17.逃走劇

 黒い荊棘で編まれた十字架に、アルは括り付けられていた。息をするだけで皮膚には無数の棘が突き刺さり、紅血がとめどなく滲み出ては、純白の舞台を点々と穢す。


 祈りにも似た針の筵。誰も彼もが死を唱える様は、一種の芸術たりえるのだろう。糸の入り込む隙さえないほどの共感性という暴力は、彫刻にすればさぞ荘厳な仕上がりになるのだと予想ができた。


 アルの目線の先には、人への審判を告げる天使が佇んでいる。それは、死に逝く者への花束を――金色こんじきの処刑剣を携えていた。

 彼女の動きに合わせて、白翼に似た豊かな長髪が蕩揺する。真紅の眼は死そのもののように冷たく、アルを射抜く。


「哀れだな、人間」


「ククッ、テメェは相変わらずへったくそな演技だな」


 縛められ血を滴らせる罪人が、偽りの天使を嗤う。

 冷め切った赤色に、熱い雫が転がされた。氷が溶けたかのように彼女の瞳は潤んだが、大衆の視線を一心に受けている今、水の膜をとろかすことはできないと唇を引き結ぶ。そして健気にも、切先を彼に向けた。


 美への冒涜者、醜き者に死を――――!


 金色が一番星の輝きを帯びたと同時に、民衆は叫ぶ。同じ顔で、同じ声で。歪んだ仮面共を見下ろすアルの乾ききった唇が、壮絶な三日月をかたどった。


「本当の天使様の美しさも知らねぇで……冒涜者ってのは、テメェらの方だろうがよ」


 世界とは、一つのキャンバスである。描き出されるのは、己の目に映せたものたち。本来それに限りはなく、生命が続く限り色を失ったり鮮やかにして、広がり続けるものだ。

 だが、彼らは違う。美の棺、牢獄。起から結に至るまでを、至上であると定められた価値観の中でのみ息をしている。


 ある特定の価値観――色と景色のみが描き出されているアルのキャンバスもまた、一般的なものと異なるのだろうが。

 それでも彼は、世界を生きている。キャンバスの中心にある景色は変わらずとも、端々には確かな色彩が息をしていた。本人にその自覚と、興味がなくとも。


 だからこそ、嗤うのだ。生きながらにして、棺に閉じこもった彼らを。


「それが、最期の言葉か?」


 くだらない。

 吐き捨てられた言葉と共に、処刑剣は振り上げられた。

 アルの赤錆の眼はただ、その星芒を映す。死という存在を、上から眺めるかのように。

 血が落ちた。観客は息を呑む。切先が空を裂き、アルは瞼を下ろす。彼らの祈りが最高潮に達した、その時――――


「そこを、退いてくれ!」


 どごぉんと、人工的な轟音が扉を蹴散らした。何かが爆ぜたのかと口々に不安を叫ぶ人々はわけもわからずに、わけもわからない声に従って散らばっていく。

 ただ、彼らを見下ろしていたアルとエイルだけが、正体に気がついていた。二人の目先に、チェーンソーの駆動音に似た轟音は、ド派手に舞い降りる。


 鈍い黒の獣に踏み砕かれた豪勢な客席だったモノと、破砕された扉の破片が、そこかしこに散らばった。

 血と狂信じみた歓喜に満ちた劇場が、一人の乱入者によって現実へと還元された瞬間だった。流麗な音楽も祈りも、全てが見事なまでに破壊されていた。


 観客たちは声を上げるのも忘れて、煙の奥で揺らめく人影を呆然と眺めている。


「大丈夫かい、アル!」


「なっ、お前……ラスト、じゃねぇ! ルクス! いや、尚更なんでいるんだよ!?」


 煙を蹴散らし、濡羽色が翻った。それは白い光を浴びて、紫や黄、緑等の複雑な色を滲ませる。鴉の翼のような艶髪は、よく見ると頭の高いところで一つに結えられていた。


 見覚えのある相貌は、ラストではなくルクスのものだ。顔の判別が不得意なアルは、一拍遅れて彼の名を叫ぶ。

 いつの間にか、舞台からエイルの姿は消えていた。


 彼は煤で汚れた白衣を気にも止めずに、十字架に括られたアルの側へと駆け寄る。鈍い音を立てて、黒い獣――恐らくラスト愛用のバイクだろう――は倒された。

 ルクスは荊棘を腕尽くで引き千切る。掌は棘に裂かれ、血と共に拘束は解かれた。斜めに傾いたアルの体を、ルクスは支える。


「傷は?」

「問題ねぇ。お前の方こそ、手」

「僕の方は放っておけば治るから、君の傷を――」

「俺のこそ放っておけ! チッ、それより早く逃げんぞ」


 そう叫ぶアルの顔は蒼白で、既にかなりの血が失われていることが見てとれた。

 既に一部の人々は我に返り、舞台を台無しにした二人の罪人を糾弾していた。ルクスは出来のいいグレープのような青紫の眼差しを、困ったように伏す。そして、アルの背中をポンと押した。


「僕は〝医師〟だから。彼らを見過ごすことはできないよ」


 持ち上げられた眼差し。どこまでも透き通った眼には、底の見えない深海のような何かが、澱のように濁っていた。

 微笑む彼の唇は、子供をあやすかのように優しい。


「っ、テメェ。そんなんだからいつも」


 そうやって死ぬんだろうが――――!

 叫びたかった喉が、理性により引き攣った。

 悪は正義により滅び、正義は平和により崩される。それを知ってなお、彼はそう・・なのだろう。


「さぁ行って、アル! 僕の手の届かない

患者たちかれらを頼んだよ」


 だがそれは、とても傲慢なことでもあった。

 そしてこの都市において平等の正義とは、否定の価値観でしかなかった。

 ルクスの指が破壊された出口を指し示す。その指標にガラスを流し込んだかのように、一つの道が形作られる。それは、彼の結界を操る能力根絶壁を応用したものだった。


 アルは駆け出す。人々は彼に襲い掛かろうとしたが、道の役割を果たす結界に阻まれ、燻る槍の矛先は一斉にルクスの方へと向けられる。


『しかしその人間は知らなかったのです。平等は、時に人を蝕む毒になりうると言うことを』


 崩れた扉を過ぎた間際、またあの声が、魂の奥に滲む。それは錯覚のようでいて、けざやかな音色だった。


 一人の少年が、遠ざかっていくアルの背中を見つめていた。

 彼は生成色の愛らしい仮面を手に、喧騒の外に佇んでいる。その眼差しだけが獲物を喰らわんとするかのように、爛々とした、青色を帯びていた。

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