第217話

 カーミラを救出したあと、間もなくダム全体が崩壊を始めた。

 せき止められていた北側の水が一気に南側へと放流され、人造湖は一本の大河へと様変わりすることになった。ヴァーニィの城も、ダムの崩壊に巻き込まれる形でその半分以上が瓦解してしまった。


 シオンたちはというと、崩壊に巻き込まれる寸前のところで脱出に成功した。辛くもエレオノーラの魔術によって避難経路を切り開くことができ、誰一人欠けることなく生還することができた。


 そして今は、巨大な中州のようになったダムや城の瓦礫の上で、あと数分で訪れる朝日にどう対処するかを思案しているところだった。


「まずいぜぇ。東の空が明るくなってきた」


 ヴィンセントの言う通り、東の空が朱色を帯びている。


 ダムから脱出したあと、すぐに問題になったのはカーミラの体調だった。どうやら彼女の身体はすでに限界が近かったようで、ダムでのヴァーニィたちの交戦もあってか、酷く衰弱していた。すでに自力で立ち上がることすらも困難であるとのことだ。


 そこで、シオンたちは下手に移動することを止め、間もなく来る夜明けに備え、まずはこのダムの瓦礫を使って日陰を作ることにした。


「エレオノーラ、もう少し壁を高くできるか?」

「ちょっと待って。足場が脆いから、慎重にやらないと」


 エレオノーラが魔術でダムの残骸から日よけの壁を作り出していくが、足場が瓦礫の山であるため思うように固定できないでいた。無理に造れば周囲ごと崩れ落ち、河に流されてしまう危険もあるとのことだった。


 シオンたちが日陰に苦戦している傍らで、カーミラは、ローランドの胸に抱かれながら、頼りない呼吸をしていた。これまで見せていた猛々しい領主の威厳はそこにはなく、今すぐにでも息絶えそうなほどに弱っていた。


「カーミラ……」

「すまないな、ローランド。いつも私の厄介事に巻き込んでしまっている」


 そんな二人の間を割くように、太陽の光が無慈悲に迫って来ていた。

 リリアンが、少し焦った顔でエレオノーラを見遣る。


「エレオノーラ様、もう少し壁を高く――」

「いや、いいんだ、リリアン卿。これは、日の光の影響だけで弱っているわけではない」


 リリアンが小首を傾げると、カーミラは小さな声で説明を続けた。


「自分の我儘を貫いた報いさ。血を飲まなかったツケが、今このタイミングで来たというだけだ。むしろ、遅かったくらいだ」


 ローランドが同意するように無言で俯いた。

 それに気付いたシオンが眉根を寄せる。


「カーミラの身体は今どうなっている?」

「……血を長く飲まなかったせいで、クドラクが一種の飢餓状態になってしまい、宿主の血液や内臓を破壊してしまっている状態なんです。こうなってしまっては、他の微生物の感染症と同様に、体内のクドラクを除去した上で安静にさせるしか、治療の手段はないです」


 現状、クドラクに対する特効薬は存在しない。つまり、もう手の施しようがないということだった。


 しかし、カーミラはそんな現実を悲観した様子もなく、微かな笑みを顔に携えていた。


「これが最後の我儘だ、ローランド。朝日が昇ったら、私を日向に出してくれないか? どうしても、この目で、一瞬でもいいから、太陽を見たい……」


 吸血鬼にとってそれは、もはや自殺行為以外なにものでもなかった。

 だが、ローランドはそう頼まれることを始めからわかっていたかのように、


「……わかった」


 しっかりと了承した。

 カーミラが、満面の笑顔を見せる。


「ありが――」

「でも、最後になるかどうかは、まだ決めつけないでほしい」


 ローランドが突然、カーミラの言葉を遮った。すると、ローランドは自身の懐からペンケースのような箱を一つ取り出した。

 シオンたちの注目が集まる。


「それは?」

「対クドラク用の抗生物質――タルボスの試薬です。まだ治験もしていない物ですが……」


 箱を開けると、そこには一本の注射器が収められていた。


「おいおい、そんなもんを今からカーミラ様にぶち込もうってのか? 大丈夫かよぉ?」


 ヴィンセントの懸念は皆同じで、実践しようとしているローランドすら今一つ踏ん切りがついていない面持ちだった。

 しかし――


「やってくれ」


 その背を押したのは、カーミラだった。


「ローランド、お前のことは一度だって疑ったことはない」


 そう言って、カーミラはローランドの頬に手を伸ばした。


「私が人間や亜人と手を取り合おうと思ったのは、お前に出会ったからだ、ローランド。ヒトから恐れられ、そのことにただ怯えることしかできなかった私の生き方を変えてくれたのは、他ならぬお前だよ。お前のまっすぐで、誰にでも誠実に接するその姿勢に、私は心を動かされたんだ。だから、お前のやることを、私は信じよう」


 ローランドが、カーミラの手を取った。


「……ありがとう、カーミラ」


 そして、その腕に、注射器の針を打ち込んだ。

 ゆっくりとプランジャーが押し込まれ、中の液体――タルボスが、少しずつカーミラの中へ注入されていく。


 始めは穏やかにしていたカーミラだったが、次第に苦しむように顔を歪めた。タルボスがすべて体内へ入ったあとは、悲鳴のような短い苦悶の声を漏らすようになり、ローランドの膝の上で蹲ってしまった。


「か、カーミラ!」


 呼びかけながら、ローランドがカーミラの身体を後ろから抱き締める。

 その時、中州を形成するダムの瓦礫の大きな塊が、河の流れに浚われて下流へ流れていった。それに合わせて、シオンたちが足場にしている瓦礫が大きく揺れる。

 連鎖的に、日よけにしていた壁が崩れてしまった。

 幸いローランドたちを巻き込むことはなかったが――その瞬間に、太陽がついに姿を現してしまった。


「カーミラ!」


 太陽の光がカーミラに容赦なく降り注ぎ、それをローランドが覆いかぶさって遮ろうとする。

 そうしている間も、カーミラは小さな悲鳴を上げ続けていた。ローランドが庇いきれなかった部分から差し込んだ光が、カーミラの顔の左半分を焼いてしまっていた。


 慌ててエレオノーラが壁を造りなおすも――出来上がった頃には、カーミラはすでに静かになっていた。


「……カーミラ? カーミラ!?」


 ローランドが、動かなくなったカーミラの名を何度も呼ぶ。


 そして――


「……これが、太陽の光?」


 カーミラは、自身の顔の一部が焼けていることなどまったく気付いていない様子で、ふらふらと立ち上がった。慌てて寄り添うローランドに肩を借りながら、日よけの壁の外に、誘われるように出ていく。


「……綺麗だ」


 カーミラの赤い双眸は、確かに朝日を捉えていた。

 ローランドとカーミラは、目からとめどない涙を流しながら、瓦礫の上に両膝を付いて抱き合った。


 眩い朝日を背景に抱き合う男女を遠目に――シオンたちはほっと胸を撫でおろし、互いに顔を見合わせ、その胸中を共有した。


 ヴィンセントが、どかっと瓦礫の上に腰を下ろす。


「さて、と。あっちが一件落着したところで、俺らは次どうしますかぁ、お嬢様ぁ?」


 ヴィンセントに訊かれ、リリアンが口を動かす。


「ステラ様がいらっしゃる場所は判明しました。さっそくそこへ向かう準備を整えましょう」


 それにシオンが頷いた。


「ヴァーニィは他にも気になることを言っていた。カーミラたちが落ち着いたら、まずは彼女から聞き出した情報の裏取りもしておいた方がいいな」

「はい」


 とりあえず次のアテは決まったと、三人の騎士は小さく安堵した。


 その一方で、エレオノーラはというと――幻想的な景色の中でいつまでも抱き合うカーミラとローランドのことを、ずっと羨ましそうに見つめていた。


「何かロマンチックー……」

「私もシオンとあんな風になってみたいワー」

「いやほんと――」


 後ろからヴィンセントに茶々を入れられ、いつかの移動中の車内であった時のように、即座に拳で殴りつけた。







「……く、くそがぁ……!」


 朝日が顔を出した頃、瓦礫の日陰の中で、ヴァーニィは汚れたタワシのような有様で悪態をついていた。

 ダムから放流先へ流されたあと、なんとこの男は、しぶとく今この瞬間まで生き延びていたのだ。


「よくも、よくもやってくれたなぁ……!」


 放流された水に容赦なく全身を叩きつけられたため、すでに全身複雑骨折の状態だった。それでもなお生きられているのは、彼もまた超人的な生命力を持つ吸血鬼だからに他ならない。


「でも、生き延びてやったぞ……! 運は、僕に味方したんだ……!」


 苦し紛れに言って、一人勝ち誇る。


「今に見てろ、騎士ども……! 僕をここまで怒らせたのはお前たちが初めてだ……! 嫌というほど苦痛を味あわせてから殺してやる……!」


 そうやって一人でぶつぶつと怨恨を言葉にしていくが、ここであることに気付いた。

 身を隠している日陰が、徐々に小さくなっていることに。

 時間を追うごとに太陽の位置が高くなっているせいだと、ヴァーニィはすぐに気が付いた。


「と、とにかく、これ以上日が高くなる前に、ちゃんとした日陰を探さないと……」


 慌てて立ち上がろうとするが、全身の骨を折っているせいで、腕一つまともに動かすことができなかった。


「くそ……血があればこんな傷、すぐに再生するのに……!」


 そんな時だった。

 不意に、何者かが目の前を横切った。


 ヴァーニィはその人物を見て、最後の希望を見つけたかのように、表情を明るくさせる。


「お、おお! お前も生きていたか! ちょうどいい、助けてくれ!」


 そう言って呼びかけるが、その人物からは何も反応はなかった。


「おい、聞こえてないのか! 僕だ、ヘンリー・ヴァーニィだ! 早く助けてくれ!」


 そうしている間に、日陰はさらに小さくなっていく。


「お、おい! ていうか、何でお前、太陽の光を浴びても平気なんだ!? おい!」


 ヴァーニィが芋虫のように瓦礫の上を這いつくばる。


「なあ、おい! 返事をしろ! おい! おい!」


 だがそれも日陰がある場所までで、むしろ移動してしまったせいで余計に日の光に近くなってしまった。


「待ってくれ! 待って! 太陽が! 太陽が! 太陽がああああああ!」


 そして、日陰は完全に消滅した。







 そろそろ場所を変えてゆっくり休もうと、シオンたちは移動を開始していた。

 突如として断末魔が響き渡ったのは、そんな時だった。


 一同は驚きながら、断末魔の聞こえた方角――朝日の昇る東側を見遣る。


 シオンたちのいる場所よりも少し高くなっている瓦礫の山の上に、誰かが立っていた。


「……ルスヴン」


 “茨の光輪”を携えたルスヴンが、太陽の光を背に、こちらを見下ろしていたのだ。

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