2-9 妖精と箸置き
ホノカがおやつを用意したタイミングで、イツキはピクシーに手招いてみせた。彼には今後の意向を聞いておく必要があったからだ。
ムカゴが気を利かせてクコをお菓子に誘導してくれた。
ピクシーは何か察したのか分身を消し、一人になった。
五、六歳と推定される少年は探るような表情をして、イツキの隣に並んだ。
「お前にはどうしても捨てらんない未練があるから、ピクシーって形でこの世に留まってんだろうと思うんだけど。お前の未練ってさ、ヒガンさん?」
少年は誰に聞かせるつもりもないような口調で、けれどきっと誰かに聞いて欲しかったのだろう内心を打ち明けた。
「……別に良かったんだ。ヒガンが母さんと一緒に死を選んでも、陰で『母さんはあんたのことだって、今に愛さなくなるよ』って脅してきても、……自作自演の悲劇に浸るような大人になってても。ただあの日、俺を捨てていったことだけが許せない」
イツキは、少年の瞳を彩る感情は怒りではない、と察した。
――この少年はかつて、ヒガンのきょうだいだった。正確には双子の片割れだ。
ヒガンの母が死んだ日、経緯は不明だが少年もまた人間として死に、妖精ピクシーとなった。
「なあ、お前は今もヒガンさんの傍に居たいの?」
少年は迷う気配を見せたが、最終的には、こくんと頷いた。少年の意思は受け取った。後はどれだけ希望に添えるか……。
頭の中で作戦を練りながらも、イツキは以前から訊いてみたかったことを口にした。
「……お前は何度もチャンスはあったのに、クコちゃんを攫ったりしなかったよな」
ピクシーは時に子供を盗むいたずら妖精として知られる。
このピクシーの少年はヒガンに捨てられたと感じ、深い寂しさに苛まれていたはずだ。それなのにこれまで誰一人として子供を攫う真似はしなかった。
少年は薄く微笑んだ。諦念が透けて見えたような笑い方だった。
「クコちゃんはおとうさんと一緒に居たいって思ってたからだよ。俺は離れ離れになるつらさを知ってるから、連れていくなんてできなかった」
「……お前がヒガンの傍に居れるように、名前で縛ってもいいか?」
少年は迷っていた。
「多分、ヒガンは僕なんか……」
「今度はきっとヒガンさんはお前を遠ざけたりはしねえよ」
ピクシーの少年は泣きそうになりながら、イツキを信じてくれた。
「レーヴェ」
イツキが名前を与えた。
少年は「レーヴェ……」と復唱し、口に馴染ませようとしているようだった。ずっと定まらなかった少年の輪郭がはっきりした気がした。
イツキは、レーヴェの純真さをいつかヒガンがそのまま受け取れるように、と願っていた。
*
幼い頃の、輪郭も不明瞭な記憶だ。
ヒガンの母の、出産を経て弛んだらしい腹には黒い縦線がうっすらとあった。妊娠線、というらしい。
「母親の印なのよ」
母はぼんやりと視線を彷徨わせて、それでもそれは確かにヒガンに向けての言葉だった。
ヒガンの腹部にも母と同じような線があった。母と似ていると言われたようで、それが誇らしかったことは覚えている。後にヒガンのそれは正中線であり、妊娠線とは関係がないことを知った。
しかし、それでも腹部の線が母親の印だ、という台詞はヒガンに刷り込まれた。
母を憎みながら、憧れていたのだと思う。
ヒガンは数年振りに、母が過ごしていた部屋に立ち入った。
箪笥の底に、流行遅れのワンピースを発掘した。それを広げて、マタニティドレスだと気付いた。
ヒガン一人しかいない畳の間で人目を盗むように着てみた。
腹の辺りの布地が若干伸びていた。過去に腹の膨れ始めた妊婦が着ていたことを如実に物語っていた。着用して気付く膨らみの跡。
ヒガンは急いで妊婦服を脱ぎ捨てた。
ヒガンは子供が欲しかったのではなく、母になりたかった。それも、甲斐甲斐しく子供の世話を焼く理想の母親に。子供の存在はその引き立て役だ。
そして賞賛を得たかった。誰かから『あなたは良い母親だ。良い母親とはあなたのようにあるべきだ』と称えられたかった。
だが、クコを手に入れ、屋敷に住まわせてみて後悔した。この子に魅せられれば二度と関わりを断ち切れない、と直感が告げた。
クコは外見もその精神もあまりに美しかった。引き立て役になど決してならない子だと気付いた。
自分はクコの母親にはなれない。畏れ多いからだ。
クコに愛情を注ごうとすればきっと、我に返った時には自分はクコという少女の信奉者となっているだろう。その時には後悔するだけの理性も残っておらず、それを光栄だとさえ思っているのではないか……。
底が知れない少女をこれ以上手元に置きたくはないけれど、一度欲しがったものを放り出すのはそれこそヒガンの理想像に反していた。
加えて、丁度良く優越感に浸るための踏み台になってくれていたソラを失ってしまったこともある。
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