第一章 ヒーレンヴィルナの人工精霊

1.真っ赤なアレが飛んでくるのです

 こんな状況になれば、さすがに避けるのも面倒になります。

 春の心地よい風が吹く、清々しい朝だというのに、まったくもって面倒なのです。

 だからと言って、私は生来の『メンドクサガリ』と言うわけではありません。どちらかと言えば、マメな方だと認識しています。

 まだ、おばあちゃんが生きていた頃は、言いつけに従って、毎朝かかさず黒フサスグリの木に水をやっていましたし、夕方には家の前に灯す篝火かがりびにオイルを継ぎ足すことも、きちんとこなしていました。

 そうです。ちゃんと意味があって、因果応報にもとづく結果が伴うのであれば、それは面倒なことであっても、必要なことと認識しているのです。

 それを行う事は義務であり、はたまたそれは社会的な奉仕、いや仕事と言うものにも繋がっていくのです。そんな日々の積み重ねこそが、私と世界を、より良い方向へ運んで行くと、細やかながら、信じているのです。


 ですが、これは、理に適っているとは思えません……。


 始まりは三日前のことです。

 朝の喧噪けんそうでごったがえす大学の正門をくぐり抜け、右手の植物園からお花の香りを頂きながら、まっすぐに続くキャンパスのメインストリートを図書館へ向かい、歩いていたときです。

 どこからともなく、真っ赤なリンゴが、私の顔を目掛けて飛んできました。

 最初はびっくりして、右手で顔を覆い、目を瞑ってしまいました。

 しかし、リンゴの当たる気配がしません。

 あれっ? と思い、恐る恐る目を開けて、辺りを確認すると、私の背後でリンゴはコロコロと地面を転がりながら、ポワンと消えてしまいました。


 ははぁん、これは……、幻導力げんどうりょくですね。幻導力で創った幻のリンゴですよ!


 幻導力、それは魔法の様にも見えますが、決してそうではありません。これは一種の幻を操るもので、光の屈折を利用した蜃気楼に近いものです。なぜ近いかと言いますと、実は光の粒である光子を利用するのではなく、幻の粒である幻子げんしを操っているからなのです。正確には幻子を利用して、物の見え方を変更しているということになります。なので、幻導力を使って、物を動かしたり、火の玉を飛ばしたり、雷を落としたりなんて事は一切できません。幻の物体、所謂、幻導物を出現させるのが関の山です。まあ、魔法ではないので、当然と言えば当然ですが……。


 ですから、二つ飛び級で、このオボステム市立の幻導大学校に入学した私にとってみれば、こんな初歩的な幻導力を見抜く事は造作もありません。

 だからと言って、幻導物のリンゴに驚かされたことに、目を瞑るつもりもありません。

 私は頬を膨らませて、辺りを窺いました。

 すると、左手前方の実験棟と幻子力研究所の間の人込みの中に、ニヤケ顔のハル君を発見しました。

 なるほど! この幻導物のリンゴの生産者はハル君ですね!


 ハル君は、私と同じイビラガ村の出身で、ちょうど一年前に、半島統一のどさくさに紛れて、このオボステム市に潜り込んだようです。

 どういう経緯で、潜り込んだのか、詳しい事情はまだ聞いていませんが、私がこの大学に入学できたのは、少なくともハル君の計らいがあったからだと思います。北方のオーク王国出身の私たちが、大都会であるオボステム市で暮らせるなんて、村にいた頃には考えられない事でしたから。

 本来、オボステム市は独立自治を行う巨大な城塞都市で、ボアム半島随一の文化的な街として栄えてきました。しかし、戦争による分断を経て、現在はオーク王国の管理下にあります。

 政治の事は、あまり詳しくありませんが、まあ、オークによる半島統一が実現した結果、私たちが大学に通えているという事実には変わりありません。

 そういう意味においては、オーク王国に感謝しないといけませんが……、あれ? なんの話しでしたっけ? そうです! ハル君でした。


「ハル君ですね! このリンゴ!」

 私は、悪びれるわけでもなく、ニヤニヤと嬉しそうにこちらを見ているハル君の前まで行くと、右手に真っ赤なリンゴを出現させて迫りました。

「やあ、おはよう! ルリリカ・ボタニーク、相変わらず、綺麗なリンゴを出すねぇ」

「そういうことじゃ、ありません! どうして、こんなことするのです? あれ? ってか、なんでリカです?」

「うん? なんで? まあ、そうだねぇ、一応は大学という公共の場所だし、リカ氏族に敬意を払ってフルネームの方が良いかなぁ? と……」

「そうなんですか? じゃあ、私もハル君じゃなくて、ハルセダリ・レープリって、フルネームで呼んだ方がいいですか?」

「セダリ……、うーん、それはそれで、ちょっと気持ちが悪いねぇ。僕のことはハル君でいいかな? なので、僕もここでは、今まで通りルリちゃんにするよ」

 ハル君はそう言うと笑顔で続けました。

「しかし、そんなにボーっと歩いていると危ないよぉ。村と違ってここは人が多いんだからねぇ」

 それでなのですね……、先ほどのリンゴは……、いやいや口で言ってくれれば済むことじゃないですか?

「はあ、でも、リンゴは投げないでほしいですね! ビックリするじゃないですか!」

「まあまあ、そうだねぇ。じゃあ、それは謝るよ。でも、こんなところで、お互い制服姿で会うってのも、なんだか気恥ずかしくてね。どう声を掛ければ良いか迷っている間に手が出てしまっていたよ。いや、正確にはリンゴが出ていたかな?」


 ハル君はバカなことを言いますね……。しかし、まあ、なんだか気恥ずかしいのは、私も同じです。なんせキャンパスで会うのは初めてですし、なにより大学指定の制服である紺のローブをまとうハル君の姿は新鮮です。という私も色違いで女性用のアイボリーのローブを纏っているのですから、ハル君から見ても新鮮なのでしょう。

 入学前には、オボステム市内で何回かハル君にも会いましたが、その時は制服ではありませんでしたからね。

 しかし、田舎の村から出てきて、都会の大学でお互いの新しい側面を見るとは、こういうことなのでしょうか? この時の私たちには想像もできないことでしたが……。

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