【〝頑張れば頑張った分稼げる〟は大抵ウソ】2
この豆腐の移動販売は、同じ曜日に同じ場所、同じ時間帯を同じように回る。曜日ごとにコースがある。そのコースを回ってお客さんを増やしていき、売上を伸ばしていく。そうすると給料が増えるわけだ。
最初はお客さんがゼロのコースでも、少しずつ少しずつリピーターを増やしていき、10人、20人と客数を上げる。いずれは100人、150人のコースに育て上げていくわけだ。
わたしのような新人はやらないが、先輩たちはこれを経験している。新規開拓。コースの開拓だ。見知らぬ土地を走って、新たなコースを作り上げる。
しかしこの丹精込めて育て上げたコース、ずっと自分で回っていられるのかと言えば、そうではない。育って大きなものになると、取り上げられるのである。
例えば、社員が新しく入ったとき。
新入社員には回るコースがない。五日間フリーだ。かといって、新人に新規開拓をさせるわけにはいかない。ならばどうするか。
わたしが入社したときの話を覚えているだろうか。必死で道を覚えようとしていたことを。あれは先輩からコースを譲ってもらっていたのだ。先輩が通常通りに車を走らせ、新人は隣に座る。そして、その先輩のコースを覚え、数週間後に先輩に代わって走る。コースを譲ってもらう。
今まで頑張って育てたコースを、新人に分け与えなくてはならない。
これはほかの営業所から社員が異動してきた場合も同じらしい。その人がある程度の売上を保持できるよう、コースを分け与えるそうだ。
では、そのコースを譲った先輩はどうなるのか。
また一から新規開拓だ。ぽっかり穴が開いた日に新規開拓を行い、また一からコースを育てていく。新人が来たらまた譲る。その繰り返しだ。言うまでもなく、そのたびに売上は下がる。給与が下がる。しかし、会社から指示されれば差し出すしかない。
これがこの会社の歩合制だ。「頑張れば頑張るほど給料は上がるが、頑張りすぎると給料が下がる」。
ただ、さすがにコースを渡した人はその分、ボーナスがもらえるらしい。それがどれほど貰えるかわからないが。まぁでも……、ねぇ……?
ちなみにこのボーナス、所長には適用されないらしい。完全なあげ損。所長は無償で自分の歩合を手放さなくてはならない。
「どんだけ頑張っても、ただで人に取られるんだからやってらんないよな」
そういうふうに所長が愚痴っていたのを聞いたことがある。本当に可哀想。
ちなみに、わたしは社長の思いつきでコースを取られたことがある。無償で。
いつの日だったか、社長が急にわたしを含めた新人数人に、「お前らが引継ぎしたら、客数減ったやないか」と言い出したのだ。
そりゃそうだろう、と思う。
そもそも、ほかの人にコースを渡せばリズムが狂う。違う人が回るんだから当然だ。その差異はお客さんが離れるきっかけになりがちだし、「あんたが来やんのやったら、もうお豆腐ええわ」とありがたいことを言ってくれるお客さんもいる。コースを渡せばだれだって客数は一度下がるだろう。
じゃあ何で戻せないのか、と言われれば、そりゃベテランと新人じゃ腕が違うから、としか言えない。
しかし、社長はそれが気に入らない。客数が減ることを許せない。
結果、わたしたちからコースを取り上げ、ほかのベテラン社員に分け与えた。するとわたしたちに空いた時間ができる。その時間を使って、じっくりゆっくりお客さんが出るまで走れ、と言ってきたのだ。
当然、客数はがくんと減る。売上もめちゃくちゃ下がる。口触りの良いことを言っているが、新人は売上を剥奪されただけだ。歩合制の会社でこの仕打ちはあんまりではないか。
わたしに関しては一年目なので、歩合は関係がない。だが、あまりにもぽっかり開いたコースに虚しさを感じたものだった。もし真面目に給料を上げるために頑張っていたら、この仕打ちには発狂していたと思う。
それにそもそも、わたしが貰ったコースは結構な大物コースだった。
売上トップの一番さんから3コース、売上上位の所長から(無償で)2コースをもらう、というほかの人から「ええなー」と言われるゴールデンコースだった。
実際、わたしが独り立ちして一ヶ月目、何もしていないのに売上3位になったことがある。それくらいいいコースだった。
その分、パンパンに詰め込んであるコースだったが、これは一番さんからの親心だった。「最初に楽を覚えると後々キツくなるけど、最初にキツい思いしたら、あとは楽になるだけやから」とのこと。実際、2時間遅れで回っていた身からすれば、慣れたあとはかなり楽ではあった。
そんな大事なコースだったのに、社長の思いつきで随分寂しいコースになってしまった。110人いたお客さんが80人まで減ったのだ。あんまりである。
話はようやく戻るが、この歩合制には副産物がある。社員が休むのを抑制できるのだ。
この歩合の査定は半年ごとに行われる。半年間の売上で、のちの半年間の給与が変動するのだ。
もし、一日休んでしまったとしよう。
仮に、その日稼ぐはずの額が7万円だったとしたら、休めば、売上はそのままマイナス7万円になる。それを取り返すのは容易ではない。豆腐一丁180円、一日の客数100~150人の世界で、その7万円を取り返すのがどれほど困難か。それが簡単にできれば、もっとみんなバンバン給料が上がっている。
そして、取り返すことができなかった場合。
売上が、普段よりマイナス7万円で査定に入ってしまい、それが原因で査定ラインを下回ったら。一段階下のラインに入ってしまったら。その7万円のせいで半年間ずっと給料が下がったままになるのだ。
一日休んだだけで半年もの間、給料が下がる羽目になる。
こうなると休んでいられない。家庭があるなら尚更だ。
意識があるうちは働き続ける。それこそ、豆腐工場の部長みたいに脳がスイッチを切ってくれるまで。
ただ、この死ぬまで働くスタイル、ひとつ疑問があった。
インフルエンザだ。
インフルエンザと診断されれば、強制的に自宅待機。これはもう常識だ。たまに「インフルエンザって言われたけど、会社には行ったでー」なんて武勇伝のように語る人もいるが、迷惑千万極まりない。インフルエンザってうつるんだよ、おぼえておこうね。
この会社はどうなんだろう、と思った。インフルエンザになれば、数日は自宅療養しなくてはならない。会社には出られない。その数日分の売上は、もちろんそのまま査定に反映される。救済措置なんてあるわけがない。
そうなれば本当に取り返しがつかない。半年もの間、最低額まで給与が落ちてしまう。
一度、ほかの社員に訊いたことがある。インフルエンザになったらどうするんですか? と。
答えは意外なものが返って来た。「そういえば、インフルエンザにかかった人はいないね」というもの。いやいや。毎年大流行しているうえに、我々の仕事は接客業だ。人と多く接する。家族がいる人は、家族からの感染だってあるだろう。
だれひとりかかったことがないなんて、あり得るのか?
そう疑問に思ったが、あり得ない話ではない。ようは病院に行かなければいい。診断されなければインフルエンザではない。
というかそもそも、わたしたちは病院に行けない。朝7時前出勤、夜21時以降退勤では病院に行く暇などない。それこそ、コースの途中にある病院に無理やりねじこむくらいだろうか。
しかし、診断されたところで会社は休めないし。
何なら、診断されても黙って働いていたのではないだろうか。バレなきゃいいのだ。実際、その先輩は「かかったことないけど、インフルエンザになっても仕事には行くしかないよねー」と何てことはないように言っていた。そうせざるを得ない。会社は何もしてくれないからだ。
インフルエンザにかかったまま行商に行けば、お客さんにうつしてしまうのでは。そういう懸念もある。
何せ、わたしたちはマスクをしない。マスクをすれば顔がよく見えないからだ。お客さんとのコミュニケートが最優先なので、笑顔を隠すマスクは邪魔なだけだ。風邪予防など知らん。うつってもうつされても知らん。今この場で、お客さんが気持ちよく買い物できればそれでいい。そういう考えだ。
実際わたしはド新人時代、マスクをつけて行商していたが、注意された。「それやめた方がええで」と全員から言われた。
インフルエンザも同じだ。
うつろうがうつされようが知らん。もし相手にうつしても、次に会うのは一週間後。そのときまでに治してくれればそれでいいのだ。
ご高齢のお客様が多いのでインフルエンザは本当に危険なのだが……。その辺も「知らん」で済ませるんだろう。ここはそういう会社だ。もう知らん。
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