6
解っていたはずだった。
人間は、半分だけ、欠けたままでは生きられない。
去年の冬、
はじめから、間違ってた。
記憶におぼろげな死体。あの死体は誰だったろう。
美しい曲線を描く睫毛と、星の瞬く澄んだ瞳。涙の膜は朝露よりも透き通っていて、はじめからその通り象られたみたいに精緻な
おかしなくらいに目が離せない。
白い肢体の横たわる地面に、とぷとぷ、こぷりと、可愛らしい音を立てながら血が溢れていく。綺麗な手足を包み込む、柔らかい織布かなにかみたいに。
赤色に包まれたところから、細い手足の白が際立って、ひどく美しいものに変わっていく。
心を奪われた。その血の色にも、香りにも。
不思議と花の香りがした。くらくらと、何も考えられなくなる――
――ぐらりと転がる死体の顔は、怖いほどに俺だった。
あれは俺だったのかな。
「俺」は今度こそ、死ぬのかな。
きっと違わない。薄れてしまった記憶だから、わからないけれど――なんだか、その死体が
だから。あれは「俺」の死体だった。
心惹かれる。見蕩れてしまう。綺麗だなと、「私」は思う。他人事だ。その死体は自分ではないから。「私」ではないから。
ただの「もの」であり、死んだ肉であり、もう過去のもの。
「和泉! ……っ和泉! 聞こえますか!」
私を呼んでいる人がいた。
知らない人だった。すごく慌てているみたいだった。どうしたんですかなんて
その真っ白な軍服と、どちらが白いか比べてみたい。
「……和泉。よく聞いてください。とても大事なことだ」
深い墨色の瞳が私を閉じこめる。肩を掴まれる感覚に、覚えがあるような気もした。
以前に、よく似た夢でも見ていたかな。
「貴方は誰の機嫌を窺わずともいい。思う通りに生きていいんだ。強制も、矯正も。違わず不当な暴力です」
「……、」
「……貴方がもう動けないのなら、私がその暴力を討ちましょう。歩けないなら、どうかその身を預けてください。……だから、和泉、」
帰りましょうと、彼は言った。
私の居場所はここしか無いのに、どこに帰るというんだろう。
彼はきっと勘違いしていた。私とよく似た誰かを探して、間違いでここに来てしまったのだろう。人違いだと思った。
彼に教えてあげないといけなかった。これ以上、その顔が悲しく曇ってしまわないように。早くその子の所に行ってあげてと、伝えないと。
「違います……私、は」
「和泉」
違う声が割り込んできた。
布を被せられて、前が見えなくなる。
粉っぽい匂いがした。
薄く煤けた、煙たい空気の味。かさついた冷気の中に、凍る水の気配がする――しんと積もりゆく、雪の日の朝。
つめたい匂いが鼻腔に触れる。喉を通る。さっぱりとした酸素は呼吸が楽で、澄んだ空気を吸うたびに、霧が晴れていくような清涼感がある。
ゆっくりと、その布の正体を確かめた。
――隊服、だ。
「俺」が、――選んだもの。望んだもの。自分の目で見て、憧れて、追い掛けたもの。この手で掴んだもの。「俺」の手が選び取った道を、示してくれるもの。
「俺」がいる、
「大丈夫だ。もう何も、心配しなくていい」
抱き締められた。――知っている。この人の声も、温度も。みんな。
もう、諦めていたのに。
「……生きていてくれて、良かった。……安心した、」
会いたかった。「俺」を見つけてくれた。助けに来てくれた。
溢れてしまって、止まらない。夢中でしがみついた。
「ふゆべ、さぁ……っ!! 冬部さ、おれ、っおれ……!!」
力を込めてもびくともしない分厚い背中を、押しつぶすくらいくっついた。離れたくなかった。みんな俺の幻覚で、消えてしまうんじゃないかと怖かった。
力を込めすぎて震える肩を、大きな手のひらが包んでくれた。背中を支えて、子どもを落ち着かせるみたいにぽんぽん叩く。
「遅くなった。悪かった」
そんなのいらない。ありがとう。怖かった。
喉に突き上げる感情が詰まるくらい沢山あるのに、しゃくりあげるせいで言葉に出来ない。
頭を振って泣き続ける俺を、冬部さんはただ、抱き締めていてくれた。
「……ありがとう。よく、戻ってきてくれた……本当に、良かった」
彼自身の嗚咽を縫って届いた独白は、彼の中に一滴の疑念を落とした。
泣き声が薄れ、止まる。腕の中で身じろぐ子どもに冬部が疑問符を浮かべた。さほど抵抗せず解放すると、その金色の瞳が真正面から冬部を見据える。
泣き濡れて潤んだまま、涙の膜は消えなくとも、その眼差しは確かに質を変えていた。
「……ちがう、……冬部さんだけど、冬部さんじゃ、ない」
「……、? 何を、」
「冬部さんの喉だ。声だ。けど、……あなたは、違う。……冬部さんは、そういう声の出し方をしない。そんな話し方をしたことは、ない」
痩せ細った身体が、冬部から離れる――そのまま支えを失った棒切れのようにかたむいて、冬部が咄嗟に二の腕を掴んだ。
重心を預かり抱き寄せる。
腕の中で、和泉の瞼は閉じかけていた。「冬部」を見上げようとする首に力が入らない。
「あなたは……だ、れ?」
極度に消耗し尽くした身体が、問いの答えを聞くことはなかった。
金属が鳴る。冬部が和泉を抱き上げて、音の正体を確かめた。
白い隊服を纏う男が、意識の無い彼女に刃を向けていた。首を掻き切る寸前の手は憎悪に震え、表情の薄い墨色の瞳に慈悲は無い。
小刻みに震える剣は、冬部の手により首から離れた。
「武器を下ろせ。殺す気か」
「っ……和泉にこんな真似をしたものを許せとでも!!」
「……お前の激情は汲んでやる。だが」
男は――咄嗟に両腕を差し出した。
ぐったりと動かない和泉を受け止め、手放した得物が床を滑る。
「治療が先だ。お前もこれを、一刻も早く此処から出してやりたいだろう」
冬部が平坦な声とともに、剣を拾い鞘へと収めた。
痩せた手足は小枝の様だ。枷の痕に唇を歪め、男は加害者を睨み――長い逡巡ののちに捨ておいた。
息が上がり、瞳孔が開き切っている。常こそ変化の少ない表情は、明確な怒りに占められていた。
冬部の大きな手が、床に落ちた隊服の埃を払い、眠ったままの和泉に掛ける。彼自身のものである隊服は、小さな身体をすっぽりと覆った。
男はその寝顔と、目の前で己を諭す冬部とを交互に見る。迷いは少ない。
「……医務班に引渡し次第、直ぐ戻って来ますからね。くれぐれも、予定に無い行動は謹みますよう。いいですね」
「ああ。それでいい」
冬部が扉を開けた。男の足音は遠ざかっていく。
目の届く範囲までの無事を見送った五感が、意思を持った物音を拾う。
「邪魔、っするなあああ!!」
ぐちゃり。
咆哮の主を見た三白眼に、注射針の切っ先が沈んだ。
大男は引き倒され、細腕の彼女が馬乗りになる。髪を振り乱して刃物を突き刺す。
鍛えられた筋肉は裂け、血液が噴き出す。注射器を滅多刺しにする。メスを突き立てる。
首から細く血を流しながら、虚ろな彼女は凶器を探す。細い指が手探りで床を撫で――なにも見つからない。手持ちはすべて使い切っていた。
隆起した喉仏を両手で押し潰す。
「和泉を返せ」
乱れた髪が表情を隠す。長く垂れる髪の隙間から、眼光鋭く冬部を睨んだ。
「お前には余罪がある。和泉を野卑な風俗に染めたのはお前だからな。……私はお前を許さない。呪縛を解いて、今の彼女に回復するまでにどれだけの時間が必要だったか教えてやりたいくらいだ。……ここで償え。それがいい。こんな粗末な命ひとつで、神がお許しになるかは知らないけれど」
骨の軋む音がする。気道が塞ぐ。血流が止まる――
関節の太い、大きな指が動いた。自身の眼窩に突き刺さる注射器を摘む。
ぬるりと針が動く。傷口から血を零しながら、切っ先が眼球から抜けた――
時計の針を巻き戻すような光景だった。
肩。太腿。頸。刃物を抜く。注射器を抜く。からん、と落ちる。
染みた血液、破れた服のほかに、怪我の名残は見当たらない。ごく少量の血液が漏れ、床を濡らすだけ。
「……まさか――さっきの魔物は、おま」
分厚い掌は片手で充分、彼女の顔を掴んで余る。
血の赤をした三白眼が彼女を魅入って、かたちを変えていく。
「
細かな火花の朱が走る、
彼女の腕がだらりと落ちる。
小さく頷き、抵抗せず床に座り込んだ。
「……お前も和泉が欲しいのか。……そうだろうね。和泉は美しい。気持ちはわかるよ。譲って上げる気は微塵もないけど」
殺意の牙が根こそぎ抜かれていた。奇妙に穏やかな声は虚ろで、緩んだ蛇口から漏れる水のように、緩慢なことばが零れていく。
「いくら邪魔が入ろうと諦めないよ。私の命は和泉の為にある。あの美しい人形に愛を注ぐために生まれたんだ。――わたしの生命は彼に定義されている。あの声が私を虜にした。こんな感情、初めてだった。……わたしは彼の奴隷だよ。なのに主人は見てもくれない。わたしは待てのできる犬だけど、それにも限度があるだろう。
わたしは褒美が欲しい。支配が欲しい。寵愛が欲しい――あの美しい魔性のそばにいたい。彼の毒はわたしを殺す。完膚無きまで変質させるだろう。それが彼からの愛だ。……待ちきれない。待っていたよ。夢みたいな心地だ――」
「……本当にあれが毒持ちに見えるのか」
心底からの困惑が落ちた。
床に座り込んだまま話し続ける彼女をちらと見遣り、視線を外す。手を触れようとはせず距離を取り、和泉を保護し終えた男が戻ってくるのを、退屈そうに待っていた。
彼女は生かしたまま確保する段取りだ。きちんと心得ている。
「盲目にされたのは確かだろう。ある意味間違ってはいないのかも知れないが、……」
彼が顔を顰める――ひどい匂いだった。この部屋自体に人間の臭気が生臭く立ち込めている。今にも鼻が曲がりそうだ。
紫煙の方が幾らかましだと煙草を探すが、悪臭を紛らわせそうなものは見つからない。壁にもたれ、耐えるように目を伏せた。
「……彼女はとても綺麗なんだ。美しいがゆえに、触れずにはいられなかった」
長く伸びる睫毛が、不意に震えた。
意思を持って、その――言葉を垂れ流すままの彼女を、捉えた。
「とても可愛らしかった。……私が指先を動かすたびに華奢な細腰が跳ねて、晒されたお腹が動くんだ。柔い肌の下で、しなやかな筋肉が悶える様に、堪らなく興奮したよ」
語りに熱が入る。声が弾む。肉の伴った情景を想起して、彼女は頬を淡く染めた。初めての恋を知った、愛らしい少女にも似ていた。
それを見下ろす彼の顔から、一切の感情が失せていく。
「腹から腰――
「……あいにく浅識でな。芸術には
とろけたままの彼女の眼は、現実に焦点が合わない。
粗暴に髪を掴まれ、魔物の瞳が迫ろうと、見続けるのは夢だけだ。
中央を裏切り「組織」の介入を手引きした。男の処分が免れないであろうことは、男自身も納得済みだ。
組織から紹介された「彼」の記憶は、作戦が終わり次第消去されるらしい。
整った男の見目をした魔物が醸す気怠さは、人間のそれと変わらないように見えた。
『化ける不死者自体はそう珍しくない。幻術が得意な手合いは多いからな。だがそれだと、中央の監視の網に掛かるリスクが残る』
『見え方を歪める幻術とは違う――真実、骨格から好きに組み替えられる化物は俺くらいだ。最適解というのは、そういう話だろう』
魔物の術を借りながらも、彼らの存在の片鱗すら掴ませないよう。そういう工作を担う協力者であると聞いていた。
裏切り者および実行犯の責を負うのは男ひとりで、彼も組織も無関係を貫く。魔物の記憶が消えてしまえば、自身の記憶に齟齬さえ残る身で、中央からの厳しい査問に晒され続ける。
男は全てを了承した。和泉を助けられるのなら、本望ですらあると――
戻った男が、異様な「現実」に声を失くす。
空気でも吹き込んだような、膨れ上がった白い腹。四肢が見当たらない――赤い体液で覆われている、手足の有るべき床に張り付く皮と骨粉が、その答えと思われた。
呻き、啜り泣く声が響いている。
彼女は。
「それ」は、生きていた。
首から上は健常そのものに保たれている。呼吸も意識も正常かつ明瞭。光の失せた瞳から、涙が流れ続けているだけで。
「ああ、戻ったか。早いな」
底光りする赤い瞳が男を振り向く――また、姿形が変わっている。
彼の茶髪は暗がりに溶け、黒衣の装いが一層に存在感を薄めている。生気を感じない白い肌と、眉ひとつ動かない端正な顔が、異質だった。
破裂寸前の水風船が
形を変える度、内側で、ごきり、ぐちゅりと音がする。
その腹を食い破り、内側から、何かが
「問題ない。こっちも打合せ通り済んでいる」
ぱんぱんに張った肉を、革靴が真っ直ぐ踏みつけ――破けた。血が噴き出す。
腹はからっぽ、萎んだ風船と同じだった。
内臓のほとんどが破砕された空洞に、
握り潰された骨片と臓器片、脂肪、他の組織の砕片すべてが、血液と、組織液と、消化液――あらゆる体液と混ざって泡立ち、粘度をもって零れる。
はらはらと、「それ」の瞳から涙が落ちる。まだ、生きて――「生き永らえさせられていた」。
意思ある言葉かはわからない。
「いたい」と、泣いていた。
「……私はどこかで、貴方を信じていたらしい」
刃は「それ」の首を断った。
男はひどく安堵した。――一瞬あとに、
「何の真似だ」
無機質だった。感情の抜け落ちた声は、男の行動に疑問を呈している。
身構えた力みは空回った。嘘のような静けさに拍子抜ける。寸の間、安堵した様な気持ちでいた。
「抵抗の意思を折る程度に痛めつけて、生きたまま回収する算段だっただろう。俺はその約定に従っている」
――頭の芯がすっと冷える。
おかしいと思った。魔物の吐く言葉の意味を理解できない。遅れた脂汗が背を冷やす。抵抗の意思を折る程度。生きたまま。その通りだ。
その通りか?
もしかすると彼は、同じ言語を使っていないのかもしれない――
「頭は冷えたと思っていたが、まだ収まりがつかなかったのか。呆れた話だな」
剣の柄から離した手が、震えていた。
「……これでは、無理だ。いや、……貴方ならば可能なのかもわからない。ですがこれは、あまりにも、…………」
例え気休めでも、男の見慣れた死の形をなぞった。
「……これはおよそ、人の殺し方ではありません。どうか、……どうか。御容赦くださいませ」
頭を垂れた。口をついたのは懇願だった。「それしかできない」と、直感した。
「……おかしな話だな。俺は約束を違えていない。殺す気もなかった。そもそも、殺し様に人も畜生も無いだろう。そんな訳の分からない理由で、お前はそれを赦すのか」
「赦してなどおりません。私は彼の者を憎み続けるでしょう。和泉の負った傷を思う度、この怨嗟を忘れる時など一生訪れない」
――貴方は紛れもなく、人の理を外れてしまわれた御方だったのですね。
男は彼を知っていた。知っていたかもしれなかった。だからこそ、彼が魔物であると、実感していなかったのかもわからない。
直接の関わりは無かった。「昔」見覚えがあった。それだけだ。いまの彼の容姿が、本当に「彼自身のものなのか」は分からないけれど。
楽団の公演、観客席の端。女性の目を惹く物憂いた横顔は、否応無しに目立つものだったから。
「……俺は、外道になったか」
「……、」
「……無理して答えなくてもいい。そう言いたげな顔だと思っただけだ」
彼の姿を見つける時、舞台に立つ演者は和泉だった。
彼はきっと和泉の歌を知っている。問い質したかった――作戦が終われば彼についての記憶は消される。だから、その前に。
彼が男の頭を支えた。手のひらが視界を覆う。冷たい指は、案外に優しい触れ方をした。
「なら、俺の道楽は……少しは意義のあるものに成れたのかもな」
彼はそう、苦笑した気がした。
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