5-1 引っ越しパーティー
引っ越しが終わった。
梅雨がちょうど始まった辺りの引っ越しだったが故に雨で少し苦労したものの、家具たちも業者の方々のおかげで破損もなく綺麗なまま新居へと運び込まれている。
「ふーん……マジでいい所に引っ越したね、凛太郎」
そう言って部屋を見渡しているのは、俺をバイトとして雇ってくれている優月一三子先生だ。
彼女が前の家の家賃を負担してくれていた以上、引っ越しの件を伝えないわけにはいかなかった。
そして何故引っ越すことになったか、その経緯もすでに伝えてある。
「それにしても、本当にアイドルにお金を出してもらっているなんてねぇ……凛太郎の高校に在学してるって話は知ってたけど、接点なんてないと思ってたよ。—――生で見ると……やっぱりめちゃくちゃ美人ねぇ」
「恐縮です、優月先生」
俺の隣に立っていた玲が、優月先生に向けて頭を下げる。
今日は俺の"雇い主"同士の顔合わせの日だった。
優月一三子先生の下でバイトをしていることを玲に伝えた所、挨拶しておきたいと言い出したのである。
俺との関係を外部に漏らすリスクというのはもちろんどこにでも発生するが、優月先生もある意味有名人。
そこに親戚としての信頼も加えて、俺たちの事情をすべて話すことになった。
これは余談だが、玲は優月一三子の作品のファンだったらしく、顔合わせについては彼女に押し切られて決まった話である。
「でも、乙咲さんはいい男に目を付けたと思うよ。凛太郎はたまに口が悪いけど、根っからの気配り上手だし家事は完璧だし、顔も別に悪くない。小学校の頃なんてモテモテだったんだから」
「……優月先生、その話はちょっとキツイっす」
持ち上げられれば持ち上げられるほど困ってしまう俺は、苦笑いを浮かべてしまう。
照れ臭さはもちろんあるのだが――――うん、むず痒い。
「小学校の頃……モテてたの?」
「お前もそこを突っ込むなよ。小学生なんて運動ができたら大体モテてただろ」
小学校の頃、比較的運動ができた俺は確かに女子と仲良くなる機会が多かった。
しかし中学校に入って運動神経が平凡に収まり始めれば、その他大勢の男子に仲間入り。
母親が出て行った経験のせいで必要以上に女子と仲良くしたいとも思えず、結局この歳まで恋人はできたことがない。
「ふっふっふ……気になるかい、乙咲さん。凛太郎の女の子事情をさ!」
「っ! 気になります」
「よし! いいだろう! ならば幼稚園に入園した時の話から――――」
……アホらしい。
俺は盛り上がり始めた二人をガン無視して、キッチンにコーヒーを淹れにいく。
キッチンも前の家と比べてだいぶ大きくなった。
まずコンロが二口から三口に増えた時点で、最高と言わざるを得ない。
電子レンジ、炊飯器、オーブンはこの機会にいい物に買い替えた。包丁やフライパンなど手に馴染んでいる物はそのまま残し、家電系は新しくした、と言った感じである。
「ほら、コーヒー」
「……女泣かせの凛太郎」
「玲、何を吹き込まれたのかは知らねぇけど、多分優月先生が言ってることはほとんど嘘だぞ」
だって女を泣かせた覚えなどないもの。
「嘘じゃないよ! だって私が漫画家になることを周りに反対されている時に、凛太郎だけはずっと応援してくれたんだから! 『ひみこ姉さんなら絶対漫画家になれるよ!』って! それで泣いちゃったんだからね、私が!」
「あんたの話かよ……」
確かにそんなこともあったような気がする。
当時小学二年生だった俺が、女子高生だった優月先生を励ましたんだ。
今思えば何を根拠に言ってるんだかという話だが、優月先生の絵が好きだった俺は勢いだけで背中を押したんだと思う。
あの時の俺がいたから優月先生が漫画家になったのであれば、それは少しだけ誇らしい。
「ふぅ……でも、凛太郎がバイトを止めないでくれて本当によかったよ。仕事もできるし、毎回苦しい時に差し入れを持ってきてくれるし、欲しいって思った時にこうしてコーヒーも淹れてくれるし、割と手放せない存在になってたんだから」
「そんな大袈裟な……」
「大袈裟じゃないって! アシスタントのみんなも同じようなこと言ってるし。乙咲さんに独り占めはさせないんだからね」
そう告げて、優月先生は牽制するような目で玲を見た。
そしてそのまま俺の方へと視線を移す。
「凛太郎、もう
「……ああ、もう大丈夫だよ。
「うん。ならよし」
彼女の問いかけには、様々な意味が込められていた。
親戚が故に当然なのだが、優月先生は俺の家庭の事情をよく知っている。
だからこそ俺が明るく返したことで、少しは安心してくれたようだ。
「そんじゃ乙咲さん、凛太郎のことよろしくね。ま、あんまり心配はしてないんだけど。よくできた従弟だしね」
「はい、心得ました。……あの、優月先生」
「ん? なーに?」
「最後にサインを……いただけないでしょうか」
玲は緊張した面持ちで、色紙とペンを取り出す。
本当に心の底からファンなのだろう。いつになくソワソワしている。
「え、まあ私のでよければいくらでもあげるけど……あ! そうだ! じゃあ乙咲さんのサインもちょうだいよ。それと交換ならいいよ」
「っ! 嬉しいです……!」
俺の目の前で、希代の大スターと超売れっ子漫画家のサイン交換が行われている――――。
慣れ親しみすぎてたまに忘れてしまうが、この二人は一般人として生きる人間ならばお近づきになりたくてなれる存在ではない。
自分がどれだけ幸運な存在なのか、何故かこんな場面で思い知ることになった。
「ふふふ、職場に飾っちゃおっと。じゃあ凛太郎、乙咲さん。またね」
「忙しい中で来てくれてありがとうございます。そんじゃ、またバイトの時に」
「うむ。頼りにしてるんだからね? 我が愛しの従弟よ」
絶妙に可愛くないウィンクを残し、優月先生は俺の部屋を後にする。
残ったのは家の主である俺と、彼女のサインを大事そうに抱える玲だけだった。
「マジで好きなんだな、優月先生の作品」
「うん。少年漫画なんだけど心情描写がすごく綺麗に描かれていて、熱いところもありながらすごく繊細で……移動時間とか、休憩中によく読んでる。紙でも電子でも買った」
「……そっか」
俺はあくまで手伝いで、話を考えているわけでもないしキャラクターを作ったわけでもないが、優月先生の作品が褒められると何故か自分のことのように嬉しい。
親元を離れた俺にとって、あの人は雇い主でありながら姉のような存在なのだ。
だらしないところばかり目に映るのは決して俺の気のせいではないが、尊敬できる相手であることは間違いない。
「でも玲も少年漫画とか読むんだな。ぶっちゃけあんまりイメージがなかったっていうか」
「少年漫画に限らず、漫画自体が好き。人の心を動かす物だから。そういう部分は音楽や踊りと変わらない物だって思ってる。創作物を見てから曲のイメージが浮かぶこともあるし」
「へぇ、そういうもんなのか……」
言われてみれば、優月先生も暇さえあれば色んな作品を読んでいる。
これは研究よ! ってよく言っていた。
だから俺にも流行り物だけでも押さえておけって言うのかもしれない。
「凛太郎はあんまり漫画読まない?」
「読むけど……本当に流行り物だけだな。金にちょっとでも余裕ができたときは貯金に回してたし」
「ならあとで私のおススメを貸したい。きっといくつか気に入る作品があると思う」
「そいつはありがたいな。じゃあ気に入ったら自分でも買ってみるわ」
――――そうこうしているうちに、時刻は夕方に差し掛かっていた。
とは言え夏が近い今の季節はまだ日がずいぶんと高いのだが、夕飯時が近づいていることには変わりない。
「そろそろ準備すっか」
「何か手伝う?」
「いや、悪いけど今回の料理に関しては俺に一任してくれ。前の家よりも広いキッチンだから、正直テンション上がってるんだ」
「そういうことなら、分かった。全部任せる」
「おう、任せろ」
俺はソファーにかけていたエプロンを着け、キッチンへと向かう。
今日はミルフィーユスターズの三人が企画した引っ越しパーティーの日。
当初は出前を取る予定だったらしいが、俺が引っ越しに加わったことで料理を担当することになった。
この日のためにたくさんの材料を揃えてある。
新居のキッチンの初陣に、俺は柄にもなく心を躍らせていた。
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