不遠慮

 私達を身篭みごもる前の母は、万の観客を魅了する歌姫だった。

 母は生来の表現者であり、こと言語化できない感情に込められる熱量は凄まじかった。救われない慟哭どうこくを歌ったのと同じ喉で、うら若き初恋の芽生えを描く。人格が破綻しているのかと震えた私を、母はいつもの悪戯っ子みたいな表情であやした。

 複数の人格を飼っている、というより――あらゆる属性や背景を自在に組み立て「成る」ことができた。時に物語の登場人物を身に写し、生きた感情を歌唱に織り込み発信する。

 聴衆に誘起されるのは、自身へ重ねた共感であるかもしれない。時に憧れ、時に未知の情動を「教えられる」こともある。感情の伝播および聴衆の魅了という点で、母には唯一無二の才覚があった。

 観客を一夜の物語へ誘い、舞台をまるごと魔法にかけてしまえる歌姫。

 きっと母は、歌を奏でていなければ心が死んでしまうひとだった。


 私達に歌の稽古をつけてくれる母は、いつも楽しそうに呼吸いきをしていた。だから私達も子供心に、うたに惹かれて生きてきた。

 ふたりでひとりの奏者なのだと。母はいつも、私たち双子にそう言った。


「今日の稽古はお終いにしよう、相良」


 そんな中、私ひとりだけが。

 うたを完璧な魔法たらしめる核、根幹を掴めないままの未熟者だ。


「待ってください。母さん、まだ」

「いーや、終わりだ。俺が終いだというのだから、譜面は閉じてしまえ?」

 母の手が譜面を隠す。またすこし、痩せていた。

 兄は不在だ。今朝、村の子ども達と遊ぶ約束をしていたから。

 母は「内緒だぞ」と笑って、果実の香りがする氷砂糖を、淹れたての紅茶にひとかけ落としてくれた。そうやって母は私が気に病まない形で、不出来な奏者の癇癪かんしゃくを宥める。

「無理をしてどうにかなるものでもないさ。そう落ち込んでくれるな。愛しい娘の顔が曇るのは、僕も悲しい」

「……なら、貴方の言葉をください。……母さんは何時もはぐらかすばかりで、私に何が足りないのか、明確なことを教えてくれない」

 歌詞を考えてみろという課題。習ったうたを一通りさらって考察した。

 本を読めという課題。家の蔵書は全て読み尽くし、外部から借りる依頼もしている。

 兄の歌を聴けという課題。私が教わっていないうたを、兄はたくさん歌ってくれた。私も兄が教わっていないうたを返した。

 どんな課題を達成したところで、母が物言いたげに考え込むのは変わらなかった。


 この特訓は、――兄には必要すらない補習は、兄が不在の間に行われる。私が兄に引け目を感じていることを、母は察していた。

 兄は私を褒めてくれる。高低への音域の広さと安定性、調声技術は私の方が上であるからと。けれど所詮は楽器により音域が異なるというだけだし、技術とて兄が追い越す。

 出せる音がいくら広かろうと、核が無ければ「魔法」は魔法たり得ない。

「……ぱーっと、友人と遊んで来い! それが解決への一番の近道だ!」


 その誤魔化し方は、いったい何度目ですか。



「俺は何も出来ないと思うが」

 俺の指摘は無言の首肯で全肯定された。ならどうして来た。

 少女は俯くばかりで一小節さえ歌わない。石段で膝を抱えて動かなかった。

 随分と風が冷えていた。少女の衣服も出逢った頃より厚手のものに変わっている。それほどの月日が経ったのだ。駆け足で日が傾いていく。

 まだ、少女は声を発さない。

 死んではいない筈だが。

 掴んだ腕が無機物じみて冷えきっている。そこまで思索に没入できることへの感心――驚き、か。心臓が僅かに跳ねた。少女は尚も思考の海に潜ったままだ。

 少女に頼まれ選んできた蔵書も風にさらされるばかりだ。催促もされない辺り、今日の目的は俺に講義を乞う事ではないのだろう。

「考えても無駄だ、という話じゃないのか」

 少女の肩が揺れた。

 正直なところ、少女の言うところの魔法に心当たりがなかった。歌唱の魅せ方や曲種の差こそあれ、歌唱という技術そのものに「魔法と呼べそうなもの」を付随させる奏者など不死者ばけものを除いては知らない。

 少女の兄の歌を遠くから聴いたこともあるが、少女との差異は見いだせなかった。奏者が聴衆を認識する必要があると憶測はするものの現状は誇張表現の疑惑が強い。

「……そう、言われても、困ります」

 俺の半分もない小さな背が、猫背ぎみに丸くなる。

 歌唱技術と評せるかはさて置き、少女の会得する調声技術は異質だった。別人の声に成る触れ込みの芸者とて声色が限られるのが普通だ、性差も年齢も好きに調節してしまう少女の技術は出鱈目だろう。

 それでは不足なのか。不足だから、苦しいのだろうが。

「どういうものだ。お前の言う魔法は」

「……母の、うたは。……相手の意識ごと捕らえて、見るものも聴くものも、主導権を奪うような……脳をざぶんと麻薬に漬ける、」

「物騒だな」雰囲気は解った。

「……舞台に没入させる魔法なんです。歌を聴いているだけなのに、私のしらない感情と景色が流れ込んでくる。物語を指で辿って、世界観に入り込む時の気分……とでも、言えばいいのか」

 俺は一瞬、少女の話を鵜呑みにすべきか迷った。

 主張に虚偽が無いと仮定するなら、少女の言う魔法は共感覚に近い現象と言える。しかし共感覚というのは個人の領分に留まる知覚現象であり、共感覚者同士で同じものを見ても感じ方は個々人で違う。――だが。少女の母親がやっていたのは、

 旋律を通し、共通の感情と景色を想起させる共感覚を「聴き手に伝染させる」技術。それは不死者の扱う「術式」、本物の「魔法」の領域に近い。

――少女の母親は、不死者ばけものの素養を持つ疑いがある。

 思わぬところで報告案件を見つけてしまった。気乗りはしないが仕方ない。

「お前の母親は、歌の他にも魔法をやってのけた事はあるか?」

「、……ええと、……嘘は確実に見抜きます。たまに心を読むほど、相手の感情の機微に敏い人です。継いだのは兄なので絡繰からくりは解りませんが……あとは、暮らしのお金や物資を支援してくれる妖精さんがいます」

「……妖精さん? について、何か聞いてるか」

「熱心な信者ファンの厚意だと」

「ならそれは信者の厚意だ、魔法ではない」

 情報を統合したところ可能性は半々。少女の話した共感覚の伝染以外は人間の範疇を出ない。母親が不死化変異を起こすか否かも顔を合わせれば分かるだろう。

 少女はぽそりと「すごいでしょう」と言った。「すごいな」と返すと、少女の表情は嬉しそうに華やいだ。滅多にない破顔だった。

 けれど、その笑顔はみるみるうちにしおれてしまう。背中を丸めて俯いた。

「母の後を継ぎたかった。憧れていますから。母は惜しげ無く魔法を教えてくれるのに、……ものにできないのは、私の力不足だ」

 語尾が頼りなく震える。今にも泣きそうな声だ。

 それでも、きつく唇を引き結んだ少女は、一片の涙も零しはしなかった。

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