【会社名物〝締日飛び〟】

【会社名物〝締日飛び〟】


 本筋から離れてしまうが、滝野さんがまだ残っている、8月中旬の話である。



 歳がわたしよりひとつ上で、3年目の先輩がいる。会社説明会で、話が上手い先輩がいる、と書いたのを覚えているだろうか。社長が嫉妬するほどの話し上手。●●先輩。彼だ。



 何でもそつなくこなす人で、フランクな性格ながらも仕事に対しては真面目な人だった。わたしたちと同じで、この会社に残る気はないようだったが。「そのうち辞める」とよく言っていた。とはいえ、責任感が強い人だったので、わたしは「なんだかんだで辞められないまま、ズルズル仕事続けるんじゃないかなぁ」と思っていた。


 しかし、そんな彼が会社に来なかった日があったのだ。


 何の変哲もない水曜日。いつもの時間になっても、彼が出社してこなかったのである。


 前も書いた通り、わたしたちは始業時間の1時間かそれ以上前に仕事場に来ているので、遅刻になることはほとんどない。しかし、その始業時間になっても姿を見せない。連絡もない。心配になった所長が電話しても、通じなかったのである。



 この仕事は、時間通りにお客さんの家に行くことがとても重要だ。何より大事だ。それは彼も重々承知だろうが、時間になってもやってこなかった。


 ただ、彼自身は体調不良で休んだこともあるし、一度寝坊で遅刻したこともあった。なので、「今回もきっとそうだろう」とわたしたちは高をくくっていた。電話にも目覚ましにも気付かずにぐーすか眠っているのだろう、と。


 なので、わたしは特に気にしなかった。いつも通り仕事をこなした。彼の姿を見ることなく、先に出発した。帰ってきたら、「どうしたんすか今日」「いやあ寝坊しちゃって」みたいなやり取りをするのだろう、と思いながら。


 けれど、滝野さんから電話が掛かってきた。昼ぐらいだ。その電話でわたしの認識が変わる。


「今日、●●くん、休みやん」


「遅刻じゃないんですか? もう出社して来てるでしょ」


「いやさっき、所長と電話したけど来てないって。連絡もないし」


「マジすか。もしかして、まだ寝てるんですかね」


「俺もそう思ってたんやけどさ。さっき、ほかの営業所の人と電話したときに『飛んだ』んじゃないか、って言われて。バックレたんちゃうかって」


「……いや、あの人に限ってそれはないでしょ」


「俺もそう言ったけどさ。……でも、昨日、締日やったやろ」


 あ、と声が出た。


 ●●先輩が休んだのは、締日の翌日だったのだ。



 これだけ無茶苦茶な会社だと、社員がすべてをほっぽりだしてバックレることは、それほど珍しくはないらしい。


 入社一週間でバックレ。


 引継ぎせずに地図だけ置いてバックレ。


 そういうこともままあったようだ。わたしが入社して1ヶ月目、ほかの営業所でもあったらしい。


 そして、彼らがバックレる日は、締日翌日のことが多かった。中途半端な日に辞めるよりは、そっちの方が後腐れないからだろう。


「うちの会社名物、〝締日飛び〟や」


 とんだ名物があったもんである。


「……でも、●●さん昨日の夜、ぜんぜんそんな素振りなかったじゃないですか。いつもどおり、さらっとお疲れーって帰って行きましたし」


「そりゃ君、『俺明日バックレます!』って空気出しながら帰る人はおらんでしょ」


 全く以てその通りである。


 そう言われると、物凄くありそうな気がしてきた。


 何せ、バックレる人の気持ちはすごくわかる。この会社は辞めるのも一苦労だ。川崎さんや滝野さんを見ていると、本当にそう思う。辞めたいと思っても、そう簡単に辞められない。めんどくせー! とすべてを投げ出したくなる気持ちはよくわかる。



 滝野さんから話を聞いて、本当に●●さんはバックレたのではないか、と思えてきた。心臓がバクバクと高鳴る中、これはもしかしたらチャンスかもしれない、と思い始める。



 もし本当にバックレだとすれば、彼の5日分の仕事はほかの人が引継がなくてはならない。滝野さんの引継ぎもあるから、さすがにもう平日には詰められない。土曜日出勤をするしかない。しかし、既に土曜日出勤は4人。空いている人は、滝野さんと●●先輩を除くと2人になる。わたしと所長だ。間違いなく、わたしも土曜日出勤に巻き込まれる。それでも3日分あるわけだが……、それはまぁ……、だれか3人が週7で働いて頂いて……。



 わたしは土曜日出勤なんてごめんだ。絶対に嫌だ。本当にそうなるなら、その場で退職届を書くことも厭わないだろう。すぐさま辞めたい。逃げ出したい。このイレギュラーな状況に乗じて逃げられるなら、それもいいな、と考え始めたのだ。


 そう考えながら、いつも通り営業所に戻った。


「いやー、今日はごめんねー、心配かけたねー」


 と、笑いながら●●先輩が出てくるかと思ったが、それもない。彼の車もなかった。所長に訊くと、連絡もないらしい。無断欠勤だ。



 ドキドキワクワクしながら、わたしは片付けに入った。間もなく滝野さんが営業所に帰ってくると、ふたりで冷蔵庫の中でこそこそと「やっぱバックレかな」「この時間まで連絡ないのはおかしいっすよね」と話に花を咲かせた。


 このときに印象に残ったのは、ほかの社員の反応だった。


 隅の方で、所長とベテラン社員がぼそぼそ話し合っていたのである。それはもう耳を大きくして盗み聞きした。



 そのベテラン社員は●●さんをとても可愛がっていて、彼の仕事ぶりをすごく評価している人だった。関係も良好だった。しかし、そのベテラン社員が所長に「あれはもう、帰ってこないと考えた方がいい」とぽつりと言ったのだ。



 リスク管理を思えば、それを想定する方がいいとは思う。いくら一年以上続けているとはいえ、無断欠勤はおかしい。あり得ない。何かある。とは思う。しかし、あまりにもばっさりと言うので驚いた。そういう経験が多数あるから出る言葉なのか、リスク管理に敏感なのかはわからない。ただその発言がとても心に残った。


 結局、●●先輩はなぜ欠勤したのか。


 結論から言えば、●●先輩はバックレてはいなかった。


 20時も半ばを過ぎた頃、所長に連絡が入ったのだ。


 事故ではない。良くない報せでもない。


 ……寝坊だという。


 夜の0時に眠り、19時までずっと眠り続けていたというのだ。


 睡眠時間19時間。その間、一度も起きることはなかったのだという。


 ……え。それ、本当に? 本気で言ってます? マジで寝坊? そんなことある? トイレも行かず、目覚ましにも電話にも気付かず、19時間ぶっ続け……? ただの平日の水曜日に?


 ……本当かどうかはさておき、本人がそう言うなら何も言えまい。追及できない。翌日、彼は出社し、欠勤したことを詫びた。実際はどうなのか、真相は闇の中だ。案外、本当に寝坊だったのかもしれないが……、いや、どうだろう? あるかなぁ、そんなこと……。


 正直に言えば、肩透かしだ。本当に彼がバックレていれば、また波乱が起きただろうに。楽しいイベントだったろうに。わたしも辞められるチャンスだったかもしれない。


 わたしは「混乱に乗じて逃げ出せたかもしれなかったのになー」と滝野さんに愚痴っていた。



 が、言葉にすると疑問符が現れる。


 果たして、本当にそうだろうか。逃げ出せただろうか。


 もし●●先輩が本当にバックレたとする。そうなれば緊急会議が始まるだろう。●●先輩の仕事を、どうにか残った者に割り振ろうとする。


 おそらくだが、「代わりの人が来るまで、君も土曜日出勤に協力してくれ」と言われるだろう。


 絶対にいやだ。そうなるくらいなら目の前で辞める。……そう思っていたけれど、果たしてそんな度胸があるだろうか。サインも拒めなかったわたしに。


 そして辞めるという言葉を、ほかの社員が受け止めてくれるだろうか。



 ただでさえ、ひとり社員がバックレて大混乱中に、もうひとり辞めまーす、だなんて。そうなればこの営業所は終わりだ。どうにもならない。現状でひとり足りず、バックレでふたり足らず、数週間後には滝野さんが脱落して3人足らず、わたしが抜けて4人足らず。そんなことが通るのかどうか。



「いや、土曜日出勤無理なんで、辞めるっす! おつかれっす~」なんて言えるだろうか。


 辞めるきっかけ、チャンスにはなるだろうけれど、それを上手く活かせるか。チャンスをものにできるか。もし、このチャンスを逃せばさらに辞め辛くなり、より酷くなった労働環境に埋もれることになる。



 幸運の女神は前髪しかない。チャンスは一瞬だ。その一瞬を逃せば、あっさりとチャンスは一転してピンチに変わる。大ピンチだ。地獄行きだ。終わらない土曜日出勤と〝8時行商〟に襲われる。



 この日の出来事が、後の選択に関わることになる。

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