第79話旧時代の生き証人

 タシタシ、頰を細いものが頰を突く感覚で、僕は眠りから覚めた。


 気持ちのいい目覚めではない。体にはダルさが残っている。


 太陽と生活を共にするゴブリンになってから睡眠不足とは縁遠い身だった僕は、前世でつけた寝不足への耐性が違う次元へ吹き飛んでいたようだ。

 

 僅かな身じろぎとともに目を強く瞑り、頬を叩く者に背を向ける。おそらく仔狼だろう。部下たちは僕より遅く起きるし、僕を起こすとも思えない。


 明確な拒絶に対しても頬を叩く者は諦めず、僕を乗り越えてまた叩き始めた。今日の仔狼は珍しくしつこい。


「やめ、ろ」


 喉が張り付いたように渇いていて、うまく声が出ない。だが、何が言いたいか理解するには十分だったはずだ。


 それでも、頬を叩く手は止まなかった。流石におかしい。事態を認識した僕は薄目を開け、そのまま絞り出すような悲鳴を上げた。


「ひっ!」


 脚を振り上げた蜘蛛と目が合っていた。昆虫と意思疎通できたことはないが、その瞬間、8つの目が僕の目を捉えていることを感じ取れた。


 悲鳴を上げた僕から蜘蛛はパッと離れる。蜘蛛が向かった先に、女がいた。


 異様な女だった。顔立ちこそ整っているが、作り物めいた白目のない瞳と、死人のように青白い肌。それらが不気味な雰囲気を醸し出し、ゴシックホラーの怪物のようだった。


 それでも、顔はまだ、まだ現実味のあるものだが、他の部分はそうでもない。極め付けは下半身。6つの目と、8つの足を持った蜘蛛の体である。ノコギリサイズの大顎は僕を容易く噛み砕きそうだった。


 ファンタジー作品ではアラクネや女郎蜘蛛と呼ばれる類の存在だ。

 

 咄嗟に杖を求めて手を動かすが、体は痺れたように動かない。加えて糸によって厳重に拘束され、天井に吊るされていた。ハンモックと呼べば聞こえはいいが、快適さに致命的な欠陥があった。


 おかげさまで視線が無駄に高い。高所恐怖症でないことに感謝した瞬間だ。


「動くな、これから、連れて行く」


 ラダカーンの発音のおかしなゴブリン語とは別の方向で拙いゴブリン語ながらもアラクネと意思疎通は可能だった。


 下半身についてる口から声が聞こえるのはなんとも不気味だが話が理解できないわけではない。


「どこに?」


 掠れた声で尋ねた僕。


「主の場所へ」


 そう言ってアラクネは8本の足を器用に動かしながら僕に近づいてくる。必死にもがいてもあとは食べるだけの状態になった僕は痺れも手伝ってまともな抵抗はできない。


 容易く捕らえられ、アラクネの腕に抱えられた。むき出しの胸が当たっているのでご褒美と言えばご褒美だが、顔の真下でキシキシと音を立てる大顎のせいで喜びも半減だ。


「自分で歩ける」


 抗議の声を聞いたアラクネはチラリと僕に視線を落とした。しかし、他に何をするでもなく、興味なさげに視線を戻した。


 アラクネに抱えられて、僕は光のない城の中を歩いていた。蜘蛛の巣だらけで、埃も積もっていたが、廊下も部屋も呆れるほど広いし、調度品も黄金の輝きを失っていない。


 今となっては蜘蛛しかいないものの、かつての繁栄は疑いようもなかった。


 連れて行かれたのは小さな部屋だった。小さいといっても、他の部屋に比べればの話だ。より正確に表現するならば常識的なサイズの扉の部屋だった。


 アラクネが軽くノックした扉が一人でに開く。鼻をついた薬品の臭いに顔を顰めた瞬間、アラクネがポイと僕を投げ捨てた。


 拘束されてまともに受け身を取れなかった僕は衝撃とともにやってきた痛みを噛み締める。


 二度とポイ捨てしないことを心に誓いながら、アラクネに恨みがましい視線を飛ばした。


 アラクネは僕などに目もくれず部屋の奥、本の積まれた山に頭を下げる。


 釣られて視線をやった僕が目を凝らすと、本の塔の間から女の姿が見えた。


 女は長い黒髪を腰まで伸ばし、作りの古いドレスを纏っていた。悪魔主義者が絶賛しそうな顔立ちは文句なしに美しいが、冷たい黒い瞳と病的なまでに白い肌が雰囲気に影を与えていた。


 最も例え女がどんな顔で、どんな雰囲気を出していようとも、化蜘蛛の城で何か小動物の物であろう目玉のついた脳味噌を握っている女に好印象を抱くはずもないのだが。


 女は全てがボロボロな城で唯一傷のない部屋の中ゆったりと腰をかけ、じっと脳を眺めていた。


 女に口を開く素振りはなかった。動こうと試みたが、蜘蛛の糸に簀巻きにされている。


 仕方なく、口火を切ることを選択した僕は、水生成の呪文で喉を潤してから話し始める。


「部下は?」


 掠れた声で僕は尋ねた。女は返答する様子を見せず、ただじっと脳を観察している。


「私の部下はどうなった?」


「あなた、名前は?」


 容姿に遜色ない美しい声だが、温かみというものがまるでない氷のような声だった。質問に質問で返すのは、と苛立ちのまま動きそうになる口を抑制し、答えを返す。


「ない、私はただのゴブリンだ」


「ふぅん」


 女が笑みを浮かべ、初めて僕に視線を合わせた。笑みと言っても優しさはかけらもない。自らに逆らう羽虫を嘲笑う残虐で、人間味に溢れた笑みだ。


 こっそりと体を動かしてみても、糸の粘着力は非常に高く身動きが取れない。


「あなた、瘴気を操作できるわね?それでただよゴブリンなんて少し虫が良すぎるんじゃないかしら」


 本当にただのゴブリンなんです。脳裏に浮かんだ叫んで命乞いをする姿を打ち消した。命乞いをして許してくれる相手には見えない。


 待て待て、僕は自分に呼びかけた。冷静に考えろ。瘴気を操れるようになったのは邪神と接触してからだ。双方になんらかの関係があるのは自明。


 となれば僕は全方位に喧嘩を売っていそうなあの神の一味であると結論付けられる可能性がある。


「しょうき……?ゴブリンにしては珍しく正気を保っていると自認しているが、だからなんだというんだ?」


「フッ、ククク」


 呆れの色を強めた女は声を立てて笑い出す。


「本当に愚かな生き物というのは哀れね。自分が何語を話しているかすら把握していないなんて」


「何を言って……」


 話しながら口元に手をやった僕は自分の唇がゴブリン語を話していないことに気付いた。


「嘘だろ」


 意識してゴブリン語を話してみると、先ほどから使っていたのは別の言語だと理解した。女が僕の質問に答えなかったのはそれが何を言っているか、理解できなかったからだったのだ。


「どうやら、本当に気付いていなかったみたいね。言語というのはあなたが思っているより強い。呪文を行使するだけではなく、魂を変形しより高次に引き上げる力がある。言語の習得が容易にできた経験は?」


 記憶を探るまでもなく直近に経験があった。


「確かにある」


 コボルトの言葉を勉強した時だ。吸収が速かったのは単にゴブリン語と似ているためだと思っていたが。もっと考えればゴブリンの言語の習得も速かった。一月だ。赤子の脳の柔らかさだけでは説明できない。


「それは上位の言語を理解していたからよ。あなたが今操っている言語は邪神による古く神聖な言葉。それが使えるなら魔族の言葉なら大抵はすぐに話せるようになるわ」


 へぇー、そうなんだ。などと無邪気に感心できればどれほど良かっただろうか。この流れはまずい。邪神の言語がなぜ話せるかと訊かれたらなんと返せばいい。


 邪神の言語を話す彼女が邪神の敵対者であるという線は薄くなったが、使徒として扱われるのも避けたい。


「もう一度だけ聞くわ。あなたの名前は?」

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