ジンメルと糖衣錠

名取

1. Alle Dinge sind Gift und nichts ist ohne.


 もし人間にここまでの生存欲がなかったなら、これほど苦しむこともなかっただろう。もし命が終わる時、ただ首を落とす椿のように、花弁を散らす桜のように、静かに佇んでいるだけの生物だったなら、こんな悲劇は起こらなかったに違いない。無残な少女の遺体を前に、私はそんなことを考える。人間の性がいくら醜いものだったとしても、この凡庸な子供の、あまりに拷問じみた死に方さえもが自然の摂理なのだとまでは、私にはまだ思えなかった。


「薬の飲み過ぎ……でしょうね」


 部下の小泉こいずみが、耳元で囁く。彼は声を大きく張れない体質であり、話すときはいつも人に近づいてくる。しかしそうする必要も今に限ってはなさそうなのに、と私は思う。現場——可愛く飾られた少女の部屋は、しんと静まり返っていた。ほとんど無音と言っていいほどに。鑑識係やその他の刑事たちも多くいたが、皆が皆、無意識に息を潜めている。遺体の放つ仄暗い狂気の気配から逃れるように。

「よくある急性中毒ですよ。メディカルに依存しすぎて、ふとしたきっかけで、ガーッと致死量を流し込んでしまう。後先考えることなく、ね」

 小泉の言葉には、嫌悪の響きがあった。新時代の高水準向精神薬……通称【メディカル】は、日本のあらゆる場所で売られている。コンビニ、スーパー、ドラッグストア、果てはファストフード店にお菓子売り場まで。チャリティーイベントのノベルティ、献血のお礼品として配られることもしょっちゅうで、今や年齢・性別問わず、あらゆる日本国民に愛されている。

「この須東すどうアカネちゃんが服用していたメディカルの名前は?」

「オプティエルとメロデックですね」

「ということは、朝昼晩の三回服用か」

 刑事課の仕事の一つは、日本国内で服用されている主なメディカルについて学ぶことだ。2070年現在の日本で、不審死と見られるケースの大抵が、メディカルの過剰摂取による自殺または事故死である。それでも時折、そういった自殺・事故死に見せかけた毒殺事件もわずかながら発生する。そのため私たちは、基礎的知識として、メディカルの全てを覚え込まされる。警察内ではメディカル・データベースも整備されており、最新情報もすぐ追えるようになっている。

「データベースによりますと、オプティエルはホーエンクリア製薬の主力製品で、2053年から発売開始。主な効用は不安の軽減。メロデックはディーバサイエンス社の新商品で、一昨年2月に発売開始されています。効用は……」

「意欲減退の改善と、音楽療法の効果促進。だろ?」

 私は遺体のそばに屈み込み、床の上のひび割れたタブレットを覗き込む。

「正解です。やっぱり記憶力すごいですね、柚子崎ゆずさき部長」

「たまたまさ。それより、これを見ろ」

「タブレット? 彼女はネットサーフィンでもしていたんでしょうか」

 そう尋ねる小泉に、私はタブレットの側面を指差す。

「いや、違う。これはディーバサイエンス社でしか売られていない、音楽療法専用の特別モデルだ。特注の内臓スピーカーとプラグ差し込み口がついているだろ? 未成年者の場合、ペアレンタルコントロールが解除されないレジェロプランで契約しないともらえないやつだ」

「つまり、死亡推定時刻である昨夜11時ごろ、彼女は日課である音楽療法を行っていた。その途中で……異変が起こったと?」

 小さく頷いて、再び遺体の方に目を向ける。床に倒れ伏した少女の顔面に浮かぶのは、恍惚のみだった。しかし目を引くのは、何十箇所もの、等間隔の切創。まるでのように切り分けられた四肢の皮膚に、を描くがごとく、四角く抉り削られた赤黒い内側が随所にのぞいている。

「いわゆる『トランス状態』だったんだろう。この状態に入ると、痛みを感じられなくなる。そして気づいた時には出血多量で手遅れ。音楽療法の負の側面だな」

「だからって、ここまでするなんて……うっ。すいません、少し失礼します」

 そそくさと小泉が現場の外へ出ていく。毎度のことだった。小泉の服用するメディカルの名前も、私は知っている。ラディゲアR糖衣錠。吐き気を抑えると共に、リラックスさせる作用がある。日本国民の97%が精神疾患を抱えている今、刑事課のほとんどの者もまた、気分障害や精神病に苛まれている。私はというと、残り3%の方に属する、メディカルを必要としないな人間だった。けれど人間というのは一筋縄ではいかぬもので、「健全」が社会の中で極端なマイノリティーとなった今、異常扱いされるのは常に私の方だった。


「——こんな風に死ぬのが、正常なのか?」


 誰にも聞こえないほどの小声で、私は遺体に向かって問いかけた。

「薬漬けで、自制も失い。それでも幸せに死ねるなら、それでいいのか?」

 もちろんのことだが、少女は答えない。死んでいるのだ。幸せそうな顔をして。少女の苦しみを、私は知らない。こんな死よりも悲惨だったのだろうか。彼女のこれまでの人生は。

 そんなことを考えた時だった。

 飛び散った少女の肉片と血液に紛れて、遺体の足元の床に、小さな血文字が残されているのに気がついた。屈んでよく見てみると、そこには、


 Simmel


 とだけ書かれている。私は鑑識の写真係に声をかけ、撮影を頼む。写真を撮っている間、顔見知りの検死官・熊谷くまがいが話しかけてきた。

「これはまた珍しいケースだよ、柚子崎」

「そうだな」

 熊谷は皆と同様囁き声だったが、息は荒い。躁鬱の気のある彼は、メディカルで興奮を抑えてから現場に来る。しかし今回の血腥い惨状には、流石のメディカルも力不足だったようだ。

「状況的には、自殺だ。薬の過剰摂取による……まあ、いつものやつね。でもこの血文字だよ。これは事件の可能性もあるぞ」

「でも、彼女は精神的に不安定だったんだろう? ふざけ半分で、死に際に適当なことを走り書きするやつも大勢いる。それにもし他殺で、犯人の名前がわかっていたとしたら、もっと顔に憎悪や無念が浮かんでいるはずじゃないか」

「いや、これは違う。このジンメルってのは、別件で調査中の名前なんだ。これは関連性があると見て間違いない」

「しかし……」

 私は反論しかけたが、熊谷の爛々と光る目を見て、口籠もる。こういう目の人間を見かけることは、そう珍しいことではない。そしてたいてい、彼らは人の話を聞こうとしない。熊谷の話を聞き流しながら、それとなく現場を眺める。

 大勢の友達との旅行写真が入った写真立て。大量の高級化粧品と洋服。カラフルなキャラクターグッズ。そんなものが部屋中に散乱している。死を思うほどの少女にしては、楽しく生きているようにも見えたが、それ以上は考えないようにした。人の心の中はわからない。何も知らない人間が、他人の心を決めつけることはできない。しかしいくら自分に言い聞かせても、違和感が消えることはなかった。

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