ハメられた切っ掛け

 10月13日(火) 晴後曇


 ダメだ。今日はそれがよくわかった。やっぱりあの手の男には「ほのめかす」なんてやり方は通用しない。こちらからハッキリ言ってやらないとダメ。でなきゃ自分の都合のいいように解釈しちゃうんだから。


 おまけに今日のシフトは最悪。昨日は深夜勤務だったのに今日は早出なんだもん。眠いし疲れが取れない。店長からは「どうしても回らないからお願い」って言われてたからしょうがないけど、こーゆーのが続くと転職考えちゃうよね。


「うわっ、来た」


 危うく声に出しかけた。本日最初の客があいつなんて最低。お嬢吉三きちさじゃないけれど「こいつは朝から縁起が悪いわえ~」と言いたくなったわ。ちなみに元のセリフは「こいつぁ春から縁起がいいわえ」ね。あ、また教養がにじみ出ちゃった。


「あれ、いたの。早いね」


 あいつの意外そうな顔。こっちだって好きでこんな勤務やってるワケじゃないんだよ。


「いらっしゃいませ」


 寝不足気味なうえに朝一であいつの顔を見せられて疲れがどっと出てきた。注文をハンディに入力するのもかったるい。今日はピザか。朝っぱらからよく食うなそんなもん。太るぞ。


「昨晩の客、嫌なヤツだったね」

「お客様ですから。あなたと同じです」

「ガンバレー!」


 おまえに励まされても全然嬉しくない。しかも二言目は嫌みのつもりだったのに全然効いてないじゃないか。おまえも嫌なヤツだけど客だから仕方なく持て成しているんだよ、気づけよ。


「あいつってただの客だよね。知り合いとかじゃないよね」


 おいおい、いきなりプライベートな質問かよ。って言うか、あそこまでイチャついていたのにただの客はないだろ。どんな脳みそしてんだこいつ。鈍いにも程があるぞ。


「大切なお客様です」

「ふうん、やっぱりただの客なんだ。よかった」


 ここで「恋人です」とはっきり言っておくべきだった。どうして言わなかったのか今でも後悔している。やはり面と向かってウソをつくのは抵抗があったのだろう。あたしって結構正直者だからね。

 もやもやした気持ちのまま仕事をするのは本当によくない。運んできた料理をテーブルに置こうとした瞬間、信じられない出来事が起こった。


「きゃっ!」


 絶対にあり得ないミスだった。料理の皿がコップに当たる。倒れる。テーブルに広がる水。色が変わっていくあいつのズボン。気が動転してもピザを皿から落とさなかったのだけは称賛に値すると思う。


「す、すみません」


 本当はそんなこと微塵も思っていなかった。心の中は怒りでいっぱいだった。しかし客に迷惑をかけたのであれば理由が何であれ謝らねばならない。それがファミレス従業員の鉄則だ。


「あ~、濡れちゃったあ~。冷たいなあ」


 とぼけたあいつの声が余計に癇に障る。あたしはポケットからハンカチを出して渡した。


「これで拭いてください。すぐタオルを持ってきます」


 近くに店長が立っていた。一緒に奥へ歩きながら小声で話す。


「見ていたわ。あの客、わざとやったわね。どんなに疲れていてもあなたがあんなミスをするはずないもの」


 ああ、やっぱり店長は頼りになる。見ていてくれたんだ。張り詰めていた気持ちが楽になった。

 あいつがここまでゲスだとは思わなかった。コップの位置は明らかにズレていた。スマホを見ているふりをして、あたしが皿を置くタイミングを見計らってコップを動かしたんだ。サイテー! そのうちゴキブリを持参して「あー、料理にゴキブリが入ってるー」とかやりだすんじゃないか。


「きっと昨晩の意趣返しよ。あなたに不愉快な思いをさせられたのでその仕返しってところかしら。あなたはここにいて。後はあたしが対応するわ」


 店長はタオルを持ってあいつのところへ謝りに行った。あたしがいないことに不満な様子だったけど、そこは店長の口八丁手八丁。うまく丸め込まれて大人しく食べて大人しく帰って行った。もちろん会計は別の店員にやってもらった。しばらくあいつの顔は見たくないとつくづく思った。


「なのに何なの、今日の運の悪さ。あんな場所で出くわすなんてあり得ないでしょ。明日からは通勤路を変えなくちゃ」


 ジェラシーストーム作戦大成功と喜んでいた昨日の自分が恨めしい。まさかたった一日でここまで形勢が逆転するとはね。


「は~、あいつが来る前に退店できてよかった」


 今日の勤務が終了してアパートへ向かう道を歩いているときだった。いきなり自分の名を呼ばれたのだ。


「えっ!」


 驚いてそちらに顔を向けると一台のママチャリがこちらに向かって爆走してくる。漕いでいるのはもちろんあいつだ。


「逃げよう」


 と思ったが相手は自転車。全力で走っても追いつかれるに決まっている。諦めて立っていると自転車はあたしのすぐそばで急停車した。


「はあはあ、お仕事終わったの? はあはあ」


 息が切れるほど漕がなくてもいいだろ。それともあたしの私服を見て興奮しているのか。キモッ! 


「はい。ところでどうして私の名前をご存じなのですか」

「昨晩、あの客が言っていたのが聞こえたんだ。いい名前だね」


 やっぱり聞こえていたのか。兄には後で文句を言っておかないと。


「ボクの母ちゃんと同じ名前なんだね。すごい偶然」


 マジか。こんな名前を付けた親父には後で文句を言っておかないと。


「すみませんが名前で呼ぶのはやめていただけませんか。個人情報ですから」

「えっ、そうなの。じゃあ呼び方はお姉さんでいいかな」

「はい。結構です」


 おばさんと言わなかったのは褒めてやろう。


「ボクは名前で呼んでいいよ。教えてあげる。えっとね……」


 その後、何か気味の悪いフルネームが聞こえたけど全然覚えていない。こいつはあくまでもこいつだ。


「だけどお姉さんにしては珍しいミスだったね。コップを倒すなんて。びっくりしちゃった」


 ここでその話を蒸し返すのか。むかつくヤツだ。


「先ほどは大変失礼いたしました」


 謝りたくないけど謝る。店外と言っても客と店員の立場であることに変わりはないからな。


「ズボンは大丈夫。ずっーと履いてたら自然乾燥しちゃった」


 着替えろよ。それしか持ってないのかよ。そう言えばいつも同じ服着て店に来ているな。うわー、だらしねえ。


「それでは失礼します」


 早々に立ち去ろうとしたが、そうは問屋が卸さなかった。


「ねえ、店長さんには頭を下げて謝ってもらったけどさ、お姉さんは言葉だけでまだ態度には示してもらってないよね」


 くっ、調子に乗りやがって。そっちが仕掛けてきたくせに。しかし証拠がない以上、悪いのはこちらだ。握り締めた両こぶしを怒りで震わせながらあたしは頭を下げた。


「本当に申し訳ありませんでした。二度とこのようなことがないよう十分注意いたします」

「それだけ?」


 怒りが爆発しそうだ。必死に感情を抑えて訊き返す。


「他に何か?」

「今回のお詫びってことでボクとデートしてくれない」


 いきなり欲望丸出しかよ。恥も外聞もあったもんじゃないな。こいつ鏡見たことないだろ。もし見ていたら恥ずかしすぎてこんな言葉を吐けるわけがない。


「これはあくまでも業務上のことですのでプライベートな対応はいたしかねます」

「え~、それくらいの誠意は見せてくれてもいいんじゃない。お客様苦情係に言いつけちゃおうかなあ。客に水をぶっかけておいて全然誠意を見せてくれないって」

「店としては出来る限りの対応を取っておりますので、お問い合わせ窓口に連絡されても一向に構いません。お気の済むまでどうぞ」


 さすがに腹が立ってきたのでこちらも強気な言葉を返してやった。何が悲しくておまえなんかとデートしなくちゃいけないんだ。おととい来やがれってんだ。


「ふ~ん、そうなの。そんなこと言うんだ」


 にやにや笑っている。まだ言い足りないことでもあるのか。あるならサッサと言えよ。


「ねえ、今日はさあ、水がこぼれたくらいで済んだけど、明日は料理にゴキブリが入っているかもしれないね」

「ぐっ!」


 こ、こいつどこまでゲスなんだ。そうまでしてあたしとデートしたいのか。あ~悪い予感が当たっちまった。いや、ゴキブリならまだいいぞ。ウンコを店に持ち込んで「ああっ、このカレーライス、ウンコが入っているー」なんてやられたらどうする。営業停止どころの騒ぎじゃない。下手すりゃ閉店だぞ。


「そ、それは脅しですか」

「えっ、何を言っているの。ボクはただそんなことがあるかもしれないねって言っているだけだよ」


 ダメだ。この男なら本当にやりかねない。あたしの我を通せば店長や同僚に迷惑がかかる。あたしさえ我慢すれば、あたしさえ……。


「デートは1回でいいのですね」

「うん。いいよ」

「デートすれば二度と水がこぼれたり、料理にゴキブリが入っていたり、カレーにウンコが」

「えっ、ウンコ?」


 しまった。つい妄想まで口にしてしまった。


「失礼。水がこぼれたりゴキブリが入っていたりするようなことは起きないのですね」

「うん。絶対に起きないと思う」


 本当に約束を守ってくれるかどうかはわからない。けれどもここはこいつに従うしか道はない。


「わかりました。一緒に食事をするだけという条件でよいのならお引き受けします」

「やったー!。いつ食べにいく?」

「次の休日は3日後の16日なのでその日に。ランチでお願いします。待ち合わせ場所はファミレスでよろしいですか」

「えっ、どうしてファミレス。まさかそこで食べるの?」


 違うに決まってるだろ。あたしとおまえの両方が知っている場所って言ったらそこぐらいしかないじゃないか。


「いえ、他に良い待ち合わせ場所もないですし。そこで待っていますから車で迎えに来てください」

「え~、車なんて持ってないよ。って言うか免許持ってないし。ボク、自転車一筋だもん」


 その年で車もないのかよ。それでよく女性をデートに誘えたな。こいつ完全にあたしをバカにしてるだろ。車なんかなくても大丈夫な女とか思われてるんだろうな。く~腹立つ。

 で、結局駅で待ち合わせることになった。あいつの希望で和食。店の選択も任せた。


「コース料理を予約しておくね。あっ代金はワリカン、と言いたいところだけど今回はボクが全額払うよ。言い出したのはボクだから」


 当たり前だ。食事を付き合ってやるだけでもありがたく思え。今日から3日間、気が重い日が続きそう。


「せっかく兄貴に一肌脱いでもらったのに、火に油を注ぐような結果になっちゃったな」


 甘かった。最初にも書いたけど「ほのめかす」なんて生温いやり方じゃあの手の男には何の効果もないのだ。今度こそはっきり言ってやる。そのための小道具もあるんだ。


「若いころに勢いで買ったこれが役に立つ日が来るなんてね」


 あたしは小箱から取り出した指輪をうっとりと眺めた。これを使って今度こそあいつの息の根を止めてやる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る