俺がリレーを走るはずがない④

 そんなことを考えていたものだから、一木が既に走り出していることに気が付かなかった。心の準備もできないまま俺の順番が回ってきそうだ。


 一木は早かった。先頭を走っていた黒組を鮮やかに抜き去って疾走している。どこか運動部に入っているのだろうか。あの髪色で許されるのかは甚だ疑問だが。


 コーナーを一木が曲がったあたりで、レーンの中に入る。とりあえず深呼吸をして目を瞑る。

 鼓動が喉に響いてきて、腹の底が縮んでいるような気がする。それくらい緊張していた。


 いま、難しい問いをごちゃごちゃ考えていても仕方がないのも道理だ。どうせ答えは出ずじまいだ。全部終わってから、ゆっくりと考えよう。


 緊張も悩みも全て忘れようとしていると、ひときわ大きな歓声が聞こえた。今走っているところで何か問題でも発生したか、と後ろを見てみると、赤いハチマキでサイドテールを結んだ少女が、爆走という言葉が似合うくらいぶっちぎっていた。既にコーナーをほぼ周り切って、俺の方へと近づいてきている。

 などとのんびり考えているうちにもどんどんその姿は大きくなっていた。残るは直線だけだ。

 ……もうこいつが一周した方がいい。絶対俺よりも速い。


「トージ‼」


 バトンが差し出される。そりゃ走らないとダメだよね……。


 一木と北条があまりにも早かったために、他クラスとの差はかなり開いている。俺が前を向く直前、新坂がコーナーを曲がり切ったのが見えた。

 なんとか抜かれずに済んで欲しい。そう願いながらバトンを受け取った瞬間、それをしっかり握って全力で駆け出した。


 一歩一歩脚を繰り出していくたびに、身体全体が小刻みに揺れるのを感じる。肺に空気を入れる余裕なんてどこにもなかった。バトンが邪魔だ。走りにくいことこの上ない。


 コーナーに差し掛かる。誰を応援しているのかわからない声援がたくさん聞こえたが、木下冬至のことを応援していないことはよくわかる。

 それは当然のことではあるが、俺のような弱い心の持ち主は少しやるせない気持ちになる。せめて失敗はしないように、と踏み出す足に力をこめた。


 ほかの組はどこを走っているだろうか。藤見のことだから、もう俺の近くまで来ているのかもしれない。つっても、後ろを振り向くような器用なことはできないけれど。


 ようやくコーナーが終わり、最後の直線に行きついた。前を見ると、松本が少し険しい顔で何やら叫んでいる。よくわからんが、この状況で険しい顔をしているのなら誰かが追随しているのだろう。


 少し息が切れてきた。脚もだんだん動かなくなってくる。


 最期の力を振り絞って松本にバトンを渡した。その瞬間に、隣でバトンが渡った。歓声が一層大きくなっていくのを聞きながら、俺はトラックから出て、その場にへたり込んで浅い呼吸を繰り返した。


 こんなに全速力で走ったのは、多分人生で初めてだ。

 こめかみがどくどくと脈打っていて、めまいがしてくる。胃の中身がせりあがって来るような感覚に襲われた。


「やー惜しかったね、ギリギリ勝てなかった」


 大して悔しくもなさそうに言いながら、藤見が隣に座った。

 恐らく、俺とほぼ同時に着いたのはこいつだ。何が勝てなかった、だ。ほとんど呼吸すら乱れていないくせに。


「いや……どう考えても……。お前の……勝ち……」


 肩で呼吸をしながら、なんとか藤見に返答すると、遠くの方で雄叫びが聞こえてくる。

 果たしてどこが勝ったのやら。ゴールの方を見る気力すら残っていない。


「おー紅組勝ったみたいだね、おめでとう」


「あぁ、そう……」


 ひとまず安心だ。肩の力が抜けた。これでコンクリ詰めにされる心配はないな。


 やっとの思いで息を整えて、ゆっくりとゴールの方を見てみる。そこには総合優勝が決まり、その喜びを分かち合うクラスメイトの姿があった。


 一木と北条の周りに紅組の女子が群がってハイタッチしたり抱き合ったりと大盛り上がりだ。松本に至っては胴上げされている。その少し離れたところで、怪我をした本田と数人が控えめに笑いあっている。


 それを見ながら、俺には知る由もない、練習や、作戦を立てた日々が想起された。

 きっとそれまでの努力の日々が、結局なにも残りはしない「体育祭」に向かって頑張って来た日々が、彼ら、彼女らをあそこまでの歓喜に到達させている。

 さっき松本が事もなげに言った言葉が、実感と共に押し寄せてた。


 もし、純粋にそれを楽しむことができたなら、体育祭で優勝した瞬間はどれほど楽しいものであったことだろう。


「行かなくていいの?きみ、紅組の功労者まであるよ?」


 多分、心から思ってるんだろう、藤見は不思議そうな目でこちらを覗く。


「バカ言え、行くわけない」


 遠巻きに見ながら呟いた。


 あの輪に入れるような人間だったらどれほど良かったか。


 けれどこの願望は決してこれまでの自分の貫いてきた信念を否定するといった意味ではなくて、存在しないものを欲するようなものだ。

 ただただ、あの一団の中に入れるような自分をほんの少しだけ想像して、静かに首を振る。


 こんなことを考えている時点で、俺があの輪の中に入り込む可能性は、万が一にも無い。


 恐らく、


 向こうで生まれている熱狂も、常日頃から彼らが過ごしている関係性も。

 そこには確かに質量がある。

 もちろん、空虚なこともあるのだろう。それでも、いま目の前にある優勝をしたことで一致団結している彼らの中には、仮に最後に形として残るものはなくとも、今この瞬間だけは、確かに「何か」が存在しているように感じられる。


 俺はすっと立ち上がり、よろめきながら校舎の方へと歩き出した。


「どこ行くの?」


「保健室」


 走った疲れか、あの光景を目にしたからか、少し吐き気が芽生えている。


「付き添おうか?」


「ありがとう。でも、問題ない。ちょっと休みたいだけだから」


 藤見の申し出を丁重に断りつつ、俺はゆっくりと歩きはじめた。


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