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トランは視線を落とす。
「まあ、どこかに記録があるらしいから、その資料を見つけ出せば済むんだけど、その資料もだれにでも見つかっちゃまずいわけで、かなり厳重に隠されているらしい。書いた本人はとっくに死んでるし、アパラチカ以外の仲間も行方知れずで、大半が既に死んだって噂もある。僕が訊いて回ったって、アパラチカ本人以外には、だれもその在処なんて教えないだろう。そもそも隠し場所を知っている人がいるのかどうかさえ、怪しい」
アミはその場ふらりとしゃがみ込んだ。島のだれかに訊けば、きっとヒントが見つかるだろうと思っていた。たとえば長老なんかがいて、アパラチカの名前を隠した資料の棚を開けてくれるとか。
「まあ、どっちにしても、解決しないといけない問題なんだけど」
遠くのほうで、雷が鳴る音が聞こえた。先ほどよりも雲が厚くなっているようだ。
「雨が降るかもしれません。少し中に入ったほうがいいでしょう」
バートの言うとおりだった。
「その石は持って行っていいよ。部屋の床に書くなら、そうしてもいいよ」
「あ、これは必要ないです。部屋にはバッグがあるので、その中に……」
アミは就活のセミナーに出かけていた。ペンとメモ用のノートは持っている。
トランはバートと一緒に、近くの部屋に入って行く。案内されていない以上、アミは自分が与えられた部屋へ戻るしかなかった。
忘れないうちに、バッグからペンとA5サイズのノートを出して、トランが書いた文字を改めて書いた。ただ、船の揺れで酔ってしまい、しばらくは横になって休むしかなかった。アパラチカとバートがうまく操縦しているのか、幸い、船が転覆するような事態にはならなかったが、雷が鳴り、雨は強くなっていた。
甲板の文字は雨で消えてしまっただろう。気分を落ち着かせると、アミはだれかの動きが聞こえはしまいかと、耳を澄ませてみる。船室に入ってしまうと、雷の音が少し聞こえたくらいで、ほとんど外の音は聞こえてこなかった。
「ちょっと!」
唐突に聞こえたのは、アパラチカの声だった。
「お皿くらい洗って、って言ったじゃないの!」
アミはびくりとしてドアを開ける。雨はまだ降っているが、早く行かないとアパラチカを余計に怒らせそうだった。
船室に戻って雨除けを探すが、傘も何もない。あの日は真っすぐ帰るつもりだったから、雨具など持ち歩いていなかった。
仕方なく、アミは走った。中から移動できるような、もう少しマシなデザインの船だとよかったのに。おそらく、普通の船は、屋根の下で移動できるだろう。だが、トランの船は、そういうデザインになっていなかった。
「自分が魔法使いだから、どうでもいいんだろうけど……」
アミは食堂へ駆け込み、怒った顔で立っているアパラチカにぶつかりそうになる。
「さっさとしてよね」
アパラチカはそれだけ言い残すと、出て行ってしまった。アミは首をかしげた。
「そういえば、ほとんど何も聞こえなかったのに、どうしてアパラチカの声だけ聞こえたんだろう」
理由はだいたい推測できていたが、アミはまだ慣れなかった。
トランが入ってくる。アミと違って、濡れネズミにはなっていないようだ。
「ああ、びしょびしょじゃないか。ちょっとその左の棚を開けて」
アミはトランに指示されるまま、茶色い棚のほうへ向かう。扉を開けると、そこには小瓶がたくさん並んでいた。
「ええと、瓶にはラベルが貼ってある。その中から、カンソウコナって書いてある瓶を探して、持ってきてくれる?」
「はい」
アミは棚の瓶のラベルをざっと見ていく。奇妙なラベルがたくさんあった。固定液、安定錠、花灰、粉末甘素、粉末揚素、液体美素、洗浄素、乾燥粉。アミは見つけた粉を手に取る。まだ読めていない、奇妙な瓶のラベルの数々は気になったが、濡れた身体が冷えてきているのも気になっていた。
「これでいいですか?」
「そう、これ。そのへんに立って」
アミが言われたとおりに立つ。トランは粉を少し手に載せた。
「そのままだよ」
白い粉は、きらきらと光を反射しているように見えた。トランは手のひらをアミのほうへさし出し、そこへ息を吹きかける。粉が空中に舞い、アミにかかる。すると、濡れていた身体が、まるで雨など降っていなかったかのように乾いてしまった。
「ありがとう」
「どういたしまして。ああ、だけど、これだと肌も乾燥するから、その対策もしないとだなぁ」
トランは、今度は自分で棚のほうへ向かった。杖を突きながら行くので、アミは自分が行ったほうがいい気がしてしまう。
「あの、わたしが行きますけど」
「あ、いや。調合しないといけないから、ダメだよ」
そう言われてしまうと、アミは引き下がるしかなかった。
皮膚が少しつっぱる感じがして、アミは顔をしかめる。トランが対処してくれるはずだ。そう自分に言い聞かせ、アミは流し台に向かった。洗いものを済ませないといけないんだった。またアパラチカに見つかる前に、アミは食器洗い用の「特性スポンジ」を手に取る。それをスポンジと呼ぶのは、少し変な感じがした。アクリルの糸か何かで編まれている。
軽く流したつもりが、意外なほどきれいに落ちる。アミは洗った器類を指定の籠に入れると、トランのところへ向かう。
「ああ、ちょうどよかった」
トランに渡された瓶には、何か液体が入っているようだ。
「これ、化粧水として使って」
「はい」
「早くしたほうがいい。さっき、乾燥粉をかけちゃったから」
アミは急いでそれを手に取り、顔につける。ついでに手の甲や、首にも。
一気に乾燥した感じが収まって、アミは首をかしげる。かなり乾いた感じがしていたにもかかわらず、一度で収まってしまったのだから。
「こんなにすぐ効くと思わなかった」
「大丈夫、僕を信用してよ」
アミは小さくうなずいた。
「これ、持っておいていいですか?」
ニキビの治療にも良さそうだ。
「もちろん。そのために、それだけあるんだから」
「ありがとうございます」
部屋に戻ろうとして、雨が降っていたのを思い出す。せっかく服が乾いたのに、またびしょ濡れになっても、おもしろくない。アミは少しだけドアを開け、外の様子を見る。相変わらず、雨は降り続いている。
「ああ、そうか」
トランは小さく呟くと、アミのほうに軽く手をかざした。
「アカンナミ、アマデーガス、ヴァイトラン」
アミは目を見開くと、外へ手をさし出してみる。雨は降っていたが、手には水滴が当たらない。
「え? 今の言葉で雨を避けられるんですか?」
「ああ、いや。使い手によって<言葉>は少し変わるから、文法を覚えてからのほうがいいよ」
アミは少しがっかりしつつも、トランにお礼を言って部屋に戻る。よく魔法の呪文で、一言で発動するようなファンタジーがあるが、どうもアルテンの<言葉>は、そんなに甘くはないようだった。発音は確かに、日本語のそれに近く、音そのものは聞き取れるが、意味はさっぱりわからない。アミはまだ、アルテン語を学び始めたばかりだ。
いつまでもスーツを着ているのは、つらかった。トランのお陰で少しは気にせずに過ごせるものの、窮屈な感覚はどうしても否定できなかった。その夜、身支度を整えたアミは、寝るときだけでも、とスーツの上下を脱いで寝てしまう。
それから2日間、アミはトランから文字を学びながら、船上の家事を率先してやっていた。トランは必要ないと言ったが、アパラチカが許さなかった。
それでも、アパラチカの機嫌は良くならない。原因がわからないまま、アミはすっかり途方に暮れていた。バートも同情するような視線をアミに向けてくる。
一方、顔のニキビは少しずつ良くなっていった。ただ、何が足りないのか、完全には治らず、トランも首をかしげてしまう。
「僕ができる限りの魔法を試してはいるんだけど、やっぱりヴァーミアの魔法が効いてるみたいだな」
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