチの悪い男なの! お前の勝手にするの!」

 叩きつけるように、トリーは指先で俺の左手に触れた。これで俺の申し出は正式に了承されたことになる。俺は触れているトリーの指先を軽く握り、そっと顔を上げた。トリーの頬は赤く染まっていた。

 思わず口元を緩めていると、すかさずトリーにぴしゃりと言い渡された。

「口に出すのは許さないの!」

「はい、トリー」

 俺は素直に頷き、立ち上がった。ひとまず、これで俺の目的は達成された。俺の目的、それはトリーのここでの立場を守ることだ。見た目と中身の不一致という状況で日々を過ごすのがどれほど大変なことかは、俺も身に染みて知っている。

 それでも俺は一度死んでからの転生だから、むしろ今生があるだけでラッキーという感じだが、トリーを取り巻く状況は俺より遥かに厳しい。リアムから仕入れた情報の真偽はともかく、七歳ほどの見た目のまま体の成長が止まり、二十一歳としての自我を持って生きるのは普通に辛い。

 しかも周りには本物の子供が大勢いて、図体だけは自分よりどんどん大きくなっていくのだ。はっきり言って、そんなの脅威でしかない。俺が生まれたての赤ん坊のとき、五歳児の兄が一人いるだけでも十分怖かったのだから、それ以上に恐ろしい環境でずっと過ごしてきたトリーには、本当に心の底から敬意を表する。

 だからこそ、トリーが今まで苦労して築いてきたであろう不可侵の地位を、ぽっと出の俺が不用意にした発言や行動で壊してしまうわけにはいかなかった。そんなことは、他ならぬこの俺自身が断じて許さない。

 しかし周りの誰にも舐めた態度を取られないよう、常に威嚇しながら生きていくのは大変だ。しかも今日のことでも明らかなように、この方法は盤石ではない。それでも今までうまく機能していたのも事実だ。その状況が俺のせいで揺らいでしまったのなら、せめてこれから少しでも彼女が過ごしやすくなるよう、この環境を変化させる努力をしたい。トリーの不安定な立場を改善するのに助力をするのも、贖罪の一つの形であろう。

 もちろん、この先うまくいくかはまだわからないが、少なくともここにいた野次馬どもはトリーを軽んじてはいけないことを再認識したはずだ。俺としてもただただトリーに屈服されられるわけにはいかなかったので、取り敢えず一矢報いることはしたが、俺の本意がどこにあるかは最後のデモンストレーションで存分に知らしめた。これでトリーが俺たちと少しでも仲良くしてくれたら、俺としても嬉しい限りだ。

 俺はトリーの手を握ったまま、小さな声で言った。

「……トリー、可愛いっていうのは実はすごい力でもあるんですよ。うまく使えば、トリーのように飛びぬけて大きな炎や光を操ることができなくても、周りの人を思い通りに動かすことだってできるんです。しかもトリーは実際に誰にも負けないような強い能力を持っている。何より頭がいい。可愛くて賢くて攻撃力も高いとか、本当に最強じゃないですか。だから、可愛いことを怖がらなくていいんですよ」

 けれど俺がトリーの手をそっと放そうとしたとき、反対にきゅっと握られた。問うように顔を向けると、俺の顔は見ないまま、トリーが呟くように言った。

「……お前の言うことは、理解はできても、実行はできないの」

「まあ、こういうのは向き不向きもありますし、難しいのはわかります。少しずつ慣れていけばいいんです。何なら俺が毎日特訓してあげますよ」

 俺がからかい気味に言うと、トリーにすかさず睨まれた。

「お断りなの! 口に出すのは許さないの!」

「それは残念です」

 俺があっさり引き下がると、トリーは何とも言えない面持ちになり、きゅっと唇を結んで下を向いた。

「……でも。た……たまに、二人だけのときなら、許さないこともないかもしれないの」

 ……………………っ、ツンデレかよ!!! 可愛すぎるっ!!!

 声も出せずに悶絶していると、トリーは不意に俺の手を放し、渡り廊下へと駆けて行った。

「じゃあ、あとのことはお前に任せたの」

「……ん?」

 俺が顔を上げると、ちょうど渡り廊下に群がっていた野次馬どもがわらわらと散っていくところだった。その怯えたような視線の先に目をやると、中庭の奥から鬼のような形相で迫ってくる二人の屈強な庭師が、挟み撃ちをするように俺の退路を塞いだのがわかった。ちなみにこの時点ですでにトリーの姿は跡形もなく消え去っている。

「やられた……」

 ……とはいえ、有名な某大泥棒が毎度のごとく超絶セクシー美女に裏切られても、つい許してしまう気持ちを何となく理解してしまった。確かに悔しいが、その清々しい逃げざまが逆に小気味いいというか。むしろ危機察知能力の高さに称賛すら覚える。そういえば俺、腐女子時代からあんまり要領よくなかったしなぁ……。

 結局、伝導の館が誇る美しい中庭を史上まれに見る大惨事に荒らした犯人として、俺は一人、庭師と歌い手の伝導師からみっちりとお叱りを受けることになったのだった……。


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