少女の秘める魔法の正体

 母が亡くなって以来、兄は抜け殻になった。

 部屋の隅で毛布を被り、一日中泣きながら膝を抱えている。母と同じにきらきら輝いていた星の瞳が、いまは鈍くよどんでいた。私の声も届いてはいまい。

 母の葬儀は村の大人が手伝ってくれた。

 私は、家々の一軒ずつを陳謝ちんしゃして回っては、みなしごに対しての憐憫と支援、助言と、ささやかな嫌味とを受け取った――「母の喪に服する気が無い」「泣きもしないな」「気丈というより、薄情すぎやしないか」と、そういうものを。

 きっとこれは、双子でこそ叶う生存戦略だ。

 私と兄、ふたりが別々の特質を持つのなら、どんな変化に見舞われようともどちらかは適応できる。大丈夫なほうが、大丈夫でない方を支えて、辛い時期をしのげばいい。

 こんな不幸で役に立つ様な代物など。私が日の目を見る機会など、一生来なくてよかったけれど。


 ある日家を訪れた知らない男は、私達の父親を名乗った。

 私達双子の出生について、母は多くを語らなかった。「一夜の火遊びだ」と囁き、にやりと笑っていたのを憶えている。

 真偽を確かめる術は無い。母はもう、何も語ってくれない。

「兄さん、さようなら。……ご飯、食べてくださいね。身体を壊してはいけませんから」

 私達は離れ離れになる。

 兄は他人と言葉を交わせる状態ではない。食も細く、口元に差出した粥を辛うじて食べてくれるような状態だ。

 生きることすらおぼつかない兄を残していくのは嫌だった。養子というなら兄の後見人を早急に募り、然るべき環境へお願いしてから考えることだろう。

 けれど抗議は聞き入れられなかった。

 私は子供で、扶養される立場で、これから他人に迷惑をかける穀潰しだった。扶養を引き受けるというその大人はただ、私に荷造りを急かした。

 私にとっての幸いは、兄の後見人を希望する人間は大挙して押寄せると、大人が断言したこと。

――あの兄に話をつけ、同意を得た上で引き取れる人がいるのなら、兄の心を気遣ってくれる優しい人に違いない。

 虫のいい想像が現実となることを、故郷から離れていく汽車に揺られながら、ただ、祈るしかなかった。


 雪一面の車窓は、茶けた土が薄く透けだし、白が減り、街並みに彩られた。

 汽車から降り立った石の地面が、大気を冷し凍らせる温度とはかけ離れてあたたかで、ひどく驚いたことを覚えている。


 手を引かれた先の屋敷で、離れの屋根裏部屋へと通された。

 一通りの生活に困らない家具と、統一感のない本の山が部屋の隅に並んでいた。書庫から溢れた本を避難させる物置だったのだと、男は言った。

 豪奢な門構えと縁遠い質素な空間は、慣れ親しんだ空気に近くてほっとした。

「すみません。荷物は、――」

 二の腕を強く掴まれた。


 背中に柔らかい感触がある。寝台に放り投げられたか、引き倒されたかも分からない。

 一面に見えるのは天井ではなく、私に覆い被さる男の姿。

 視界の端、窓の外の桜が、蕾を丸く膨らませていた。

「……音羽。やっと、手に入れた」

 それは母の名だった。

 私と母は同じ顔をしていた。私は恐らく母の代用品として求められたのだと解った。

 それならば。私がするべきことは、


「『そんなに僕が欲しいのか』」


 私は――『母』は。抱き締める手に応えようともしなかった。

 声は柔らかなほうかも知れない。しかしそれも、薄氷の上に立っているだけ。偽物の優しい声は虚ろで、寒々しさは意図的だ。

 自分の喉から出た声を、しばらく理解できなかった。

 母が何を怒る声より、なにものをも寄せ付けない――拒絶。

 どんな相手に対してなら、こんな声が出るのだろう。刃を向けられているのは私ではないと分かっているのに、怖い。

「ああ、ああ。そうだ。……音羽、今度こそ、俺と一緒になってくれるよな。だって俺達はあんなに愛を確かめあった。お前は楽団を棄てて俺の子を産んでくれた――それは、俺と添ってくれるという意味だろう?」

 気づかないらしかった。この、人は。

――なんて、お目出度めでたい。

「『ふふ、そうだな。死んでもお断りだ』」

 微笑み混じりの愉しげな艶は、発する喉が凍てつきそうなほど、冷たい。


 男が顔色を失う。

 私の喉から知らない笑い声が溢れ出ていた。ひどく無邪気で愉快そうで、どこまでいってもがらんどうな、聞いたことのない高笑い。

「『思い通りにいかないと解った途端、無理矢理か。男のプライドというものは無いのか? ん?』」

「黙れ、黙れ黙れっ……!! まだそんなことを言うか! 俺は許してやっただろうが! 屋敷から逃げたのも、隠れて俺との愛を産み育てる為だと理解してやった俺が、っ……!!」

 母は薄く笑っていた。とうに恐怖など捨てていた。

 衣服を剥がされた。素肌が空気に触れる。汗ばんだ掌が首を押さえ、喉を締め上げる。

「っ……くそ。何を口答えした所で、お前が俺に抱かれることは変わりないだろうが!! そうだ。いくら憎まれ口を叩いたところで、結局お前は俺に抱かれた! 今からも、これからも、ずっとだ!! だから、だから……!!」

 ひどく静かなのだ。不思議なほど。

 胸にあるのは僅かな諦念と、眼前の激昴を眺める凪いだ気持ちと――


『「お前に僕は穢せない」』


――『そんなことも解らないか。憐れな男だ』。


 怒りのようなもの、だったのかもしれない。

 大好きな母をこんな男に触れさせてなるものかと、私情が作り出した想像だろう。私は手前勝手な傲慢で、死者の言葉を代弁した気になっているに過ぎなかった。

「どうして、だ。……お前はまた、その目で、俺を……っ!!」

 きっと、だから。どれほど体温が伴っていようと、知らない感情がこの喉を震わせようと、身のうちに在るのは母ではない。

 これは自制で自戒である。

 老若男女どんな人物にも成り代わり、多彩な感情を自身に宿して操った。未熟な私は結局、そんな魔法を継ぐ高みには至れなかったのだから。

「……ッ芸者ごときが、」

 血の味がした。痛みが追いついてから、頬を殴られたと理解する。

 男の顔が紫がかって紅潮していた。荒い息が私の肌を濡らす。脚を押さえ、下着を剥いで股を開かせる。


 ああ、なるほど。

 私は兄より、他人の意図を汲むことが下手だから。理解がすこし遅れてしまった。

「歌姫だのとちやほやされて調子に乗ったんだろう。憐れで惨めな女だよ。所詮は端金はしたがねで取引される慰みものだ。……俺は貴族だぞ。お前程度の身分の女を抱いてやっているだけ、有難がってもらわないと釣り合うものか。身の程をわきまえてから口を開けよ」

 この男は、母と同じ身目をした、従順な奴隷が欲しいのだ。

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