6話 猫神さまのおなーりー
お食事処は営業を終え、お客も皆帰って行った。最後の方はまたたび酒が多く出て、まるで酒場の様な賑やかさになっていた。とは言え深酒をする猫はいなかったので穏やかなものだった。
つつがなく、とは言えない営業だったが、大事には至らなかったので良しとしよう。
「薫さん、潤さん、お疲れさま。今日は本当にありがとう。助かったよ」
カツが丁寧に礼を言ってくれる。薫は「いやいや」と笑みを浮かべた。
「俺も結構楽しかったしな。猫にこんな風に飯を振る舞うなんて初めてやったわ」
「そりゃあそうだよねぇ。人間の世界だったら猫のご飯はかりかりか缶詰がほとんどだもんねぇ。僕も楽しかったよ。猫にもいろんな個性があるんだねぇ」
「はは。特にキロリとトムは個性強かったよなぁ。いやおもろいわぁ」
「あのふたりが面倒を掛けたね。薫さんと潤さんにもご飯を食べて欲しいんだけど、まずは薫さんの治療だね」
「そうですニャ。猫神さまのところに行きますニャ」
「ああ、俺は大丈夫やで」
そう言えば引っ掻き傷ができていたのだった。あれからお食事処の営業が続いていたこともあって忘れていた。痛みもほとんど落ち着いている。
「駄目ですニャ。僕たちは猫又なので猫引っ掻き病は大丈夫なのですが、もし傷口から他の病気になってしまっては大変なのですニャ」
「猫引っ掻き病? そんな病気があるんか?」
「あるのですニャ。感染症なのですニャ。発症率は低いのですがなかなか厄介な病気なので、薫さんも潤さんもお帰りになられたら気を付けて欲しいのですニャ。では行きましょうニャ」
「なんか悪いなぁ」
薫が申し訳なさげに言うと、カガリは「とんでも無いですニャ」と恐縮する様に首を振った。
「猫又がやらかしたことなのですニャ、きちんと治してもらうのですニャ。では行きますニャ」
カガリがそう言ってカツと並んで歩き出したので、薫と潤もそれに続く。外に出るといつの間にやら陽は落ち切って、暗い空が星を輝かせていた。
「と言ってもお隣なのですニャ」
お食事処を出てすぐ隣の建物。お食事処よりも相当大きな家だった。立派な人間サイズの平家である。
「そういや道の両脇にある小さな家って、猫の家でええんやんな?」
「そうですニャ」
「猫神さまっちゅうんはここでひとりで住んではるんか?」
「住み込みでお世話をしている猫が何匹かいますニャ。人間さまも来られますニャ。なので大きなお家なのですニャ」
「そりゃそっかぁ。猫神さまだもんね。偉い猫なんだもんね。緊張してきたなぁ」
潤が笑いながら言うと、カガリが「大丈夫ですニャ」と言う。
「猫神さまは全く堅苦しく無い方なのですニャ」
カガリはその言葉を証明する様に、臆すること無く開きっぱなしのドアに向かって行く。
「お邪魔しますニャ。猫神さまはおられますかニャ?」
そう声を掛けると、中から「はいよー」と女性の声が響く。ややあって顔を覗かせたのは灰色のとら猫だった。
「おや、カガリとカツじゃ無いか。どうしたんだい?」
「僕のお客さまが引っ掻かれてしまったので、猫神さまに治して欲しいのですニャ」
「ん?」
灰とら猫の視線が上を向き、薫と目線が合うと「おや」と少し驚いた様な声を上げた。
「顔にも、あらら、腕にも傷ができてるね。人間さまに危害を加えるなんてどこの馬鹿猫だい。後でお灸を据えてやんないとね」
「ああいやいや、そんな大ごとにせんといてや。俺は大丈夫やで」
薫が慌てて言うと、灰とら猫は「いいや」と首を振る。
「これは猫又としてのけじめだからね。カガリ、カツ、後で話を聞かせてもらうよ。じゃあさっそく猫神さまのところに案内しようかね。こっちだよ」
灰とら猫が歩き出すのを薫たちは付いて行く。板張りの広い廊下を進み、いくつかの畳敷きの部屋を素通りして到着した最奥の部屋。灰とら猫が大きく声を掛ける。
「猫神さまぁ、カガリとカツと人間さまがおふたり来られてるんですけど、入っていただいて良いですかぁ?」
すると中からちりんと鈴の音が1回鳴り響いた。
「猫神さまは大きな声を出すのが面倒だからって、お返事は鈴でされるんだよ。1回なら「はい」、3回なら「いいえ」ってね。人間さま、申し訳無いんだけど大きな方の扉を開けてもらえないかねぇ」
「ええで」
猫用のドアは上部が蝶番で繋がっていて、人間世界でも良く見る猫用のドアと同様である。そのドアは人間が充分に通り抜けできる大きさの扉の一部だ。
これまでいくつかの猫の家やお食事処を見たが、扉らしい扉があるのはここが初めてだった。他は全て開け放たれているのである。
ドアを開けると明るい部屋の中が見える。床には豪奢な柄物のじゅうたんが敷かれていて、家具などは無いが、部屋の両端にはじゅうたんの上に直接いくつかの陶器などが置かれていた。
そして奥の柔らかそうな厚みのある座布団の上に、目を閉じた黒猫がちょこんと座っていた。カガリと同じ黒猫だがカガリよりも大きな猫だ。
神さまなのだろうが威圧感などは感じられなかった。少なくとも薫の目には上品な可愛らしい猫に見えた。
傍らには小さな台に置かれた金色のハンドベルがあった。
「はい、ごきげんようですわ」
部屋に響いたのは透き通る様な綺麗な声だった。
「猫神さまこんばんはですニャ。今日は僕のお客さまの、薫さんの怪我を治して欲しくて来たのですニャ」
薫が「こんにちは」と猫神さまにぺこりと頭を下げる。猫神さまは満足げに頷いた。
「初めまして。妾が猫神の薄緑ですわ。確かにお顔やお身体に複数の傷がありますわね。原因をお伺いしても?」
「あ〜、それはその」
先ほど灰とら猫が少し不穏な話をしていたので、薫は言うのをためらってしまう。しかし。
「キロリが引っ掻いたのですニャ」
カガリがきっぱりと言ってしまった。
「あ、カガリ」
薫が焦ると、カガリはまた口を開く。
「良いのですニャ。告げ口の様に聞こえてしまうかもしれませんけど、黙っていてもいずれ知れることになるのですニャ。猫神さま相手においたの隠し事はできないのですニャ」
「そんなもんなんか?」
「そんなものなのですニャ」
「そんなものなのですのよ」
猫神さまも穏やかに言う。なら薫が黙っていてもキロリは咎められてしまうのだろう。少し心が痛むがそれがこの世界の、猫又の決まりごとなら薫が口出しできることでな無い。
「ではさっそく傷を癒してさしあげましょう」
猫神さまは言うと目を閉じたまま前足でハンドベルを手にする。それをちりんちりんと2回鳴らすと、薫に付いていた赤くて細い傷がみるみる消えて行った。
「うわぁ、ほんまに治ったやん」
薫が驚いて両腕をまじまじと見つめる。潤も「本当だねぇ」と感心する。
「猫神さま、ありがとうございます」
薫が礼を言うと、猫神さまは「どういたしましてですわ」と口角を上げた。
「そもそも猫又がしでかしたことなのですから、お礼など不要ですのよ。さぁさ皆さま、お部屋に入ってお座りくださいな」
猫神さまが淑やかに言うと、カガリとカツが「ありがとうございますニャ」と部屋に入って座るので、薫と潤も入って正座をした。
「人間さま、どうぞ足をお崩しくださいな。お名前を教えてくださいませ」
「ああ、はい。じゃあ」
「ありがとうございます」
薫も潤もあぐらをかいた。さすがの薫と潤も猫神さま相手にフランクな言葉使いはできないと、つい丁寧語になってしまっている。
「俺は戸塚薫言います」
「僕は真島潤です」
「薫さまと潤さまですね。この度はようこそ、猫又の世界へ」
猫神さまは緩やかに微笑んで薫と潤を歓迎してくれた。
「こちらこそお邪魔しとります。ここの猫たちは猫又なんですね。びっくりしました。猫又ってほんまにおるんですね」
「そうなんですのよ」
「猫神さまが猫を猫又にするって聞きましたけど、何か基準とかあるんですか〜?」
潤の疑問に猫神さまは「ふふ」と小さく笑う。
「特にこれと言ってありませんわ。妾がしようと思った時に猫又にするのですわ」
「良いことをしたからとか、辛い人生、と言うより猫生? だったからとか?」
「いいえぇ。この世界を荒らされたくはありませんので、悪猫は避けておりますけれども」
「そんな適当な感じでええんですか?」
「ええ。だって猫なんて気紛れなものですもの」
猫神さまはそう言ってにっこりと笑う。神さまが気紛れで大丈夫なのだろうか。薫は少し心配になってしまう。
「妾は妾の周りを賑やかにしたかっただけですのよ。お陰さまで毎日楽しい日々ですわ。人間さまもお世話をしてくださいますし」
「そうやった、今日は潤と俺が飯作りましたけど、普段は別の人間が来とるんでしたな」
「ええ。皆さま夢の出来事だと思って、せっせと働いてくださいます。それには基準がありますのよ」
「どんなんです?」
「猫がお好きで家事がお好きなお方です」
「ああ、なるほど」
確かにそれは最低条件だろう。
「妾の様な神でも猫又でも、猫たちは四足歩行なのですわ。ですのでお食事の用意をしたり、お洗濯やお掃除をしたりできないのですの。ですので人間さまに頼らせていただいておりますのよ。それもありまして、人間さまに危害を加えたりすることはご法度としておりますの。キロリには後できつく叱っておきますので、どうかご容赦くださいませ」
猫神さまは言って深く頭を下げた。薫は慌ててしまう。
「いや、それはほんまにもうええですから。かすり傷程度やったし、それももう治してもろたし」
「そうおっしゃっていただけると安堵いたしますわ」
猫神さまは顔を上げ、ほっとした様にそっと首を傾げた。
「せやから猫神さま、あまりきつい仕置きは勘弁したってください。キロリもわざとや無かったと思うんで」
「まぁ、薫さまはお優しいのですね」
猫神さまは楽しそうに笑う。するとカガリが「そうなのですニャ」と嬉しそうな声を上げた。
「薫さんはお婆ちゃまの代わりに、僕のためにかりかりを用意してくれるのですニャ。とてもお優しい方なのですニャ」
「まぁ、とても素晴らしいですのね」
「いや、まぁ、カガリは婆ちゃん、祖母が可愛がってた猫なんで」
薫が照れて苦笑いを浮かべる。
「そうでしたわね。カガリは人間さまの世界で、お優しいお婆さまにお食事をいただいていたのでしたわね」
「はいですニャ」
「本当に素敵ですわねぇ」
神猫さまに言われてカガリは笑顔を浮かべるが、それが少し寂しそうに薫には見えた。
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