13.夜明けと繋ぐ手
船上の巨大な怪物から離れようと、輸送ヘリが上昇する。
ふと気付けば東の空がうっすらと明るくなってきた。
夜明けが、近い。
古来より人知が及ばぬ怪異は、暗闇の中でこそその力と存在を誇示できるという。
逆に言えば、光が差して闇が払われば力を失うということだ。
「とはいうものの……」
すぐ目の前に、深海に潜む者達の親玉が立ちはだかる。
クルーズ船一隻と融合した巨大な異形の怪物。
見上げる程に大きく、醜悪で、おぞましい存在。
相対しているだけで震え上がりそうな本能的な恐怖を、理性で強引に捻じ伏せる。
これから、この怪物と戦うのだ。
他でもない自分が、只の矮小な人間が。
「夜明けが、遠いな……」
絶望する――当然だ。
恐ろしい――当然だ。
逃げ出したい――当然だ。
人間であれば当然のことだ。
「……だけど」
誰しもが感じる脅威を前に、一歩だけ。
「それでも」
意地でも前に、足を踏み出す。
死中に活を求める――とは、まさにこのことだ。
絶望しても這い上がり、喰らい付き、立ち向かう。
それもまた『人間』であるに違いない。
有史以来、科学が存在すらしなかった遥か昔から、人間は恐ろしい存在と常に戦い続けてきたのだから。
ちらりと、横目で隣に立つ男を見る。
彼もまた望んで死地に残り、己の全てを懸けて戦うのだろう。
決して折れず、何物にも侵されない信念に基づき。
決して譲れず、守りたいものがある。
お互いに死ねない理由がある。
だから、生きるために戦う。
――
***
怪盗〈幻影紳士〉は銀子の助手である藤原優利の顔に変身した。
撹乱させる邪神が退場してクロガネに化ける理由がなくなったとはいえ、なぜ優利の顔を選んだのだろうか? だが今は、それを問う余裕もない。
クロガネはファイブ・セブンを、怪盗はP90を。
それぞれの得物を『ダゴン』に向けて連射する。
放たれた銃弾の群れは、分厚い皮膚を貫いてどす黒い血を流させるが、大したダメージは与えられていないようだ。
如何せん、敵のサイズが大き過ぎる。
これでは防弾繊維を貫通する弾丸も豆鉄砲同然だ。
「的が大きいから外さないけど……」
「完全に火力不足だな。まずは急所を探るか」
それぞれリロードを行いつつクロガネは右に、怪盗は左に展開。
どちらを狙おうか魚人が逡巡している隙に、クロガネは甲板上に落ちていたAKを拾い上げるやフルオートで発砲。走りながらかつ碌な狙いも付けずに全弾撃ち切り、即座に捨ててはまた別の銃を拾って撃ちまくる。
致命傷に届かないとはいえ、矢継ぎ早に攻撃されて鬱陶しくなったのか、魚人はクロガネに向かって腕を払った。
「ふッ!」
巨大な丸太のような一撃を、クロガネは身を投げ出す勢いで躱しつつ新たな銃に飛び付き、魚人に攻撃を続ける。
「まさか率先して囮をやるとは、良い人じゃないの」
その間、怪盗は魚人の様子を観察する。
ライフル弾でも文字通り擦り傷程度のダメージしか与えられない。
しかも、受けた傷が時間経過で修復している。
「やっぱり再生が追い付かない程の火力で押し切るか、急所を狙うしかないか」
クロガネが魚人を引き付けている間に、目当ての武器の元へ辿り着いた怪盗は口笛を一つ。
「おあつらえ向きだな」
クロガネが拾っては使い捨てているライフル同様、先程までナディアと出嶋が射殺した半魚人の武器だろう。
よっこらせ、と怪盗はロケットランチャーを担ぎ、絶好の発射位置に移動すると、魚人に向けて構えた。
「アール、ピー、ジーッ!」
そう叫びつつ、RPG-7の引き金を絞る。
栓が抜けるような音と共に発射されたロケットは、魚人の大きな目玉に直撃し、爆発した。
『GAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAッッ!!?』
魚人が初めて苦悶に満ちた悲鳴と共に消し飛んだ片目を押さえて身をよじる。
無事な眼で振り返って見れば、既に怪盗の姿はなく、使用済みのRPG本体がその場に転がっていた。
「おい」
思いのほか近くから発せられた声に、再度振り返る。
「ッ!」
魚人の肩に乗り、文字通り目と鼻の先にまで接近していたクロガネと目が合う。
カチリと、その手にあったシングル・アクション・アーミーの撃鉄を上げたクロガネは、引き金を絞った。
――パアァンッ!
乾いた銃声と共に発射された銀弾が、魚人の残った目玉を貫いた。
外しようがない至近距離から放たれたとはいえ、所詮は拳銃弾。
ロケットランチャーと比べれば、魚人には痛痒すらならない――筈だった。
着弾した銀弾を中心に、目玉の表面が突然泡立ち、次の瞬間には破裂した。
『GYAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAッッッ!!!』
RPGが直撃した以上の悲鳴を上げ、魚人はもがき苦しむ。
両目の視力を失い、手当たり次第腕を振り回して暴れる魚人の死角に、いち早く避難するクロガネ。少し遅れて怪盗が合流する。
「怪物にとって、銀の弾丸はまるで猛毒だな」と怪盗。
「ああ、まさか本当に効くとは思わんかった」
魚人は耳障りな叫び声を上げて癇癪起こした子供のように出鱈目に腕を振り回し、甲板に叩き付ける。激しく揺れる船体から海に投げ出されないよう、探偵と怪盗は手近にあった手摺りに掴まって必死に耐える。
「急所に銀弾ぶち込めば、もしかして倒せるんじゃないか?」
「だけど、残り五発で倒し切れるだろうか?」
僅かな希望を見出した怪盗に対し、クロガネは渋い表情で手にしたリボルバーを見る。
「それなら、魚人の『核』に直接撃ち込んでみるのはどうだろう?」
怪盗の提案に、クロガネはハッとなる。
「……【宵闇の貴婦人】――いや、トランペットヘドラだったか?」
「何だその楽器とゴジ○怪獣が合体した愉快な名前は? 【トラペゾヘドロン】な」
「確かに急所らしい急所と言えるけど……」
余裕とも取れる掛け合いをしている間に、魚人の両目が再生されていく。
だがRPGで破壊した目玉より、銀弾で撃ち抜いた目玉の再生の方が遥かに遅い。
「どうやってその【トラペゾヘドロン】を探り当てて引き摺り出す?」
「そこらに落ちているロケランやらバズーカやらで、ガワを抉るのは?」
「脳筋か」
「せめてゴリ押しと言ってくれ」
「同じだ同じ」
修復を終えた片目で、魚人は二人の姿を捉える。
「仕方ない、採用!」
「もう一度囮役は任せた!」
クロガネはリボルバーを腰裏のベルトキットにねじ込んで走り出し、同時に怪盗も逆方向に駆け出した。
再び散開するや、クロガネはオープン回線のままにしていた無線の向こうに居る相棒に指示を出す。
「聞いての通りだ! ロケランが落ちている場所を怪盗に伝えろ!」
『了解』
『――微力ながらこちらも援護しよう』
美優と出嶋が応答するや、上空のヘリから援護射撃が魚人に降り注いだ。
美優がアサルトライフルを、出嶋がマシンガンを、新倉がグレネードランチャーを、ナディアが対物ライフルを、それぞれ撃ちまくる。
そして銀子はというと。
「マガジンを!」
「はい! えっと、コレ?」
「いや、そっち」
「あ、こっちか。はい!」
せっせと空になった弾倉に新たな弾薬を詰めては、各自に手渡していた。
ボロボロになった甲板を駆け抜け、半魚人の
傷口に塩を塗り込むようなものだろう。これには空から降り注ぐ大口径のライフル弾やグレネードよりも効いたらしく、魚人は短く悲鳴を上げて身を捩った。
そして怒りに歪めた形相を浮かべ、クロガネに向けて腕を振り被る。
「おっと」
余裕たっぷりに、バックステップで振り下ろしてきた腕を躱すや、AKを捨ててその腕に飛び乗り、一気に駆け上る。
これには魚人のみならずヘリの仲間たちも度肝を抜き、慌てて銃撃を中断した。
硬直した魚人が動き出す前に、ベルトに吊っていた手榴弾を手に取ってピンを抜く。
駆け上った勢いのまま跳躍し、
「喰らえっ」
唖然と開かれたままの魚人の口に、手榴弾を放り込んだ。
一拍置いて、魚人の口内で爆発が起こる。
「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■――――ッ!!?」
悲鳴を上げてのけ反る魚人の背中にナイフを突き立て、その肉を裂きながら落下の勢いを殺すクロガネ。
口元を両手で押さえて身を捩る魚人に連動して背中の筋肉が収縮し、パキンッとナイフの刀身が折れてしまった。クロガネの身体も宙に放り出される。
「うぉッ⁉」
咄嗟に義手を伸ばして肉感のある安全柵に掴まる。
危うく暗い海に真っ逆さまになるところだった。
折れたナイフを捨て、両手を使って柵を乗り越える。
ふぅ、と安堵の息を一つ。流石に肝が冷えた。
クロガネは周囲を見回す。
現在地は魚人の背中側、船の側面にある通路だ。
魚人の身体に浸食されて同化しているせいか、通路の壁も床も悪臭漂う青黒い筋肉や血管らしきものに覆われている。視界に映る全てが歪で生々しい上に生温かく、所々で脈動しているため怪物の体内に居るかのようだ。
「気持ち悪っ」
顔をしかめつつ、クロガネはファイブ・セブンを手に魚人の背中側――船の後方へ歩を進める。船首側に戻ろうにも、肉壁が阻んでいるため戻れない。懸垂の要領で柵の外側を伝って戻る手もあるが、無防備なところを魚人に叩き潰されるのがオチだ。
必然的に、船内へ進むしかなかった。
『クロガネさん、ご無事ですか⁉』
「ご無事ですよ。今、魚人の背中側に居る」
切羽詰まった美優に無事と現状を伝える。
「とりあえず、甲板に戻るルートを探してみる。そっちは怪盗の援護を継続、状況次第では怪盗を回収して離脱してくれ」
『……解りました。どうかご無事で』
必死に感情を抑えた声音で渋々了承する美優に、思わず苦笑する。
「聞いての通りだ。悪いけど、しばらく一人で頑張ってくれ」
『無茶言うな』
怪盗が呆れた様子で応答した直後、一際大きな爆発音と魚人の悲鳴が上がり、船体が大きく揺れた。
恐らく、怪盗が再び放ったロケットランチャーが炸裂したのだろう。
『こいつを仕留めるには、そちらの銀弾が必要だ。粘るにしても限度があるし、早いとこ戻って来てくれ』
「解った。無事で居ろよ」
『そちらもな』
通信を切り上げ、クロガネは先を進む。
***
「……クロガネさんのPID信号ロスト。船内へ入ったようです」
ライフルを眼下の魚人に撃ち込みながら、美優は不安を押し殺した表情で仲間たちにそう伝える。
機械人形である美優と出嶋はともかく、新倉、ナディア、銀子の三人はヘッドセットをしっかりと装着して銃声や爆音から耳を守りつつ会話を行っていた。
「船内の監視カメラで追跡できないのか?」
新倉の問いに美優は「出来ません」と首を振る。
曰く、あの魚人と一体化した影響で船内のカメラやネット回線が死んでしまったらしい。
「――とにかく、今は〈幻影紳士〉の援護だ。可能であれば、せめて例の『核』の
「それまでに弾が無くならなければ良いけどナ」
焼き付いたミニミの銃身を交換する出嶋に、対物ライフルの弾倉を交換しながらナディアがどこか焦った表情を浮かべる。
対怪物用として大量に持ち込んだ武器弾薬が、そろそろ枯渇しそうな気配を漂わせている。ヘリの残り燃料も考えれば、長期戦は避けたいところだ。
最優先目標である美優と銀子両名の救出に成功した以上、すぐにでもクロガネと怪盗を回収して離脱するのが最善なのだが、眼下の魚人を野放しにするわけにもいかない。
獅子堂重工の圧力と美優のハッキングによる情報操作によって、HPLに関連する怪物たちの情報は外部に漏らさず抑えられている。だが、それも時間の問題だ。
もしも、HPLの存在と情報が拡散され、一部の者が認知した上で悪用しようと考えれば、それこそ『混沌』の異名を持つかの邪神の思う壺だろう。
最悪の結果として、世界そのものが滅んでしまいかねない。
「ああもうッ! 本当にどうしてこうなった⁉」
意図せず世界の命運を左右する怪事件に巻き込まれた銀子は頭を抱える。
彼女の疑問は、この場に居る全員の心の声を代弁したものだった。
「…………――――まずい」
唐突に硬い声音で呟いた美優の一言に、全員が一斉に身を強張らせて動きを止めた。
この極限の状況下において、頼もしいガイノイドのネガティブ発言は、一気に不安に陥るには充分な破壊力を秘めている。
「……まずいって、何があったの?」
銀子が恐る恐る訊ねた。
「……簡潔に三行でまとめると」
硬い表情で、美優が告げる。
「〈サイバーマーメイド・日乃本ナナ〉が」
「あの魚人を殲滅対象に値する脅威と断定し」
「最寄りのイージス艦の
「たった今
衝撃の展開に銀子は思わず、
「……四行じゃない?」
「「「そこじゃねぇッ!!」」」
現実逃避をしてゼロナンバーの三人から総ツッコミを受けた。
「要はあの怪物に向かってミサイルが飛んで来るんだろッ⁉」
「――確かに、ハープーンの火力なら殺し切れるか?」
「ンなこと言ってる場合カッ! クロがッ! クロが危険で危ナイッ!」
珍しく慌てた様子の新倉に、冷静な出嶋、激しく取り乱すナディア。
「早くクロに伝えないト! クロ! クロッ! …………駄目カ!」
すぐに通信を試みるナディアだったが、やはり船内に居るクロガネには届かないらしい。
「ユーリ……じゃなくて、怪盗! 今すぐソイツを倒すなり滅ぼすなり出来ない⁉」
『……いき、なり通信して、きて無茶言わんッ、でくださいッ!』
銀子が魚人と戦闘中の怪盗に危機を知らせる。
「早いとこ逃げないと、その船にイージス艦のミサイルが撃ち込まれるわよッ!」
『はぁァッ⁉』
無線機越しに、驚愕の声を上げる怪盗。
『ちょ、何でイージス艦? まさか、自衛隊や政府がこの騒ぎに気付いて?』
「――いや、それはない。美優が言うには〈サイバーマーメイド・日乃本ナナ〉の独断……国を護るAIとしての防衛機能が働いたのだろう。恐らく今回の事件にHPLが関与していると気付いている人間はごく一部だけの筈だ」
『クソッ! AIの独断でミサイルぶっぱとか、本当にふざけた世の中だな!』
出嶋の淡々とした補足説明に、怪盗は忌々し気にそう吐き捨てた。
そこはかとなく、高性能自律管理型AI――〈サイバーマーメイド〉と、AIによって管理されている現代社会に対して嫌悪感を抱いている節が見え隠れしている。
『そうだ! 安藤さんのハッキングで、何とか発射を阻止できない?』
「既にやってます集中したいので少し黙ってください気が散る」
『アッハイ、すんません……』
ぴしゃりと美優に叱られ、すごすごと引き下がる怪盗。
ライフルを手に目を閉じ、沈黙した美優を気にしつつ、機上に居る他の者達は引き続き魚人に銃撃を行っている。
――やがて。
美優が目を開いた。
「……申し訳ありません」
実に無念そうな表情とその言葉に、仲間たちが胸に抱いていた最悪の予感は現実となる。
「ミサイルは、発射されました。あと326秒後に、着弾します」
残り時間、およそ五分。
それが、クロガネと〈幻影紳士〉に刻まれたタイムリミットだ。
***
「方向は、こっちで合ってんのかな?」
魚人と融合したせいか、まるで魔界のような不気味な様相に変貌した船内を駆け抜けるクロガネの前に。
「みゃぁああ――(ババンッ!)」
「みゃ(バンッ! バンッ!)」
半魚人が二体立ちはだかるも、頭に二発撃ち込んで確実に撃破し、先を急ぐ。
触手がへばり付いて開かない扉は義手で殴って凹ませた際に生じた隙間から扉を掴んで引き千切ることで強引に突破し、道中現れた半魚人は即座に射殺して突き進む。
「ふッ!」
頭を撃ち抜いた半魚人を蹴り飛ばして一際大きな扉を開けると、僅かに明るんだ夜空と海が見えた。
「くっそ、ここは後部甲板か?」
船首方面とは完全に反対側だ。
『クロガネさん!』
外に出たことで通信回線が繋がり、切羽詰まった美優の声が聞こえる。
「どうした?」
『〈日乃本ナナ〉がその船に向けて、イージス艦のハープーンを発射しました! 着弾まであと198秒!』
「……!」
思わず息を呑むも、すぐに行動に移す。
どうして? 何故? と訊ねる時間も惜しい。
間もなくミサイルが撃ち込まれるのだけ知れれば充分だ。
周囲を見回す。
後部甲板は魚人の尾から背中にかけて融合しており、船首側にある本体に向かって緩やかな上り坂になっていた。
ここを伝って行けば、船内を引き返すよりも早く船首側に戻れるのでは?
そう思いながら見上げると。
「……ん?」
背びれの途中――船の二階ほどの高さに、見覚えのあるものが引っ掛かっているのが見えた。
「あんな所に……!」
クロガネは魚人の尾に飛び乗り、そのまま背中の上を駆け抜ける勢いのまま背びれに引っ掛かっていた機械仕掛けの傘を掴み取る。
「もうちょっとだけ、動いてくれよ」
祈るように呟いたクロガネは、機械仕掛けの傘――プロペランブレラ(仮)を展開し、跳躍した。
***
一方、船首側では。
「ええい、『核』はどこだッ⁉ うおッ危ねぇッ!」
怪盗がP90の弾倉を交換しつつ、魚人が振り下ろした腕を紙一重で回避していた。
「ハッ、ハッ……! くそ……ッ!」
受け身を取ってすぐに立ち上がるものの、疲労困憊で息は上がり、戦闘服の至る所が裂け、露出している肌には無数の掠り傷が刻まれて血を流している。
致命傷こそ受けていないが、時間の問題だ。
「いずれこの化物に圧し潰されるか、ミサイルで諸共吹き飛ばされるか……どちらも嫌だなぁ……」
『――そろそろ限界だ! 回収するからロープを受け取れ!』
「りょうか……ん?」
上空のヘリからロープが垂れ下がったのを見て振り返ると、怪盗は魚人の背後から機械仕掛けの傘を手に飛翔するクロガネを視認する。
そのまま魚人の顔の横を通り過ぎるかと思いきや、なんと高速回転するプロペラを魚人の片目に当てて切り裂いた。
「GAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAッ⁉」
悲鳴を上げて身を捩る魚人を尻目に、ついに大破した傘から手を離して甲板に着地するクロガネ。今に始まったことではないが、随分と無茶な真似をする男だ。
怪盗が呆れていると、今し方クロガネが切り裂いた魚人の片目から『何か』が飛び出して苦しんでいるのが見えた。
「おいクロガネ、あれ……!」
クロガネは怪盗が指差した方を見やる。
魚人の片目から飛び出したのは、中途半端に半魚人化した出目治だった。
彼の胸の中心――心臓に当たる部分が金色に光って明滅している。
「……見付けたッ!」
偶然とはいえ、ようやく見付けた魚人の『核』に声を弾ませる怪盗。
「ロープを寄越せ! 片側はそこに繋げろ!」
矢継ぎ早に指示を出したクロガネが、出目治の成れの果てに向かって駆け出す。
「えっ、そこって……ああ、そうかっ!」
一瞬戸惑うもすぐにクロガネの意図を理解した怪盗は、ヘリから垂れ下がったロープの片端を最初の魚人の一撃で崩壊した船首部分の柵にしっかりと結わえ付けた。
今にも船体から分断されて沈みそうな足場にひやひやする。
「ロープを!」
ボロボロになった船橋の階段から魚人の上体に跳び移って駆け上るクロガネに向かって、美優はヘリに固定していたロープのもう一方を解いて投げた。
受け取ったロープを出目の身体に何重にも巻き付けたクロガネは、甲板の方へ飛び降りつつ。
「ナディアッ!」
通信機越しに小さなスナイパーの名を叫んだ。
返答は銃声。
上空から放たれた大口径のライフル弾五発が、今にも分断しそうな船首部分と船体の境目を撃ち抜いた。
それが決め手となったのだろう。
崩壊寸前だった船首部分が、ついに船体側から完全に分断された。
暗い海へ沈没する船首部分とロープで繋がれていた出目の身体は、勢いよく魚人の目玉から引き摺り出され、甲板に叩き付けられて海へと引きずり込まれる――寸前。
怪盗がP90を連射してロープを断ち切り、惰性で滑り込んだ出目の肩を踏み止める。
天を見上げたまま両腕をだらんと下げて動かなくなった魚人を背後に、クロガネもその場に合流する。そして、おもむろに銀の弾丸が装填されたリボルバーを抜いた。
探偵と怪盗はうつ伏せになっていた出目の身体の下に爪先を入れ、蹴り上げるようにして仰向けにさせる。
クロガネはリボルバーの銃口を出目の心臓――金色に輝く【トラペゾヘドロン】に向けるや、カチリと撃鉄を上げて躊躇なく引き金を絞った。
乾いた銃声と共に放たれた銀弾は、【トラペゾヘドロン】を捉えた。
「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■――――ッッ!!?」
出目が悲鳴と共に全身を跳ね上げようとするのを、クロガネと怪盗の足が踏み押さえて阻止。
再び撃鉄を上げて引き金を絞る。
狙い過たず【トラペゾヘドロン】に銀弾が命中する。
絶叫して身を捩る出目の全身が液体状に崩れ始めた――瞬間、無数の触手となって渦を巻き、クロガネと怪盗を薙ぎ払おうとする。
クロガネが咄嗟に怪盗を庇い、義手を盾にした。
義手に触手が巻き付いた次の瞬間には、
「ッ!」
凄まじい力で義手の肘関節から捩じ切られてしまった。
一際遠くへ吹き飛ばされたクロガネは強かに頭を打ってしまい、意識が朦朧としてしまう。通信機越しに悲鳴にも近い誰かの声が聞こえた気がするが、よく聞き取れない。
断続した銃声。
霞む視界の向こうで触手に巻き付かれた怪盗が、出目治だった何かに向けて拳銃を必死に連射している。
やがて、カチンカチンと弾切れになった虚しい音だけが聞こえた。
頭を軽く振って何とか立ち上がったクロガネは、
「受け取れッ!」
銀のリボルバーを怪盗に向かって投げた。
自前の拳銃を捨て、自身に向かって飛来する切り札に手を伸ばす怪盗。
だが、あと少しのところで、いち早く触手が銀銃を絡め取った。
「んなっ……⁉」
愕然とする怪盗をよそに、触手が巻き付いたリボルバーはまるで飴細工のように銃身が折れ曲がり、メキメキと音を立ててフレームが歪み、亀裂が走る。
そして甲板に力強く叩き付けられ、切り札のリボルバーはバラバラに破壊されてしまった。
「くそ……ッ」
呆然とするクロガネの足元に、銀弾が装填された蓮根型の弾倉が転がる。
怪盗にトドメを刺そうとした出目の身体が、ナディアの狙撃によって弾けた。
全身に巻き付いた触手が緩んだ隙を衝いて怪盗は脱出する。
その場を離れた怪盗を追撃しようとした出目が突然爆発し、クロガネの前を横切って、魚人の手前まで吹き飛んだ。新倉のグレネードランチャーから放たれた榴弾が命中したのである。
『無事か?』と新倉。
「……今の、ギリギリだよ」
下手をすれば怪盗まで巻き込まれていた。
『礼には及ばんよ』
「…………」
戦慄する怪盗をよそに、出目はボロボロになった全身を引き摺りつつ魚人の身体に向かおうとしている。
『あいつ、また魚人と合体する気……?』
銀子の予想を肯定するかのように、出目の身体は宙に浮かび、背後の魚人と融合しようとしている。心なしか、異形と化した出目がどこか勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。
『――間もなくハープーンが飛んで来る。二人とも、ここまでだ。脱出しよう』
HPL関連の怪物を倒し切れなかった出嶋の未練がましい声に応えるかのように、AI制御のヘリが高度を落として失った船首側に寄せる。
「……クロガネさん?」
戸惑う美優をよそに、クロガネは魚人と再融合を始めた出目と対峙する。
軽く掲げた右手から、破壊されたリボルバーの弾倉と空薬莢が零れ落ち、その手には未だ健在な銀の弾丸が三発あった。
「まさか、まだ戦う気……?」
決して退く気がないその背中に銀子は愕然とし、「無茶です」と美優も続く。
怪物殺しの銀弾があっても、発射するための銃が無い。
まさか指の間に銀弾を挟んで直接殴ろうとしているのだろうか?
だが、その予想を覆すかのように。
クロガネは、手にした銀弾をコイントスのように指で弾いた。
***
ピィイン――と、非現実的かつ極限の状況下において、金属質の涼やかで小さな音が確かに響き渡った。
天高く、くるくると舞った銀弾が、やがて重力に引かれて落ちてくる。
寸前で。
もう一度、少し間を置いて更にもう一度と小さな金属音が鳴った。
三発もの銀弾が、くるくると宙に舞ってはやがて落ちてくる。
その下でクロガネが、ホルスターから拳銃を抜いてピタリと出目の心臓――【トラペゾヘドロン】に向けて待ち構えた。
クロガネは自身の脳から全身の神経を通って光が行き渡るようなイメージを思い描いた――瞬間、カチリと脳のスイッチが切り替わるような感覚と共に音が遠のき、世界が色褪せる。
――
体感で二秒間、目に映る全ての動きをスローモーションで捉えるクロガネの特殊能力だ。
まるで水中に居るかのように全てが重く、遅くなった世界の中で、じれったく思える程ゆっくりと、銀弾が回転しながら空から落ちてくる。
やがて。
構えた銃口の先に落ちてきた銀弾がその雷管を向け、銀の弾頭が【トラペゾヘドロン】を向いた――一筋の射線が重なった――瞬間。
勝利の確信と共に引き金を絞る。
手にした拳銃はファイブ・セブン。
P90と同じ5.7ミリ弾を使用することがその名の由来であり、ライフル弾のように尖った先端部分が、銀弾の雷管の中心を精確に射抜いた。
雷管を貫いた衝撃が、薬莢内の火薬に点火することで爆発が生じ、その推進力を以て弾頭が射出される。
曲芸じみた方法で二発目、三発目と立て続けに発射された銀弾は、魚人と融合途中だった出目の心臓――【トラペゾヘドロン】を射抜き、穿ち、貫く。
怪物の核であり、金色の怪しい輝きを放っていた黒い宝石に、大きな亀裂が走り。
真っ二つに割れた。
――直後、クロガネの世界が元の速さを取り戻す。
***
「グGYAAAA■■■■■ぁあアアAAァ■■■■■■あぁアアAAッッ!!?」
耳をつんざくような悲鳴と共に甲板上に落下した出目は、胸を押さえてもがき苦しむ。
絶望と憎悪に染まり切った表情でクロガネを睨み上げた。
と。
クロガネの背後――水平線から眩い光が溢れた。
朝日だ。
陽の光に照らされ、急激に全身から力が、命が消えていく。
現に身体の端から徐々に塵と化しているのが見なくとも解る。
……逆光で、自分を殺した憎き人間の顔がよく見えない。
せめてこの人間だけでも、未来永劫末代まで呪い祟ろうと手を伸ばす。
ふと。
伸ばしたその手が、温かく柔らかい手に包まれた。
「……え?」
目を凝らせば、目の前に愛した女性が居た。
幻影だろう、彼女の全身は薄く透けていた。
当然だ、彼女は既に死んでいる。
だが夢や幻であろうと、この手の感触と温もりは……。
彼女が優しく微笑んで、異形と化した自分に手を差し伸べ、握ってくれている。
「あ……ぁ……」
声が声にならない。彼女に伝えたいことや言いたいことが沢山あった筈なのに。
涙がこぼれてくる。幻影であろうと、彼女の姿がよく見えないのは辛い。
いつの間にか、身を焦がすような憎悪も、どこまでも堕ちていきそうな絶望も消えていた。
この身を満たすのは、溢れんばかりの幸福感。
「……ノ、ブ……コ……」
必死に人間ではない声帯を震わせ、心から彼女の名を呼んだ。
すると、彼女は頷き微笑むと光の中へ消えていく。
不安はない。恐怖もない。
今も彼女の手と繋いでいる感触がある。
彼女が、導いてくれる。
――満ち足りた笑みを浮かべたまま、出目治の全身は陽の光に焼かれ、塵となって消えた。
***
出目治が、巨大な魚人の身体が塵となって崩れていく。
やった。勝った。怪物を斃した。
死力を尽くし、精根を使い果たし、膝が折れそうになった寸前で、
「クロガネさん!」
「!」
美優の声が、途切れかけた意識を繋ぎ止めた。
手にしていた拳銃を捨ててすぐさま反転し、全力で走り出す。
怪盗は既にヘリに乗り込み、皆と同じように焦った表情を浮かべていた。
AI制御のヘリが徐々に高度を上げつつ離れようとしている。
イージス艦から発射された
分断された船体の端ギリギリで跳躍しようとして、ついにクルーズ船にミサイルが着弾し、爆発した。
「ッ!」
その衝撃でクロガネの体勢が崩れて跳躍に失敗し、ヘリのカーゴハッチに届かない!
落ちる……!
諦め悪く伸ばしたその手が、冷たくも柔らかい感触を覚えた。
美優がその身を乗り出してクロガネの手を掴み取ったのだ。
クロガネを吊り下げたままヘリは急速にクルーズ船から離れていき、二発目のハープーンが変わり果てた船に命中する。
塵になりかけていた魚人すら瞬く間に炎が包み込んで呑み込み、怪物たちの拠点となっていたクルーズ船はゆっくりと海に沈んでいく。
怪盗と新倉の手も借りて、クロガネはヘリに乗り込むと、どっと息を吐いて美優に力なくもたれかかった。
「……死ぬかと思った」
「はい、本当に今回ばかりは危なかったですね」
美優は優しくクロガネを抱きしめる。
「クロガネさんがご無事で、本当に良かった……」
ぎゅっと、美優は(クロガネの身体に負荷が掛からない程度に)より強く抱きしめてくる。
……流石に恥ずかしいし周囲の視線も気になるが、もう指一本も動かせない。
生き延びた安堵感から押し寄せる疲労と睡魔の波に抗うことが出来ず、クロガネは目を閉じた。
ヘリの窓から温かな陽の光が差し込んでいることくらい、瞼を閉じていても解る。
「暁の水平線に勝利を刻みましたね」
「……どっかで聞いたことあるな、そのフレーズ……」
美優の言葉に辛うじて合いの手を入れつつ、眠りに落ちようとする。
悪夢の夜は明け、世界は普段通り代わり映えのしない新しい朝を迎えた。
「今日は十月三一日、ハロウィンですね」
そういえば、そうだったな。
「祝勝会も兼ねて、ハロウィンパーティーでもしましょうか?」
「……しばらく、ホラーものは勘弁してくれ」
そう返答したのを最後に、クロガネは意識を手放した。
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