あなたが幸せになるための朝(あした)
藤野羊
幼少編
不死
人間には、死なないものと死ぬものがいる。
死ぬ人間は、異形化を代償に力を得た短命の化生と、なみの人間に二分される。
観ている限りの数百年来、この形に変化は無い。
だが長命も悪くなかった。ひとえに人間の「暇潰しの努力」が目ざましいと評して差し支えない。食事に始まり武芸に色事、文化が育てば芸術や音楽。嗜好品から賭事まで数多の遊戯が流行り廃れて、概ねすべてを
多くの余剰を大いに謳歌し人間社会も発達した。旅芸人を称する一座の地方巡業も行われるいま、芸事は決して目新しいものではない。
こと歌唱など聴き飽いた遊戯だ。
――陽に暖められた空気を、張りのある歌声が震わせている。
森の緑が生い茂る隙間、仰ぐ晴天に薄雲がなびく。青臭い草の匂いが鼻をつき、獣道に散らばる枝葉がぱきぱきと音を立てた。
細い獣道を辿った先に、信仰の廃れた土地神の社がある。
傾斜が強い石階段は、踏みしめるごと不安定にぐらついた。苔蒸して蔦が絡まる裏手の階段を登りきれば、大抵は――しゃんと伸びた少女の背中が視界に飛び込んでくる。
歌が止まった。
陽光で藍に染まる長い黒髪。風に攫われた後髪を押さえ、少女がこちらを振り向いた。俺を見上げて金色の猫眼が瞬き、唇が動く。
「こんにちは」
「ああ。こんにちは」
俺の返答に応えてワンピースの裾を摘み、舞台挨拶じみた会釈を控えめに。
白い指から離れた布は、少女の膝を隠して翻る。齢にそぐわない
表情と声の無機質が華のことごとくを殺しているので、
少女はひとなみの人間だ。だから俺も、ひとなみの大人の振りをしている。
死なない人間――不死者は少数派だ。表向きは普通の人間の顔をして暮らしている。わざわざ異質を喧伝して殺されたがる阿呆もいない。
「質問をひとつ、よろしいですか」
「何だ」
「貴方の名前を教えてください」
本殿に続く石段へ腰を下ろすと、隙間をあけて少女も腰掛けた。頑張ればもう一人ねじ込めそうな距離感は、この少女なりの普通であるらしい。
「どういう理由だ」
「母から、森で誰と会っているのかと
「そうか」
死なない俺達とて、初めは自分が「死なないもの」とは思っていなかった。人間として名を与えられ、ほんの数十年ひとなみに生きていたこともある。
けれど今は違う。
名は、変えていくものになった。忘れていくものになった。老いず死なない人間は異質であるから。ひと所に留まらず名も姿も変えるうち、元の名への執着は消えた。
不死身の同類は呪力でわかる。時おり見掛けるそいつらとの間で呼び合う通称が、今の俺にとって最も「名前」に近い――が。
恐らくそれは少女の求める答えではない。
「マキ、だ」
人間はふつう名前がある。名前の無い人間は怪しまれる。
昨夜、血を吸った女がそういう名前をしていた。であれば自然な偽名であるだろう。
「……貴方は、女性ですか?」
「男性だ。俺が女に見えるのか」
「いいえ。貴方の声は男声とみて取れます」
「そうか」
少女は得心がいったらしく、顔色を変えずに頷き思索に潜った。長髪が風に絡め取られても気付いていない。
俺の視界に入り込む黒髪は、退けようにも指の隙間からさらさら零れた。花に似た洗髪剤の匂いが鼻をつく。埒が明かないものは放っておいた。
少女の何が退屈凌ぎになるかと言えば、身に纏う「死」とでも呼ぶべきか。
本職たる死神の
間違いかと疑った死の気配は、幾度の確認にも耐えて変わらずそこに在る。
俺の視線に気づき、少女がぱちりと瞬いた。
「すみません。次は束ねるものを持ってきます」
白く丸みのある手は、粛々と黒髪を回収した。
髪を束ねた握りこぶしを鎖骨に置いて俺を見上げる。長い髪は未だこちらに手を伸ばそうと足掻き、ぱたぱた
「切らないのか」
「はい。母と兄が、長い髪を好いているので」
「そうか」
――最も濃いのは自殺。
病死と衰弱、栄養失調。こちらは他殺か――暴行の末の撲殺。絞殺。刺殺に転落、服毒死。内臓損傷と失血は近い。そのほか数えきれない「死」の可能性が目まぐるしく映る。
「マキさん、さようなら」
「ああ。さようなら」
俺が最も縁遠いもの。
「死」からとびきり好かれた人間に、興味があった。
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